第一章 沈黙と宝石
気がついた時、水瀬湊(みなせ みなと)は静寂の底にいた。
いや、正確には音がないわけではない。風が頬を撫でる音、遠くで何かが崩れるような乾いた音、自分の荒い呼吸音。だが、それらは全て、本来あるべき最も重要な音を欠いていた。人々の声だ。
湊が立っていたのは、緩やかな丘の上だった。見渡す限り、水晶のような植物が地面から生え、空には二つの月が淡い光を投げかけている。非現実的な光景。しかし、湊の心を奪ったのは、その幻想的な風景ではなかった。
丘の麓にある小さな街路で、人々が何かを交わしていた。身振り手振りで、表情豊かに。彼らの口が動くたび、吐息と共に色とりどりの光の粒が生まれ、空中で形を結び、カラン、コロン、と軽やかな音を立てて地面に落ちるのだ。
ある男が女性に微笑みかけると、彼の口から生まれたのは薔薇色の宝石だった。それは柔らかな光を放ちながら、女性の手のひらにそっと収まった。女性がはにかむと、鈴のような銀色の結晶がこぼれた。一方で、言い争う二人の間では、黒く濁った鋭利なガラス片のような言葉が飛び交い、地面に突き刺さってひびを入れている。
ここは、言葉が物理的な形を持つ世界なのだ。
湊は理解した。そして同時に、自分の喉に走る異様な感覚に気づいた。何かを叫びたいのに、声が出ない。助けを求めようと口を開けても、ひゅっと空気が漏れるだけ。必死に喉を絞り出すと、ザラザラとした感触と共に、手のひらにこぼれ落ちたのは、意味をなさない、ただの乾いた砂の粒だった。
自分の言葉は、価値のない砂粒。その事実は、これまで生きてきた二十年間の人生そのものを突きつけられたようで、湊の胸を冷たく抉った。人に本心を伝えることを恐れ、当たり障りのない相槌と曖昧な微笑みでやり過ごしてきた日々の果てが、この無価値な砂なのだ。
絶望に膝をついた湊の前に、一人の少女が立った。歳は湊より少し下だろうか。亜麻色の髪を風になびかせ、大きな瑠璃色の瞳で、じっと彼の手のひらの砂を見つめている。彼女は何も言わなかった。ただ、その瞳には憐れみでも嘲笑でもない、深い悲しみの色が浮かんでいた。少女は湊に手を差し伸べると、ゆっくりと彼を立たせ、街の方へと導いていく。彼女の唇からこぼれる言葉もまた、形をなさなかった。彼女もまた、言葉を失った人間らしかった。
第二章 言紡ぎの旅
少女の名前はリラといった。彼女は身振りでそう教えてくれた。リラは「沈黙の民」と呼ばれる、言葉を紡げなくなった人々が暮らす集落に湊を連れて行った。そこでは、人々は落ちている言葉の結晶を拾い集め、生活の糧としていた。
リラは「言紡ぎ(ことつむぎ)」だった。彼女は、人々が捨てた言葉の結晶――道端に転がる「ありがとう」の暖かな光石や、忘れられた「愛してる」の小さなルビー――を丁寧に拾い集め、それらを組み合わせてランプや装飾品を作っていた。彼女の作業場は、様々な感情の光が混じり合い、静かながらも不思議な温かさに満ちていた。
湊は、リラのそばで暮らすようになった。声が出せない彼は、彼女の仕事を手伝うことでしか自分の存在価値を示せなかった。最初は戸惑った。他人の感情の残骸に触れることは、まるで人の心を無断で覗き見るような罪悪感を伴ったからだ。しかし、リラは一つ一つの結晶を、まるで我が子のように慈しんでいた。壊れた「希望」の結晶を丁寧に修復し、欠けた「ごめんなさい」の欠片を辛抱強く繋ぎ合わせる。その姿を見ているうちに、湊の心にも微かな変化が生まれた。
ある夜、二つの月が空に並ぶのを見上げながら、リラは一枚の石板に絵を描いて、この世界「コトノハ」の成り立ちを教えてくれた。
かつてこの世界は、人々の紡ぐ美しく力強い言葉で満ち溢れていた。言葉は橋を架け、街を作り、人々の心を繋いでいた。しかし、いつしか人々は「虚言」という、重く、内側から腐敗する鉛の言葉や、「呪詛」という、触れるものすべてを傷つける黒曜石の言葉を安易に使うようになった。それらの負の言葉は大地に染み込み、世界を汚染した。結果、多くの人々は言葉の力を信じられなくなり、美しい言葉を紡ぐ能力そのものを失ってしまったのだという。
湊は自分の手のひらを見つめた。意味のない砂粒。自分は、この世界を汚染した者たちと同じだったのかもしれない。言葉の価値を信じず、その重さから目を背けてきた。だから、この世界では砂しか生み出せないのだ。
「綺麗な言葉を見つけに行こう」。リラが、拾い集めた小さな光の結晶を並べて、そう伝えてきた。彼女は、世界が汚される前に生まれた、純粋な言葉の結晶がまだどこかに眠っていると信じていた。それらを集めれば、沈黙の民もいつか声を取り戻せるかもしれない、と。
湊は頷いた。自分がここにいる意味を見つけられるかもしれない。リラと共にいる、確かな理由が欲しかった。こうして、二人の「言紡ぎの旅」が始まった。
第三章 忘却の谷の真実
