原色の不在証明
第一章 灰色の砂時計
氷室朔(ひむろ さく)の世界は、常に濁っていた。
古書店の片隅、埃っぽい陽光が差し込むカウンターで、彼は客の背中を見送る。老人の肩には、安堵の橙と寂寥の藍が混じり合った、くすんだ茶色が漂っていた。朔の目には、人の感情がそんなふうに、決して混じり合うことのない絵の具を無理に混ぜたような、淀んだ合成色として映る。喜びの黄色も、怒りの赤も、その原色を見たことは一度もなかった。
彼の店の一番奥、誰の目にも触れない棚の上に、一つの砂時計が置かれている。『虹彩の砂時計』。祖父の遺品で、本来なら無数の色の粒が感情の原色を映して落ちるのだという。だが、朔が物心ついた時から、その中の砂は全てが重たい灰色に澱み、一粒たりとも落ちたことはなかった。止まった時間そのもののようだった。
店の扉についた古びた鈴が、からん、と乾いた音を立てた。入ってきたのは、いつもの客ではない。トレンチコートの襟を立てた女性。彼女の周囲には、焦燥の赤茶と使命感の濃緑が渦を巻き、緊張感で空気が張り詰めるのが肌で感じられた。
「氷室朔さん、ですね」
霧島響子と名乗った刑事は、鋭い視線で店内を見回した。
「連続殺人事件の件で、少しお話を伺いたい」
世間を騒がせる猟奇的な事件。被害者たちは皆、死の直前に奇妙な『共有夢』を見ていたという。既知の、過去の死を追体験するだけの、ありふれた現象のはずだった。だが、何かが違った。霧島の纏う色が、わずかに揺らぐ。
「被害者たちの夢に、共通して『不協和な色』が現れる、と。あなたなら、それが何か分かるかもしれない」
朔は黙って、灰色の砂時計に目をやった。彼に見えるのは、濁った色ばかり。そして時折、その濁った色彩の海にぽっかりと空いた、色の『不在』だけだった。
第二章 共有された絶望
最初の被害者は、海辺の街でひっそりと暮らす音楽教師だった。霧島に連れられて訪れた彼の家には、まだ悲しみの青と混乱の紫が混ざった重苦しい色が充満していた。遺された妻は、憔悴しきった顔でぽつりぽつりと語り始めた。
「夫は、亡くなる前の晩、夢の話を……。古い踏切事故で亡くなった少年の最期を、見たと。でも、その夢は何かおかしかった、と」
それは十年前に実際に起きた事故の夢。この世界では珍しくない『共有夢』の一つだ。しかし、彼女は続けた。
「夢の中、少年の恐怖の色とは全く違う、何とも言えない『色』があった、と。夫はそれを『心が抉られるような色だった』と……」
心が抉られるような色。朔にはその表現が理解できなかった。彼は目を閉じ、意識を集中させる。被害者が見た夢の残滓、その感情の残り香を辿る。脳裏に、錆びた遮断機、鳴り響く警報、そして迫りくる列車のヘッドライトが明滅する。少年の純粋な恐怖が、紫と黒の混じった嵐となって吹き荒れる。だが、その嵐の中心に、確かに『それ』はあった。
色ではない。
穴だ。
全ての色彩が吸い込まれる、虚無の孔。朔はその『不在』を前に、理解不能な寒気を感じた。それは、彼が他人の感情を見るたびに感じてきた、埋めようのない欠落感とよく似ていた。
「……分かりません」
朔は静かに目を開けた。
「そこには、何も。何の色も、ありませんでした」
第三章 不協和な色彩
数日後、第二の事件が起きた。被害者は、一人暮らしの若いイラストレーター。現場には、インクの匂いと、絶望が固まったような濃灰色の感情がこびりついていた。彼女もまた、あの踏切事故の『共有夢』を見ていたことが、遺された日記から判明した。
『あの色に名前をつけるなら、なんだろう。神様に見捨てられた時の色?』
日記の最後の一文が、朔の胸に突き刺さる。霧島は、苛立ちを隠せない様子で腕を組んでいた。彼女の周りの色は、疑念の焦げ茶色を濃くしていく。
「本当に何も見えないのか、氷室さん。あんたのその目が、唯一の手がかりなんだぞ」
「見えないものは、見えないんです」
朔は事件現場のアパートを出て、冷たいアスファルトの上に立った。街を行き交う人々の感情が、汚れた川のように流れ、混ざり合い、彼の視界を濁らせる。誰もが何かを抱え、何かを諦め、そうしてできた澱のような色をその身に纏って生きていた。
その濁流の中に、また、あの『穴』を感じた。
一瞬、雑踏の向こう側。人々の感情の色の隙間に、ぽっかりと空いた虚無。すぐに消えたが、朔は確信した。犯人は近くにいる。そして、犯人は感情の色を持っていないのではない。自分が『視認できない』だけなのだ。まるで、朔の目だけがその色を拒絶しているかのように。それは、生まれつき色覚を持たない者が、赤という概念を永遠に理解できないのに似ていた。
第四章 色のない雨
朔は、二人の被害者の繋がりを洗い直した。住所、職業、交友関係。どれも接点はない。だが、一つだけ奇妙な共通項が見つかった。二人とも、あの『共有夢』の元になった踏切事故の現場から、半径一キロ圏内に住んでいたのだ。
