第一章 掌中の星屑
柏木湊(かしわぎ みなと)が意識を取り戻したとき、鼻腔をくすぐったのは、埃と、甘ったるい果物が腐臭と混じり合ったような、未知の匂いだった。ざわめきが鼓膜を打つ。目を開くと、そこは活気に満ちた市場のようだった。赤茶けた煉瓦の地面、天蓋のように連なる色とりどりの布、そして行き交う人々の異様な装束。どれ一つとして、湊の知る東京の風景とは結びつかなかった。
混乱する頭で立ち上がろうとした湊の掌で、何かが不意に、脈打つように淡い光を放った。驚いて手を開くと、そこには何も無い。だが、確かに感じたのだ。温かく、懐かしい光の感触を。
「おい、そこのお前。今のは『記憶』か?」
しわがれた声に顔を上げると、フードを目深にかぶった老人が、鉤鼻の先を湊に向けていた。老人の目は、乾いた井戸の底のように暗く、それでいて貪欲な光を宿していた。
「記憶……?何を言って……」
「とぼけるな。その純度、かなりの上物だ。幸福な記憶だろう。どれ、少し見せてみろ」
老人が枯れ枝のような手を伸ばしてくる。湊が反射的に身を引くと、周囲の商人たちが好奇の視線を向けてきた。彼らの手には、大小様々な光を放つガラス玉のようなものが握られている。ある玉は炎のように赤く燃え、ある玉は深海のように静かな青色を湛えていた。そして、それらがパンや干し肉、水袋と交換されていく光景を見て、湊は理解した。この世界では、目に見えないはずの『記憶』が、通貨なのだと。
自分の掌を再び見つめる。先ほどの光は何だったのか。集中すると、脳裏に一つの情景が浮かび上がった。幼い頃、今は亡き母と二人で訪れた夏の海。打ち寄せる波の音、潮の香り、繋いだ手の温かさ。そのイメージと共に、掌が再び、星屑を散りばめたように優しく発光した。
「……見ろ、やはりだ」老人が舌なめずりをする。「それは『家族との幸福』。純度が高い。それだけあれば、一月は裕福に暮らせるぞ。さあ、売らないか?最初の客だ、色をつけてやる」
売る?この、母との大切な思い出を?
湊は愕然とした。元の世界での彼の人生は、取るに足らない、灰色の連続だと思っていた。何者にもなれず、誰かに強く求められることもない。そんな自分の人生にも、金銭的価値がつくほどの「幸福」があったというのか。
だが、それを手放すことは、自分の一部を切り売りするのに等しい行為に思えた。湊は首を振り、人々の間を縫うようにしてその場から逃げ出した。背後から「惜しいことを」「すぐに腹が減って戻ってくるさ」という声が追いかけてくる。
路地裏に身を隠し、荒い息をつく。掌の温もりはまだ残っていた。それは、この狂った世界で、湊が「柏木湊」であることの、唯一の証明だった。
第二章 琥珀色の追憶
忘却市場(アムネシア・マルクト)での生活は、湊の価値観を根底から揺さぶった。彼は元の世界での平凡な日常――友人との他愛ない雑談、仕事帰りに見上げた夕焼け、コンビニで買うアイスの味――それらが、この世界では「純度の高い穏やかな記憶」として、驚くほどの価値を持つことを知った。
最初の三日間、彼は頑なに記憶を売ることを拒んだ。だが、空腹と渇きは容赦なく彼の意志を削り取っていく。ついに彼は、市場の隅で記憶を買い取っている女商人のもとを訪れた。
「どんな記憶を売るんだい?」女は気だるげに言った。
湊は躊躇いの末、比較的どうでもいいと思える記憶を選んだ。大学時代、一度だけ話したことのある、名前も覚えていない女子学生の笑顔。その情景を思い浮かべると、掌に小さな琥珀色の光が灯った。
女は慣れた手つきで、光を水晶の小瓶に吸い取った。光が離れた瞬間、湊の頭から、その女子学生に関する全てが抜け落ちた。顔も、声も、どんな会話をしたのかも。ただ、そこに「何か」があったはずだという、奇妙な空虚感だけが残った。まるで、パズルのピースが一つ、永遠に失われたような感覚だった。
彼はその対価として、硬いパンと水を手に入れた。命を繋ぐための食事は、しかし、砂を噛むように味気なかった。
