忘れられた空の色
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忘れられた空の色

第一章 薄れゆく街

カイは飢えていた。その飢えは、胃袋の空虚さとは違う、魂の芯が軋むような渇望だった。彼は廃墟と化した街の石畳に膝をつき、ひび割れた石にそっと唇を寄せた。

目を閉じ、息を吸い込む。

それは、食事の儀式。数百年間、この場所で踏み固められてきた人々の足音、荷馬車の轍の記憶、雨に濡れた日の恋人たちの囁き。それら無形の堆積物――「時間」そのものを、彼は啜った。風化した石のざらついた舌触りと、忘れられた歌の微かな甘みが、彼の存在を満たしていく。

カイが顔を上げた時、彼が口づけた石畳は、その色合いを失い、磨りガラスのように半透明に変化していた。かつてそこにあったはずの歴史の重みが、カイの命の糧となって消えたのだ。

見渡す街全体が、同じ病に罹っていた。建物の輪郭は陽炎のように揺らぎ、遠くの尖塔は空の色に溶け込んでいる。世界のあらゆる物質が持つはずの「記憶の重さ」が、急速に失われている。カイが食べる量など、この広大な世界の崩壊速度に比べれば、砂漠の一粒の砂を掬うようなものだ。だが、人々はそうは思わない。

彼らはカイを「時喰らい」と呼び、世界の終わりを告げる災厄として追っていた。この世界で、時間を糧とする種族の、最後の生き残りを。

第二章 追跡者の影

背後で鋭い金属音がした。カイは身を翻し、薄れゆく路地の闇へと駆け込む。追手だ。「記憶守護団」を名乗る者たちが、彼の呼気を嗅ぎつけたらしい。

「そこにいるのはわかっている、時喰らい!」

凛とした、しかし憎悪に満ちた声が響く。声の主はエリア。燃えるような赤毛を持つ、守護団の若きリーダー。彼女の瞳は、家族の記憶が薄れ、その存在さえ曖昧になった悲しみで凍てついていた。その怒りの矛先は、ただ一人、カイに向けられていた。

建物の影から影へ、カイは息を殺して逃げる。弁明の言葉は、喉の奥で意味をなさずに消えた。彼の存在そのものが、人々にとっては恐怖の証明なのだから。

角を曲がった瞬間、エリアが眼前に立ちはだかった。彼女の構える銀の槍の穂先が、カイの喉元で冷たく煌めく。

「お前のせいで、全てが消えていく」

「違う」カイの声は、長く言葉を発しなかったせいで掠れていた。「俺が食べた時間など、ほんの僅かだ。もっと大きな何かが、この世界を…」

「黙れ!」

エリアの槍が突き出される。カイはそれを身を捻ってかわし、さらに奥の、巨大な建造物の残骸――かつて「大図書館」と呼ばれた場所へと飛び込んだ。崩れかけた扉が、彼の背後で重い音を立てて閉ざされた。

第三章 時を編む砂時計

大図書館の中は、静寂と埃の匂いが支配していた。書物の大半は記憶の重さを失い、半透明のページの残像となって棚に揺れている。カイは書庫の奥深く、まるで世界から忘れ去られるのを待つかのように佇む一つの台座を見つけた。

そこにあったのは、古びた砂時計だった。だが、普通の砂時計ではない。ガラスの胴体の中には、砂の代わりに、無数の光の結晶が詰まっていた。それは、誰かの涙、初めての恋のときめき、戦士の最後の雄叫び――凝縮された過去の情景そのものだった。

『時を編む砂時計』。

カイがそれに触れた瞬間、温かい光が彼の指から流れ込み、脳内に圧倒的な記憶の濁流が押し寄せた。活気に満ちた図書館の光景。学者たちの囁き、紙とインクの香り、窓から差し込む午後の光。砂時計は、この場所が最も豊かだった頃の記憶を、カイに再生して見せたのだ。

ふと、カイは砂時計を逆さにした。すると、光の砂は重力に逆らうように、下から上へとゆっくりと昇り始めた。その光に呼応するように、周囲の半透明だった書棚や机が、束の間、確かな存在感と色彩を取り戻す。

この力があれば。

カイは確信した。自分の飢えとは比較にならない、世界の記憶を根こそぎ奪う存在がどこかにいる。そして、この砂時計は、その根源を突き止めるための唯一の道標となるだろう。

第四章 蝕む虚無

砂時計が示す光の糸を辿り、カイは世界の中心、「始まりの泉」と呼ばれる聖地にたどり着いた。かつては生命の源泉として色鮮やかな水が湧き出ていたはずの場所は、今や巨大な虚無の穴と化していた。