旅は穏やかだったが、世界の衰退は明らかだった。かつて言葉の力で栄えた街は廃墟となり、人々の心無い言葉でひび割れた大地が広がっていた。それでも二人は、苔むした遺跡の奥に忘れられた「友情」の琥珀を見つけ、枯れた川底で輝く「感謝」のトパーズを掘り出した。湊は、言葉の結晶に触れるたび、その温もりや重さを肌で感じ、失われた声の尊さを学んでいった。
やがて二人は、旅の目的地である「忘却の谷」にたどり着いた。そこは、世界のあらゆる負の感情が流れ着く場所だった。谷底は、人々が吐き捨てた「憎悪」「嫉妬」「裏切り」といった、おびただしい数の黒い結晶で埋め尽くされ、足を踏み入れるだけで心が凍てつくような冷気が漂っていた。
谷の中心には、小山ほどもある巨大な黒水晶が、不気味な脈動を繰り返しながら鎮座していた。
「あれが、世界を汚した元凶。全ての呪詛を生み出した『原初の虚言』」
リラが石板にそう書いた。彼女の瞳には、これまで見たことのない硬い決意が宿っていた。彼女の目的は、この巨大な結晶を破壊し、世界を浄化することなのだと湊は理解した。
しかし、湊がその黒水晶に近づいた時、彼の脳内に直接、声が響いた。それは悲痛に満ちた、助けを求める囁きだった。
『……やめてくれ……これ以上、私を傷つけないで……』
驚いてリラを振り返ると、彼女は悲しげに首を横に振った。そして、新たな事実を石板に綴り始めた。
あの結晶は、悪の根源などではなかった。あれは、かつてこの世界を創造した「原初の言紡ぎ」そのものだった。彼は、人々を幸せにするために「愛」や「希望」という最初の言葉を生み出した。しかし、人々は次第に言葉を捻じ曲げ、彼の善意を裏切り、ありとあらゆる負の言葉を彼にぶつけ続けた。原初の言紡ぎは、世界がその憎悪で壊れてしまわないよう、全ての呪詛と虚言を一身に受け止め、自らを封じ込めてあの結晶となったのだ。世界を汚染しているのは彼ではなく、谷に堆積した、人々自身の悪意だった。
「沈黙の民を救いたい」リラは書いた。「あの結晶を破壊すれば、原初の力が解放されて、みんな声を取り戻せるかもしれない。でも、溜め込まれた呪いも一緒に解き放たれる。危険な賭け。だから、外部から来た、この世界の因果に染まっていないあなたの力が必要だったの」
湊は愕然とした。リラが自分を連れてきた真の目的を知り、裏切られたという思いと、彼女の背負ってきたものの重さに言葉を失った。彼女はずっと、自分の民を救うという重圧と、世界を滅ぼしかねないという恐怖の間で苦しんでいたのだ。
第四章 はじまりの言葉
湊は葛藤した。言紡ぎを破壊すれば、リラと沈黙の民は救われるかもしれない。だが、世界は憎悪に満ちるだろう。かといって、このままでは言紡ぎは永遠に苦しみ続ける。どちらを選んでも、誰かが犠牲になる。
彼は黒水晶を見上げた。中から聞こえるのは、絶え間ない苦痛の呻き。それは、元の世界で誰にも本心を打ち明けられず、孤独に縮こまっていた自分自身の心の叫びのように聞こえた。
破壊ではない。力ずくでこじ開けるのではない。この苦しみを理解できるのは、同じように言葉に絶望した自分だけかもしれない。
湊は決意した。彼は喉に手を当て、震える唇を開いた。これまでずっと、自分の言葉は無価値な砂だと思っていた。意味などないと、自分で自分を縛り付けていた。だが、違う。意味がないのではなく、意味を込めようとしなかっただけだ。
彼は、これまでの人生で感じた全てを、声に乗せようとした。孤独だったこと。無力だったこと。そして、この世界に来て、リラと出会って、初めて誰かの役に立ちたいと願い、言葉の温かさに触れたこと。
喉からこぼれたのは、やはり砂だった。しかし、今度の砂は、ただの乾いた粒ではなかった。それは、微かな光を帯びていた。
「……あり……がとう」
掠れた、途切れ途切れの声。それは宝石のような輝きも、力強い形も持たなかった。ただ、淡く、儚く、しかし確かな温もりを持つ、真珠のような小さな光の粒だった。湊が生まれて初めて、心の底から紡いだ、偽りのない言葉。
その真珠の粒が、巨大な黒水晶にそっと触れた瞬間、奇跡が起きた。
黒水晶は砕け散るのではなく、まるで氷が溶けるように、ゆっくりと内側から光を放ち始めた。固く閉ざされていた結晶が、優しい光の奔流となって解き放たれる。原初の言紡ぎの苦しみは、湊のたった一言の純粋な「ありがとう」によって、浄化されたのだ。
谷底に堆積していたおびただしい負の言葉の結晶は、その光に触れて昇華し、無数の光の蝶となって空へと舞い上がっていく。
湊は、本当の意味で「自分の言葉」を取り戻した。隣でリラが、そっと息を呑む。彼女の唇から、小さな、しかし澄んだ光の結晶がひとつ、こぼれ落ちた。「……きれい」
世界が完全に救われたわけではないだろう。人々はまた過ちを犯すかもしれない。だが、今は確かな希望があった。湊は空に舞う光の蝶を見上げながら、このコトノハの庭で生きていくことを決めた。元の世界に帰る道を探す必要は、もう感じなかった。ここでなら、不器用な自分の言葉でも、誰かの心を温める小さな真珠を紡いでいける。そう、信じられたからだ。