記憶彩るアクロミア

記憶彩るアクロミア

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第一章 灰色の世界と失われた赤

古書の修復士である僕、相沢蓮(あいざわ れん)の仕事場は、時間そのものが埃となって積もっているような場所だった。革装丁の乾いた匂い、古紙のかすかな甘さ、そして膠(にかわ)を煮詰める独特の香りが満ちている。僕は、脆くなったページをそっと繕い、色褪せたインクの文字に息を吹き込むようにして、失われた物語を現代に繋ぎとめるこの仕事を、天職だと思っていた。過去は美しく、不変で、僕を裏切らない。

その日、僕が修復していたのは、来歴不明の羊皮紙の束だった。持ち主は、ただ「先祖代々のもの」とだけ言って、埃まみれの木箱を置いていった。なめらかな羊皮紙の表面を指でなぞった瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。インクの匂いが消え、代わりに無臭の空気が肺を満たす。目を開けると、そこは僕の知るどの場所でもなかった。

見渡す限りの、灰色の大地。空も、地面も、遠くに見える枯れ木のようなものも、すべてが濃淡の異なる灰色で構成されていた。音がない。風のそよぎも、鳥の声も、自分の心臓の鼓動すら聞こえないような、絶対的な静寂。まるで、世界から色彩と生命が根こそぎ抜き取られてしまったかのようだった。

呆然と立ち尽くす僕の前に、一人の少女が立っていた。彼女もまた、灰色のワンピースを着て、灰色の髪を揺らし、灰色の瞳で僕をじっと見つめていた。表情というものが、完全に抜け落ちている。

「あなたは、色を持っている人?」

少女の声は、音というより思考が直接流れ込んでくるような、不思議な響きを持っていた。僕は声を出そうとしたが、喉が張り付いたように動かない。頷くことしかできなかった。

少女は、足元に転がっていた灰色の石ころを拾い上げ、僕に差し出した。

「色を、ください。あなたの、一番最初の、鮮やかな記憶の色を」

一番最初の、鮮やかな記憶。脳裏に浮かんだのは、幼い頃、亡くなった祖母に連れて行ってもらった夏祭りの光景だった。夜の闇に映える、屋台の裸電球の暖かさ。そして、祖母がすくってくれた一匹の金魚。小さなガラスの鉢の中で、ひらひらと尾を揺らす、あの燃えるような赤色。僕の心の中で、その記憶が強く輝いた。

その瞬間、少女が持つ石ころが、内側から発光するようにして、鮮烈な赤色に染まった。それは、僕が思い浮かべた金魚の赤、そのものだった。少女の灰色の瞳に、初めて微かな光が宿る。

「ありがとう」

そう言ったと思った瞬間、僕は再び、自分の仕事場に立っていた。羊皮紙の束が、床に散らばっている。夢だったのか。だが、指先には、あの無機質な石の感触がまだ残っているようだった。

僕は、気を取り直して仕事に戻ろうと、壁に飾ってある一枚の写真に目をやった。祖母と僕が、あの夏祭りで撮った写真だ。祖母は優しく微笑み、幼い僕は誇らしげに金魚の入ったガラス鉢を掲げている。だが、僕は息を呑んだ。そこに写る金魚が、色を失っていた。周囲の屋台や人々の服は色鮮やかなままなのに、僕の記憶の中で最も鮮やかだったはずの金魚だけが、まるで古いモノクロ写真のように、灰色に褪せていたのだ。心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃が走った。僕は、ただ呆然と、色を失った思い出の欠片を見つめることしかできなかった。

第二章 記憶のパレット

あれから、僕は何度もあの灰色の世界「アクロミア」に呼ばれるようになった。きっかけはいつも同じだ。古い書物に触れ、その中に込められた誰かの強い想いに共鳴した時、僕は意識を失い、音のない無彩色の荒野に立っている。

少女はリリィと名乗った。彼女は、僕が与える「記憶の色」で、この世界を少しずつ彩っていた。最初に赤く染まった石は、今では枯れ木のような木に埋め込まれ、まるで果実のように赤い光を放っている。

「この世界は、色が死んでしまったの。だから、あなたの記憶を分けてほしい」

リリィはそう言って、僕に様々な記憶をねだった。

僕は恐怖を感じていた。大切な記憶が、色を失っていく。元の世界に戻るたび、写真や絵画、時には自分の頭の中にある風景の一部分がモノクロに変わっていることに気づき、心の一部が削り取られるような感覚に襲われた。だから最初は、失ってもいい、どうでもいい記憶から色を与えることにした。