穴の中心で、それは蠢いていた。

定まった形を持たない、影の集合体。それは、あらゆる光を飲み込む暗黒であり、世界から記憶を凄まじい勢いで吸い上げていた。古の森が、山脈が、大洋が、その歴史を瞬く間に奪われ、白紙のキャンバスのように存在感を失っていく。あれが、真の「記憶の喰らい手」。

「…なんてこと…」

背後から聞こえたのは、エリアの震える声だった。彼女もまた、カイを追ってこの場所にたどり着いたのだ。彼女の目に映る光景は、カイへの憎しみが、いかに見当違いなものであったかを残酷なまでに物語っていた。

記憶の喰らい手は、カイがこれまで生きてきた数千年で食べた時間の総量を、わずか数分で飲み干してしまうだろう。カイの食事は物質の記憶を「薄める」だけだが、あれは存在の記録そのものを「消去」している。世界の基盤を、根こそぎ。

第五章 世界の意志

カイは覚悟を決めた。砂時計を固く握りしめ、虚無の渦へと踏み出す。

「待って、無茶よ!」

エリアの制止を背に、カイは砂時計の力を解放した。逆流する光の砂が、喰らい手に奪われた記憶を一時的に呼び戻し、抵抗を試みる。

しかし、喰らい手の力は圧倒的だった。カイが抵抗すればするほど、その巨大な影はさらに激しく記憶を貪る。カイの意識が遠のきかけたその時、喰らい手の思念が、直接彼の魂に流れ込んできた。

それは、敵意ではなかった。

それは、途方もない悲しみ。そして、新しい生命が生まれようとする、産みの苦しみだった。

『終ワラセナケレバ、始マラナイ』

『コノ記憶コソガ、世界ヲ縛ル鎖』

記憶の喰らい手。その正体は、この世界そのものが、次なる次元へと進化するために過去の重荷を断ち切ろうとする、「世界の意志」の具現だった。痛みも、過ちも、悲しみも、全てを消し去り、白紙の状態から未来を再構築しようとしていたのだ。それは破壊ではなく、あまりにも純粋で、残酷な再生の願いだった。

世界の真実を知り、エリアはその場に膝から崩れ落ちた。自分たちが守ろうとしていた記憶こそが、世界の進化を妨げる足枷だったという事実に、彼女はただ立ち尽くすしかなかった。

第六章 記憶の番人

カイは選択を迫られていた。世界の意志に従い、全てが忘れ去られた新世界を見届けるか。それとも、無意味と断じられた過去のために、世界の進化に抗うか。

彼は、静かに微笑んだ。

消え去るべき記憶など、一つもない。

喜びも悲しみも、愚かさも賢さも、その全てが積み重なって、この美しく、儚い世界を織りなしてきたのだ。

「俺が終わらせない」

カイは砂時計を天に掲げた。そして、自らの存在の核――彼がこれまで生きるために蓄えてきた、全ての時間の貯蔵を解放した。それは、彼自身の死を意味する。

彼の身体から溢れ出した膨大な時の力が、砂時計を触媒として世界中に広がっていく。喰らい手が吸い上げた記憶の奔流が、カイという新たな器へと流れ込み始めた。大地の記憶、空の記憶、生命の記憶。失われかけた全ての物語が、彼の中へと吸収され、再構築されていく。

カイの身体は眩い光に包まれ、次第にその輪郭を失っていった。彼はもはや一個の生命体ではない。彼は、この世界の全ての記憶と一体化し、新たな世界の土台そのものへと変容しようとしていた。過去を忘れ去るのではなく、過去を抱きしめたまま未来へ進むために。自らが「記憶の番人」となる道を選んだのだ。

やがて、光が収まった時、カイの姿はどこにもなかった。記憶の喰らい手も消え去っていた。

世界は白紙にはならなかった。薄れかけていた色彩が戻り、空気は澄み渡り、どこか新しく、けれど懐かしい気配に満ちている。エリアは空を見上げた。夜明けの空には、今まで誰も見たことのない、微かで温かい色が滲んでいた。それはまるで、カイが最後に食べた、あの古い石畳の記憶の色のように見えた。

彼は消えたのではない。風の中に、水の中に、石の中に、生きとし生けるもの全ての記憶の中に、偏在する存在となったのだ。

新しい世界は、忘れられた空の色の上に、静かにその歴史を刻み始めた。

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