第一章 覚醒の対価
冷たい石の感触で、茅野湊(かやの みなと)は意識を取り戻した。
瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、見たこともない緻密な幾何学模様が彫り込まれた高い天井。空気は乾燥し、古い羊皮紙と微かな薬草の匂いが混じり合っていた。
「お目覚めかね、迷い人」
声の方へ首を巡らす。簡素な木の椅子に腰掛け、長い白髭を編み込んだ老人が、天秤のような奇妙な器具を磨いていた。ここはどこだ、と声を出そうとしたが、喉が張り付いて音にならない。
「無理もない。魂が肉体を離れた直後は、誰もがそうじゃ。まずはこれを」
老人は、澄んだ水が満たされた銀の杯を差し出した。湊は震える手でそれを受け取り、一気に呷る。水は喉を潤し、ようやく絞り出した声は掠れていた。
「……ここは、どこですか?僕は、確か……交差点で、トラックが……」
途切れ途切れの記憶。鳴り響くクラクション。誰かの悲鳴。そして、すべてを塗り潰すような衝撃。
「ここは『記憶交換所』。そしてわしはここの主じゃ」老人はこともなげに言った。「おぬしは死んだ。そして、この『狭間の世界アムネジア』に流れ着いた。ここでは万物が、記憶を対価として取引される」
「記憶……が、対価?」
湊の眉が訝しげに寄る。老人は頷き、磨き上げた天秤を湊の前に置いた。天秤の片方の皿には、一切れの硬そうなパンが乗っている。
「おぬしは今、ひどく空腹なはずだ。その魂がエネルギーを欲しておる。そのパンが欲しくば、相応の記憶を支払ってもらおう」
馬鹿げている、と湊は思った。これは手の込んだ悪夢だ。しかし、腹の底から湧き上がる、身を焦がすような飢餓感は、紛れもない現実だった。
「……どうすればいいんですか」
「簡単じゃ。わしに、おぬしの記憶を一つ渡せばいい。思い出してみろ。例えば……昨日の夕食は何だったかな?」
老人に言われ、湊は必死に記憶を辿る。そうだ、大学の帰りに、コンビニで買ったペペロンチーノ。あの、少し油っぽくて、ニンニクの香りが強い味。
湊がそれを思い浮かべた瞬間、天秤の空だった皿に、淡い光の粒がふわりと降り注ぎ、パンが乗った皿と釣り合った。
「取引成立じゃ」
老人がパンを差し出す。湊はそれをひったくるように受け取り、夢中で齧りついた。味はなかった。ただ、空虚だった魂が満たされていく感覚だけがあった。
パンを食べ終えた湊の頭から、コンビニのペペロンチーノに関する記憶が、綺麗に抜け落ちていた。何を食べたのか思い出せない。いや、そもそも昨日、夕食を食べたという事実そのものが曖昧になっていた。
背筋に、氷のような悪寒が走った。
「この世界から……元の世界へ帰ることはできますか?」
「可能じゃ」老人は即答した。「ただし、それには途方もない価値を持つ記憶が必要となろう。世界の果てにあるという『世界の心臓』へ行けば、道が開けるやもしれん。だが、そこまでの旅路は長く、険しい。多くの記憶を支払わねばならんぞ」
湊は自分の両手を見つめた。この手で掴んできた、たくさんの思い出。友人との馬鹿話。初めて自転車に乗れた日の高揚感。そして――病室で、日に日に痩せていく母の手を握りしめた、あの温かい感触。
失いたくない。絶対に。
「行きます」湊は顔を上げた。その瞳には、恐怖を塗り替えるほどの強い決意が宿っていた。「どんな記憶を失っても、必ず帰ってみせる」
それは、この非情な市場で生き抜くことを決めた、彼の最初の宣誓だった。
第二章 虚ろなる旅路
アムネジアの風景は、色彩が褪せた古い絵画のようだった。灰色の空、枯れた大地、そして、時折すれ違う人々は皆、どこか焦点の定まらない目をしていた。
湊は旅を始めていた。『世界の心臓』を目指すという、漠然とした目標だけを頼りに。
道中の町で宿を取るには、幼い頃の運動会の記憶を支払った。リレーで転んだ、あの恥ずかしくも懐かしい思い出。それを失った瞬間、湊の心の一部が、音もなく欠け落ちた気がした。
情報を得るためには、大学の講義の記憶を売った。難解な数式を教えてくれた教授の顔も名前も、もう思い出せない。