それから湊は、生きるために少しずつ記憶を売り始めた。忘れても構わないと思った、些細な記憶から。小学生の頃の運動会の記憶。初めて自転車に乗れた日の記憶。会社の同僚と交わした、当たり障りのない会話の記憶。
記憶を売るたびに、彼の生活は豊かになった。温かい寝床と、美味しい食事。しかし、その一方で、彼の内面は確実に摩耗していった。鏡に映る自分の顔が、日に日に見知らぬ他人のように見えてくる。自分が何を好きで、何を悲しいと感じるのか、その輪郭が曖昧になっていく。幸福だったはずの記憶の断片は、ただの換金アイテムに成り下がり、彼の魂は少しずつ軽くなっていた。
ある日、彼は市場で最高級品として取引される記憶を目にする。それは、誰かが「最愛の人と結ばれた日の記憶」だった。眩いほどの白金色の光を放ち、見る者すべてを陶然とさせる。その記憶は、小さな城が買えるほどの値で競り落とされていった。
湊は戦慄した。あんなにも輝かしい記憶さえ、人は手放すのか。生きるために?それとも、忘れたいほどの苦痛が、その先にあったのだろうか。
彼は自分の内にある、まだ手放していない大切な記憶に思いを馳せた。父が亡くなる間際に交わした最後の会話。初めて恋人ができた日の、胸のときめき。それらを失ったら、自分には何が残るのだろう。富と引き換えに、自分自身を売り渡し、空っぽになっていくだけではないのか。その恐怖が、冷たい霧のように彼の心を包み込み始めていた。
第三章 空っぽの器たち
湊の持つ「異世界からの純粋な記憶」は、市場で噂になっていた。ある晩、豪華な装飾が施された馬車が彼の安宿の前に止まり、一人の紳士が彼を晩餐に招待した。その男、レグルスは、このアムネシア・マルクトを実質的に支配する大富豪だった。
案内されたのは、街で最も高い塔の頂上にある、豪奢な部屋だった。壁一面に、様々な色合いの光を湛えた水晶瓶が並べられている。それは、他人の記憶のコレクションだった。
「ようこそ、柏木湊君」レグルスはビロードの椅子に腰かけ、微笑んだ。「君の記憶は素晴らしい。まるで汚染されていない源泉のようだ。ぜひ、私に譲ってほしい。君が望むだけの富と安楽を約束しよう」
彼の瞳は、市場の老人と同じ、底なしの渇望を宿していた。
「なぜ、他人の記憶を集めるんですか?」湊は尋ねずにはいられなかった。
「生きるためさ」レグルスはこともなげに言った。「我々は、記憶を消費しなければ、この存在を維持できない。新しい記憶を取り込み、古い記憶を排出する。それがこの世界での呼吸のようなものだ」
そして彼は、この世界の驚くべき真実を語り始めた。
「ここにいる者たちは皆、君と同じだよ。様々な世界から、何らかの理由でこの場所に迷い込んできた漂流者だ。私も、かつては君のような旅人だった」
レグルスは壁の水晶瓶の一つを手に取った。それは、ひときわ弱々しい、濁った灰色の光を放っていた。
「これは『絶望』の記憶だ。市場では二束三文で取引されている。なぜだか分かるかね?……誰もが持っている、ありふれた記憶だからさ。我々は皆、故郷を失い、愛する者を失い、生きるために記憶を売り払ってきた。喜びも、悲しみも、怒りも、愛も……全てをな。そして最後に残った絶望さえも手放し、完全な『空っぽの器』になるのだ」
湊は息をのんだ。市場で無気力に歩いていた人々、虚ろな目をしていた物乞いたちの顔が脳裏に浮かぶ。彼らは、記憶を全て売り払った、元・異世界人たちの成れの果てだったのだ。彼らが売る安価な悲しみの記憶は、彼らが最後に手放した魂の残骸だった。
「君が売った記憶も、無駄にはなっていない」レグルスは嘲るように笑う。「空っぽになった誰かが、それを買い、一時的な温もりを得る。他人の幸福を追体験することで、かろうじて心の形を保つのだ。だが、それは偽りの温もりだ。すぐに冷め、また新たな記憶を渇望する。永遠に満たされることのない渇きだよ」
湊は足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。自分の行為の意味を、今ようやく理解した。彼はただ記憶を売っていたのではなかった。自分の魂の欠片を、誰かの空虚を埋めるための消費物として提供していたのだ。そして、その果てにあるのは、自分自身も「空っぽの器」になるという未来。