衝動に駆られ、朔はその場所へと向かった。古びた住宅街の片隅にある、今はもう使われていない踏切。十年前、ここで一人の少年が命を落とした。そして――朔の記憶の蓋が、軋むような音を立てて開きかけた。
ざあ、と冷たい雨が降り出した。
雨粒が、人々の感情の色を叩き、滲ませ、洗い流していく。世界から色彩が失われていくような錯覚。その、ほとんど無彩色になった風景の中に、一人、傘も差さずに佇む男がいた。
その男の輪郭だけが、異質だった。周囲の景色が雨に濡れて滲んでいるのに、彼だけはくっきりと存在している。そして、彼の周りには、あの『色の不在』が黒いオーラのように渦巻いていた。
朔は息を呑んだ。男が、ゆっくりとこちらを向く。その顔は、驚くほど自分に似ていた。
「やっと、気づいたか」
声は、耳ではなく、頭の中に直接響いた。雨音に混じらない、明瞭な声だった。
「ずっと、待っていたのに」
男は、悲しそうに微笑んだ。その瞬間、朔は全てを思い出した。この踏切は、少年が事故死した場所ではない。あの日、ここで死んだのは。
――僕の両親だ。
第五章 原色の告白
「お前は、僕だ」
目の前の男――朔の影とでも言うべき存在は、静かに告げた。
「お前が、あの日に捨てた、ただの感情だ」
十年前の、雨の日。幼い朔の目の前で、車が両親を撥ねた。衝撃と、悲鳴と、血の匂い。そして、なすすべもなく立ち尽くす自分を襲った、巨大な感情の津波。それは、ただの悲しみではなかった。激しい怒り。無力な自分への嫌悪。そして、世界そのものへの、底なしの絶望。
幼い朔の心は、その苛烈すぎる『原色』に耐えきれなかった。だから、切り離した。蓋をして、鍵をかけて、心の最も暗い場所に沈めた。それ以来、朔は二度と、感情の原色を見ることはなくなった。
「忘れることで、お前は自分を守った。だが、忘れられた俺はどうなる? 存在しないものにされた俺は、どうすればよかった?」
影の声は、悲痛な響きを帯びていた。切り離された感情は、長い年月をかけて自我を持ち、独立した精神体となった。そして、主に気づいてもらうために、叫び始めたのだ。
「被害者たちは、お前と同じだ。大切なものを失い、心に穴を抱えていた。だから、俺の絶望に共鳴した。俺は彼らの夢に現れ、お前に信号を送り続けた。ここにいるぞ、と。俺を見てくれ、と」
それは、殺人ではなかった。影は、彼らの魂を『絶望』で染め上げ、そのショックで心臓を止めさせていただけだった。彼らを苦しめるためではない。ただ、自分の主である朔に、自分という名の『原色』を思い出させるためだけに。
「さあ、思い出せ、氷室朔。俺の名前を。お前が俺に与えた、最初の感情の名前を」
影が手を差し伸べる。その指先から、色のない闇が滲み出ていた。
第六章 虹彩の目覚め
朔は、逃げなかった。目を閉じて、あの日の光景を、感情を、真正面から受け止めた。
父の温もり。母の笑顔。それが一瞬で奪われた喪失感。なぜ、と天を呪った怒り。何もできなかった無力感。そして、世界でたった一人取り残された、魂が凍るような孤独。それら全てが混じり合った、巨大な感情の塊。
――絶望。
その一言を心で認めた瞬間、朔の世界は一変した。
閉じていた瞼の裏で、鮮烈な光が爆ぜる。目を開くと、目の前の影を構成していた『色の不在』が、一つの色に収斂していくのが見えた。
それは、夜の最も深い水底のような、静かで、どこまでも澄んだ『藍色』だった。
生まれて初めて見る、純粋な感情の原色。それは、悲しいほどに美しかった。
「……ああ」
朔の口から、吐息が漏れる。
「君は、そんな色をしていたのか」
朔の言葉に、藍色の影は、安堵したように微笑んだ。その輪郭が、ゆっくりと光の粒子となってほどけていく。それは消滅ではなかった。長い旅を終えて、ようやく本来あるべき場所へと還っていく、安らかな解放だった。
「おかえり」
朔が呟くと、藍色の粒子は彼の胸に吸い込まれるように溶けていった。
事件は、犯人失踪のまま幕を閉じた。古書店に戻った朔を、いつもの静寂が迎える。ふと、棚の上の砂時計に目が留まった。
さらさら。
小さな音が聞こえた。灰色の塊だった砂が、色とりどりの輝きを取り戻し、一粒、また一粒と、静かに流れ落ちていた。赤、青、黄、緑。無数の原色がきらめきながら、新しい時間を刻み始めている。
窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。街を濡らしていた灰色の幕が걷れ、空には大きな虹がかかっている。世界は、こんなにも鮮やかな色に満ちていた。朔は、その全ての色を、喜びも、そしてあの美しい絶望の色さえも、これからずっと見つめて生きていくのだろう。濁った世界は終わり、本当の世界が、今、始まったのだから。