寂静を喰らう者
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寂静を喰らう者

第一章 無音の傷痕

カイの世界は、音でできていた。

街路樹は風に揺れる葉擦れの和音でその輪郭を描き、人々が交わす感情は、色とりどりの周波数となって往来を彩る。喜びは黄金色の高音としてきらめき、悲しみは藍色の低音として澱む。カイはこの音響世界で、異質な存在だった。彼は、概念を「食べる」ことができた。

手のひらに乗るほどの「希望」の概念は、夜明けの鳥のさえずりのように澄んだ味がした。それを咀嚼すると、数時間は絶望という名の不協和音が思考から消え去る。だが、その代償は重い。食べすぎれば、概念そのものに意識を乗っ取られ、カイという個人の旋律は永遠に失われる。

その日、街の広場に「それ」は現れた。

絶対的な虚無。音が欠落した、漆黒の歪み。人々はそれを「無音の穴」と呼び、恐怖した。穴の縁に触れた物売りが奏でていた「活気」の音は、悲鳴を上げる間もなく吸い込まれ、その存在ごと消滅した。世界の調律が、狂い始めている。

カイはコートのポケットに手を入れた。冷たい金属の感触が指に伝わる。「概念の羅針盤」。彼が唯一持つ、呪いであり導き手。震える指で羅針盤を取り出すと、その針は、かすかな「恐怖」の色彩を放ちながら、世界の綻びの中心を、ゆっくりと指し示し始めた。

第二章 羅針盤の震え

羅針盤が示す先は、音の波形が乱れ、不快なノイズが渦巻く街の深部だった。カイは足早に進む。彼の周囲で、世界の音は不確かに揺らいでいた。石畳を構成していた重厚な低音が時折途切れ、一瞬、足元の感覚が失われる。建物の壁面を彩っていた生活音のモザイクは、色が抜け落ちたようにくすんでいた。

「誰かが、『沈黙』を食べている」

カイは確信していた。あらゆる音の対極にあり、世界の基盤を支える最も根源的な概念。それを少しずつ削り取っている者がいる。目的は分からない。だが、このままでは世界そのものが存在という名の楽曲を奏でられなくなるだろう。

不意に、羅針盤が強く発光した。琥珀色の結晶の中で、捕らえられた「郷愁」の光がゆらめき、カイの脳内に過去の旋律を再生させる。

――幼い日の、温かなハミング。誰かの優しい手のひらの感触。それは、かつて彼が飢えのあまりに食べてしまった「家族」という概念の、消え残った残響だった。

胸を刺す痛み。それはカイ自身の音だ。彼は唇を噛みしめ、羅針盤を強く握りしめた。感傷に浸っている暇はない。羅針盤の針は今、一点を指して激しく震えている。世界の心臓部、あらゆる概念の音が生まれる場所――「螺旋の聖域」を。

第三章 螺旋の聖域

「螺旋の聖域」は、大気の振動そのものが結晶化したような巨大な塔だった。塔の表面には、古今東西のあらゆる概念が、複雑な楽譜のように刻み込まれている。近づくほどに、純粋で強力な音の奔流が全身を打ち、カイはめまいを覚えた。ここは、いわば世界の調律室。不用意に触れれば、存在そのものが別の概念に書き換えられてしまう危険な場所だ。

聖域の入り口には、門番のように揺るぎない「秩序」の音が鳴り響いていた。完璧なシンメトリーを描くその波形は、異分子の侵入を拒む鉄壁の防衛線だ。カイは逡巡の末、懐から小さな結晶を取り出した。それは彼が以前食べた「混沌」の欠片。それを口に含み、ゆっくりと噛み砕く。

ザラついた砂のような食感。無調で予測不可能なメロディが、カイの意識をかき乱す。彼はその奔放なリズムに身を任せ、一歩、また一歩と「秩序」の壁へと進んだ。完璧な「秩序」は、予測不能な「混沌」の前では無力だった。音の壁はカイの身体を認識できず、彼はまるで幻のように、聖域の内部へと吸い込まれていった。

塔の内部は、静寂に満ちていた。いや、違う。これは「沈黙」そのものだ。カイが探し求めていた、食べられ続けている根源的な概念。その濃密な気配が、塔の中心から漏れ出してきていた。

第四章 音の創造者

螺旋階段を上り詰めた先、塔の頂上はドーム状の空間になっていた。中央に浮かぶ巨大な音叉のようなオブジェ。世界の調律を司る「原初の音叉」。そして、その下に一人の女が立っていた。純白の衣をまとい、その存在からは、まるで生まれたての宇宙のような、清浄で力強い音が放たれている。