「さあ、選びなさい」レグルスは両手を広げた。「君の一番大切な記憶を私に売れ。そうすれば、君は消費する側に立てる。空っぽの器たちを支配し、他人の人生を味わいながら、永遠に近い時を生きられる。それとも、残り少ない記憶を抱きしめたまま、あの者たちと同じように、ゆっくりと魂をすり減らしていくか」
その言葉は、湊の価値観を完全に破壊した。平凡で退屈だと思っていた自分の人生。その記憶の一つ一つが、かけがえのないものであり、自分を自分たらしめる最後の砦なのだと、失う恐怖の淵に立って初めて悟った。
第四章 物語を紡ぐ人
湊の心に、一つの記憶が鮮明に蘇った。それは豪華でも、刺激的でもない。ただ、幼い頃、風邪をひいて寝込んでいた彼のために、母が夜通し、絵本を読んでくれた記憶だった。優しい声、物語の温もり、安心感に包まれて眠りに落ちた、あの夜の記憶。それは、彼の魂の根幹を成す、最も純粋な「愛された記憶」だった。
「……断る」
湊は、はっきりと告げた。その声は震えていたが、揺るぎない決意が宿っていた。
「俺は、俺のままでいたい。たとえ貧しくても、明日飢えることになったとしても。この記憶は、俺自身のものだ」
レグルスは心底つまらなそうな顔で肩をすくめた。「愚かな選択だ。だが、それもまた君の人生だ。いずれ後悔し、私の元へ来るだろう。その時まで、君の極上の記憶は取っておいてやろう」
湊は塔を後にした。彼の足は、華やかな市場ではなく、その外れにある、打ち捨てられたような集落へと向かっていた。そこは、記憶を全て売り払い、「空っぽの器」となった者たちが、ただ時が過ぎるのを待つ場所だった。
集落の中心には、消えかけた焚き火があった。人々は虚ろな目で火を見つめている。感情も、思考も、過去さえも失った彼らは、生きる屍同然だった。
湊は、彼らの輪の中に静かに座った。そして、深く息を吸い込むと、語り始めた。
「昔、僕がいた世界には、青い海がありました。太陽の光を浴びて、きらきらと輝くんです。その波打ち際を、母さんと二人で歩いたことがあります。裸足に触れる砂は温かくて、波は冷たくて……」
それは、彼がかつて売り払おうかと考えた、母との記憶だった。彼はそれを売らなかった。その代わりに、彼はそれを「物語」として紡ぎ始めたのだ。
最初は誰も反応しなかった。しかし、湊が語り続けるうちに、何人かが虚ろな顔を、ゆっくりと彼に向けた。
湊は語り続けた。自分が失ってしまった記憶の断片を繋ぎ合わせ、時には想像を織り交ぜながら、新しい物語を紡いだ。友人たちと笑い合った放課後の教室の話。初めて雪を見た日の、息をのむような感動の話。元の世界では当たり前だった、名もなき日々の輝きを。
それは金にはならない。彼の腹を満たすこともない。虚しい自己満足かもしれない。
だが、物語に耳を傾ける「空っぽの器」たちの瞳に、ほんの僅か、色が宿ったように見えた。それは本物の記憶ではない。誰かの記憶を追体験するのとも違う。ただ、純粋な「物語」が、彼らの乾ききった魂に、一滴の雫を落としたかのようだった。
湊は悟った。記憶を失うことは、自分を失うことだ。しかし、その失った記憶さえも、物語として他者に与えることはできる。それは、自分という存在が、この世界に確かにあったという証になる。
彼はもう、元の世界には戻れないだろう。失った記憶の痛みは、一生消えないかもしれない。それでも彼は、自分の人生に初めて、確かな価値と役割を見出した。
焚き火の炎が、湊の顔と、彼を取り囲む人々の顔を照らす。彼は、忘却の果てで物語を紡ぐ人になった。それは、世界で最も孤独で、そして最も尊い仕事のように思えた。彼の物語は、誰かの魂を救うことはないかもしれない。だが、凍てついた心に、一瞬の温もりを灯すことはできる。
湊は、明日語るべき物語に思いを馳せながら、静かに微笑んだ。その顔には、かつての物憂げな会社員の面影は、もうどこにもなかった。