通学路の脇に咲いていたタンポポの鮮やかな黄色。それを思い浮かべると、アクロミアの地面から、光る苔のようなものが生まれ、あたりをぼんやりと照らした。僕の記憶の中のタンポポは、アスファルトの染みのような灰色になった。

見上げた空の、突き抜けるような青色。その記憶は、アクロミアの空に淡い水色のグラデーションを生んだ。代わりに、僕の記憶の中の故郷の空は、永遠に曇り空になってしまった。

失う痛みと、世界が彩られていくかすかな喜び。その奇妙な天秤の上で、僕の心は揺れ動いていた。リリィは、色が生まれるたびに、その灰色の瞳にほんの少しずつ輝きを増していく。無表情だった顔に、時折、喜びとも驚きともつかない微かな変化が見えるようになった。彼女との交流は、僕にとって不思議な安らぎにもなっていた。過去の遺物を守るだけの僕が、新しい世界を「創造」している。その事実は、僕の心を静かに満たしていった。

「どうして、この世界は色を失ってしまったんだ?」

ある日、僕はリリィに尋ねた。僕が与えた「緑色」で生まれた草原に座りながら、彼女は静かに首を振った。

「わからない。気づいた時には、全部こうだった。でも、色があった頃は、もっと暖かかった気がする」

その言葉に、僕は胸が締め付けられるような切なさを感じた。失われたものを求める気持ちは、痛いほどわかる。だから僕は、自分の心を削ることをやめられなかった。

しかし、僕の記憶のパレットも、次第に底をつき始めていた。些細な記憶はほとんど捧げてしまった。残っているのは、家族や友人との、かけがえのない思い出ばかり。それらは、僕という人間を形成する、根幹となる記憶だ。これを失ってしまったら、僕は僕でなくなってしまうのではないか。

アクロミアは少しずつ豊かになっていく。だがその一方で、僕自身の内なる世界は、確実に色を褪せ、モノクロームに近づいていた。

第三章 アクロミアの真実

アクロミアは、僕が捧げた幾多の記憶の色によって、かつての荒野の面影がないほどに美しくなっていた。青い空が広がり、緑の草原が風にそよぎ(音はまだないが、揺らぎは見える)、色とりどりの光る花が咲き乱れている。リリィの頬には血の気が差し、灰色の瞳は深い海の青色に変わっていた。

「蓮。ありがとう。でも、まだ足りないの」

リリィは僕の手を取り、真剣な眼差しで言った。

「この世界を完全に再生させるには、最後の色が必要。最も強い感情が宿った、あなたの心の一番奥にある記憶の色が」

僕の心臓が大きく跳ねた。僕の心の一番奥にある記憶。それは、たった一つしかない。

幼い頃、病弱だった僕のために、祖母が編んでくれた毛糸の手袋。窓の外で雪が降る寒い日、僕の小さな手を包んでくれた、あの燃えるような、それでいてどこまでも優しい橙色。祖母の愛情そのものだった色。それだけは、絶対に手放すわけにはいかなかった。

「……できない。それだけは、駄目だ」

僕が絞り出した拒絶の言葉に、リリィは悲しそうに瞳を伏せた。その表情は、もはや無機質な人形のものではなく、心を痛める人間のそれだった。

「そう。あなたは、まだそうやって過去に閉じこもるのね」

「何が言いたいんだ!」

「蓮、よく見て。この世界は、本当に『異世界』だと思う?」

リリィに言われ、僕は改めて周囲を見渡した。美しい、けれどどこか作り物めいた風景。風の音も、水のせせらぎも、花の香りもない、五感のうち視覚しか満たされない不完全な世界。そして、気づいてしまった。ここに存在するすべてのものが、僕がどこかで見たことのある形をしていることに。草原の起伏は、故郷の裏山に似ている。空に浮かぶ雲の形は、子供の頃に描いた落書きのようだ。

リリィは、僕の混乱を見透かすように、静かに真実を告げた。

「アクロミアは、異世界じゃない。ここは、あなたの『未来』。あなたの心そのものよ」

頭を殴られたような衝撃。言葉の意味が、理解できない。

「あなたは、過去の美しい記憶を守ることに固執するあまり、新しい経験を、新しい感情を受け入れることを恐れている。未来へ向かうことを拒んでいる。このままでは、あなたの心は全ての感動を失い、色をなくし、やがてこのアクロミアのように、静かで、何も感じない、灰色の世界になってしまう」