彼女は、最後のひとかけらであろう「沈黙」を、慈しむように両手で包み込んでいた。

「あなたが……」

カイが声を絞り出すと、女はゆっくりと振り返った。その瞳は、無限の楽譜を内包しているかのように深かった。

「待っていました、同類よ」

女は自らを「アルマ」と名乗った。世界の調律を監視してきた「音の創造者」の末裔だと。

「なぜ『沈黙』を?」

「破壊のためではありません。再創造のためです」

アルマの言葉は、静かなレクイエムのように響いた。

「この世界は、あまりに長く同じ旋律を繰り返しすぎた。愛も、憎しみも、希望も、絶望も、すべてが予定調和の音階に成り下がってしまった。新たな音楽は、もう生まれないのです」

彼女はカイを真っ直ぐに見つめた。

「だから、一度すべてを『無』に還すのです。『沈黙』を喰らい尽くし、この窮屈な五線譜を消し去る。そして、真っ白な静寂の上に、誰も聴いたことのない、全く新しい世界の楽曲を描くのです」

その瞳には狂気はなく、ただ、凍てつくような理想だけが宿っていた。カイは戦慄した。これは破壊だ。だが、彼女の言う創造への渇望を、カイは痛いほど理解できてしまった。

第五章 二つの食欲

「あなたも、飢えているはず」アルマの声が、カイの最も柔らかな部分を抉る。「既存の概念を食べるだけでは満たされない、根源的な渇きを。私と共に、新たな味を、新たな音を創りましょう」

その誘惑は、甘美な毒のようにカイの意識に染み渡る。だが、彼の脳裏をよぎるのは、「無音の穴」に消えた物売りの絶望の残響であり、羅針盤が時折見せる「郷愁」の温もりだった。たとえ停滞していたとしても、この世界には確かに無数の旋律があったのだ。

「断る」

カイは懐から「勇気」の概念を取り出し、一気に飲み干した。真鍮のホルンのように硬質で熱い味が喉を焼き、彼の存在の音階を一段階引き上げる。恐怖という不協和音が思考から消え、カイはアルマに向かって駆け出した。

二人の戦いは、音と音の衝突だった。アルマが放つ「必然」の旋律を、カイは「偶然」の概念を食べて回避する。アルマが奏でる「調和」の絶対的な響きを、カイは「不和」の耳障りなノイズでかき乱した。概念を食べるたびに、カイの自我は薄れていく。だが、彼は止まらない。止まれない。

ついに、カイはアルマの手から「沈黙」の最後の欠片を弾き飛ばした。それは、光を吸い込む小さな黒い宝石のように、宙を舞った。

第六章 最後の寂静

宙に舞う「沈黙」を、二人が同時に見つめる。

アルマは、それを世界の解放と呼んだ。

カイは、それを世界の終焉と恐れた。

だが、その黒い輝きを見つめるうち、カイの中に第三の感情が芽生える。それは、純粋な好奇心。そして、抗いがたい食欲だった。

――この根源的な概念は、一体どんな味がするのだろう?

世界の未来を誰かに委ねるのではない。この手で、この口で、確かめたい。

アルマが手を伸ばすよりも早く、カイは宙を蹴った。舞い落ちる「沈黙」を、その手で掴み取る。

「やめなさい!」アルマの悲鳴が、初めて不協和音を奏でた。

だが、カイはもう止まらなかった。彼は、掴んだ「沈黙」を、躊躇なく自らの口へと運んだ。

味が、しなかった。

音が、しなかった。

熱も、冷たさも、重さも、何も感じない。

ただ、無限の虚無が、カイという存在の輪郭を内側から溶かしていく。

第七章 無限の残響

カイが「沈黙」を食べ尽くした瞬間、世界から一切の音が消えた。

アルマの驚愕の表情も、螺旋の聖域も、星々の瞬きも、すべてが音を失い、意味を失い、存在の根拠を失って、真っ白な光の中へと融解していく。

カイの意識もまた、霧散した。

だが、それは終わりではなかった。

絶対的な無の中から、ぽつり、と一つの音が生まれた。それは、今まで誰も聴いたことのない、全く新しい音だった。

すると、それに呼応するように、また一つ、別の音が生まれる。

一つ、また一つと、無数の「可能性の音」が生まれ、それぞれが独自の法則と響きをもって、新しい世界を、新しい物語を、新しい旋律を奏で始めた。

カイの意識は、その無数の旋律の一つ一つになった。

ある世界で、カイはパン職人として、焼き立てのパンが奏でる「温もり」の音に耳を澄ませている。

ある世界で、カイは名もなき旅人として、まだ誰も聴いたことのない「未知」の響きを求め、荒野を歩いている。

ある世界では、アルマに似た女性と出会い、「愛」という古くて新しい音楽を、二人で奏でているのかもしれない。

無限に分岐し、無限に生まれる世界。

その始まりの光景を、ただ一人の観測者が、静かに見つめていた。

彼女が誰なのか、そして、この無数の物語のどれが真実なのかを知る者は、もういない。世界は、ただ果てしなく、鳴り響き続ける。


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