湊は、失っても構わない記憶から慎重に切り売りしていった。しかし、旅を続けるほどに、どうでもいい記憶など一つもなかったのだと痛感させられた。一つ記憶を失うたびに、茅野湊という人間を構成していたパズルのピースが、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。
ある日、彼は泉のほとりで、虚ろな目をした少女に出会った。少女はただ、水面に映る自分の顔を無感情に見つめている。
「大丈夫かい?」
湊が声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、何も映していない硝子玉のようだった。
「あなたは……だれ?」
少女の問いに、湊は息を呑んだ。
近くの村で聞いた話によると、彼女は『虚ろ人(うつろびと)』と呼ばれる者の一人だった。生きるために記憶を売り払い続け、自分が誰であるかさえ忘れてしまった、哀れな魂の成れの果て。大切な記憶を売り過ぎると、人は存在の輪郭を失い、やがてはこの世界からも消えてしまうのだという。
湊は少女の隣に座り、自分の水筒を差し出した。
「僕は湊。君の名前は?」
「……わからない」
少女はか細い声で答えた。「でも、お母さんが、よく歌ってくれた歌があったの。それを思い出せたら……」
しかし、その歌の旋律も歌詞も、彼女の記憶からは消え失せていた。
湊は、自分の胸が締め付けられるのを感じた。彼には、絶対に失えない記憶がある。病床の母が、最後に握ってくれた手の温もりと、「あなたは、幸せに生きなさい」という言葉。その記憶だけが、今の湊を支える唯一の柱だった。
この少女のようにはならない。僕は、僕のままで必ず帰るんだ。
湊は再び立ち上がり、歩き始めた。少女の姿が、この世界の残酷さを、彼の魂に深く刻み込んだ。失うことの痛みは、持っていたことの証明だ。ならば、この痛みこそが、自分がまだ『茅野湊』であることの証なのだと、彼は自分に言い聞かせた。
第三章 世界の心臓と残酷な真実
幾多の記憶を対価に、湊はついに『世界の心臓』と呼ばれる場所にたどり着いた。そこは巨大な鍾乳洞の最奥、天窓から射し込む光が、中央に浮かぶ巨大な水晶体を照らし出している場所だった。水晶体は、まるで呼吸するかのように、淡い光を放ちながらゆっくりと脈打っている。
その水晶体の前に、一人の人物が静かに佇んでいた。それは、交換所の老人とも、虚ろ人とも違う、性別も年齢も判別できない、中性的な容姿の存在だった。
「よくぞ参りました、茅野湊」
その声は、男でも女でもなく、複数の声が重なり合ったように響いた。
「あなたが、この世界の管理者ですか。僕は元の世界に帰りたい。その方法を教えてください」
湊は、旅の目的を単刀直入に告げた。
「ええ、教えましょう」管理者は静かに頷いた。「ですが、あなたは対価をご存じのはず。帰還という、この世界で最も価値のある情報を得るには、あなたが持つ最も価値のある記憶を支払っていただきます」
その言葉は、死刑宣告のように響いた。湊が持つ、最も価値のある記憶。それは、母との最後の思い出。旅の間、心の奥底で金庫のように固く閉ざし、守り抜いてきた唯一の宝物。
「……そんな……」
湊は絶望に膝から崩れ落ちた。それを支払ってしまえば、何のために帰るというのか。母親の顔も、声も、温もりも忘れてしまった自分が、元の世界に戻って、一体何になるというのだ。
「なぜだ……なぜこんな酷いことを……」
湊の慟哭が、洞窟にこだました。
すると、管理者は哀れむような、それでいて静謐な声で、世界の真実を語り始めた。
「酷いこと、ではありません。これは救済なのです」
「救済、だと?」
「ええ。この世界アムネジアは、不慮の死を遂げた魂が、完全な消滅を迎える前に留まるための、束の間の『待合室』。あなた方が支払う記憶は、この世界を維持するためのエネルギーに変換されているのです」
管理者の言葉に、湊は思考を停止させた。
「あなたが遭った交通事故……残念ながら、あなたは即死でした。この世界に迷い込んだ魂に、『元の世界へ帰る』という希望を与えることで、我々はその魂が持つ記憶というエネルギーを効率よく収集し、この待合室を維持しているのです」
つまり、『帰還』とは、希望を持たせるための嘘。
では、本当に帰る方法とは、一体――。