彼女の言葉が、僕の心の最も深い部分を抉った。古書修復士という仕事。変わらない過去を愛し、未来という不確かなものから目を背けてきた自分。

「じゃあ、君は……リリィ、君は一体何なんだ?」

「私は、あなたが失いかけている最後のもの。新しいものに出会った時の『好奇心』、美しいものを見た時の『感動』。そういう、あなたの心の、一番純粋な部分。消えてしまう前に、あなた自身に警告するために、あなたをここに呼んだの」

僕は愕然とした。この世界は、僕自身が作り出した、心の牢獄だったのだ。そして、僕は自らの記憶を切り売りして、その牢獄を美しく飾り立てていただけだった。なんと愚かで、悲しい行為だったのだろう。

第四章 心に残る色

僕は、自分の愚かさに打ちのめされていた。過去を守っているつもりで、実は未来の自分を殺していたのだ。リリィ、つまり僕自身の純粋な心が消えてしまえば、僕の人生は本当に色を失ってしまうだろう。

「わかったよ、リリィ」

僕は顔を上げ、決意を固めていた。

「祖母の手袋の記憶を、捧げるよ」

それは「失う」ことではない。「手放す」ことで、未来へ進むための儀式なのだ。

僕は目を閉じ、心の奥底に大切にしまっていた記憶を呼び覚ます。祖母の優しい笑顔、編み物をする指先の皺、そして僕の手に嵌められた手袋の、陽だまりのような暖かさと、鮮やかな橙色。ありがとう、おばあちゃん。僕は、もう大丈夫だよ。

心の中でそう呟くと、僕の手から、眩いばかりの橙色の光が溢れ出した。光はアクロミアの空に昇り、太陽のように世界全体を照らし始める。灰色のままだった大地や空の最後の部分が、暖かな橙色に染まっていく。風が生まれ、僕の髪を優しく撫でた。花の香りが鼻をくすぐり、遠くで水の流れる音が聞こえた。世界が、生命を取り戻したのだ。

光の中心で、リリィが微笑んでいた。その体はだんだんと透き通り、光の粒子になっていく。

「ありがとう、蓮。これで、あなたの中の私も、未来も、生き続けることができる」

「リリィ!」

「忘れないで。記憶は、色を失っても、心の中で生き続ける。大切なのは、色そのものじゃない。それに宿る、温もりだから」

彼女の言葉を最後に、世界は白い光に包まれた。

次に目を開けた時、僕は仕事場の椅子に座っていた。窓から差し込む西日が、部屋を橙色に染めている。まるで、アクロミアの最後の光景の続きのようだった。

僕は、壁に飾られた祖母との写真に目をやった。案の定、僕が掲げているガラス鉢の金魚は灰色のまま、そしてもう一つ。僕が祖母の隣で、冬の日に撮った写真。そこに写る僕の手袋が、色を失い、モノクロームになっていた。

だが、不思議と悲しみはなかった。胸が締め付けられるような喪失感もない。代わりに、胸の奥には、陽だまりのような温かいものが広がっていた。リリィの最後の言葉が蘇る。――大切なのは、色そのものじゃない。それに宿る、温もりだから。

確かに、手袋の「橙色」という視覚情報は僕の中から消えた。しかし、それをもらった時の嬉しさ、祖母の愛情、手のひらに感じた温もりは、以前よりもずっと鮮明に、強く、心に刻みつけられている。色という表層を失ったことで、かえって記憶の本質である感情が、むき出しのまま輝きを増したのだ。

僕は椅子から立ち上がり、窓を開けた。夕焼けの空が、燃えるようなグラデーションを描いている。これまで、こんなにも空の色を意識したことがあっただろうか。過去の記憶ばかりを見つめていた僕の目には、映っていなかった世界。

僕は、目の前に広がるこの美しい橙色を、決して忘れないだろう。そして、これから出会うであろう、数えきれないほどの新しい色を、この心に焼き付けていこう。

古書を修復し、過去の物語を未来へ繋ぐ。その仕事の意味も、僕の中ではっきりと変わっていた。それは過去への逃避ではなく、未来を豊かにするための礎なのだと。

僕は、深く息を吸い込んだ。新しい世界の匂いがした。

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