「本当の意味での『帰還』とは」管理者は湊の心を見透かしたように言った。「すべてを受け入れ、死を迎え、安らかに眠りにつくこと。この世界から、完全に消滅することです」
目の前が、真っ暗になった。
帰る場所など、初めからなかった。自分の旅は、希望に向かうものではなく、ただ消滅を先延ばしにするための、無意味なエネルギー消費に過ぎなかったのだ。
支えにしてきた柱が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
「さあ、選びなさい」管理者の声が、冷たく響く。「母君の記憶を支払い、この世界を維持するために貢献するか。あるいは、その記憶を抱いたまま、いずれは『虚ろ人』となり、誰にも知られず消え去るか」
どちらを選んでも、待っているのは絶望だけだった。湊は、脈打つ水晶体を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
第四章 きみに捧ぐ最後のぬくもり
絶望の底で、湊の脳裏に、一つの光景が鮮明に蘇った。
それは、彼が絶対に手放すまいと誓った、母親との最後の記憶だった。細く冷たくなった母の手を、両手で包み込む。
『湊……あなたは、幸せに、生きなさい……』
息も絶え絶えな母の言葉。そうだ、母さんは僕に『生きろ』と言ったんだ。この虚無の世界で、記憶を失いながら、ただ彷徨い続けることが、母さんの願った『幸せな生』であるはずがない。
そして、死を受け入れ、消滅することが、母さんの願いに応えることになるのだろうか。それも違う。
湊は、泉のほとりで出会った、虚ろな目の少女を思い出していた。名前さえも忘れてしまった、あの少女。彼女もまた、誰かの大切な子供だったはずだ。
湊は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、もう絶望の色はなかった。静かで、澄み切った覚悟が宿っていた。
「わかりました。僕の、最も大切な記憶を支払います」
管理者は、意外そうな表情を浮かべた。
「ですが」湊は続けた。「この記憶は、世界を維持するためには使いません。ある人に、譲渡してほしい」
「譲渡……?記憶はエネルギーに変換されるものであり、他者へ受け渡すことなど……」
「できるはずだ」湊は、脈打つ水晶体を指さした。「あれは、記憶の集積庫じゃないんですか?なら、一つの記憶を取り出し、特定の魂に与えることも可能なはずだ。僕の死、僕の消滅を対価とするなら、それくらいの奇跡は起こせるでしょう?」
管理者はしばらく沈黙していたが、やがて小さく頷いた。
「……前例のない申し出です。ですが、あなたの魂の強さが、それを可能にするかもしれません。よろしいでしょう。その記憶、誰に渡しますか」
「名前も知らない、泉のほとりにいた少女へ」
湊は、目を閉じた。
母親の手の温もり。優しい声。「幸せに生きなさい」という最後の願い。愛されていたという、確かな実感。彼の存在の根幹を成す、温かくて、切なくて、何よりも大切な宝物。
彼は、そのすべてを、惜しみなく差し出した。
「母さん、ごめん。でも、俺、ちゃんと幸せだったよ。あなたの息子で、本当に幸せだった」
湊がそう呟いた瞬間、彼の身体が足元から光の粒子となって、ゆっくりと崩れ始めた。意識が薄れていく中で、彼は最後に微笑んだ。
その頃、アムネジアのどこかにある泉のほとりで、一人の少女が膝を抱えていた。相変わらず虚ろだった彼女の瞳が、不意に大きく見開かれる。
少女の心の中に、直接、温かい何かが流れ込んできた。それは、知らないはずの、優しい女性の声。大きな、温かい手に包まれる感触。そして、「あなたは幸せに生きなさい」という、愛に満ちた言葉。
涙が、少女の乾いた頬を伝った。それは、彼女が忘れてしまっていた、感情の雫だった。
少女は、胸に宿ったばかりの温かい記憶を、宝物のようにそっと抱きしめた。誰からもらったのかも分からない、名前も知らない誰かの大切な記憶。
彼女は立ち上がり、おぼつかない足取りで歩き出す。その瞳には、今までなかった、確かな光が灯っていた。
茅野湊という存在は、アムネジアから完全に消滅した。しかし、彼が最後に捧げた愛の記憶は、一人の少女の中で、新たな物語となって、静かに脈打ち始めたのだった。