無色の絵筆が、君のいない世界を彩る

無色の絵筆が、君のいない世界を彩る

3 4057 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

第一章 剥落する日常

「シキ、目が……また痛むの?」

硝子細工のような繊細な声が、鼓膜を震わせる。

僕は額に手を当て、深く息を吐いた。

瞼の裏で、極彩色の幾何学模様が明滅している。

視神経が焼けるような熱を持ち、脳髄を直接やすりで削られるような感覚。

「大丈夫だ。いつもの偏頭痛だよ」

嘘だ。

視界に映るすべての情報が、『過剰』なのだ。

石畳から立ち昇る瑠璃色の蒸気。

街路樹が放つ、目が眩むような新緑の光彩。

行き交う人々の肌から漏れ出す、生命という名の暖かな赤色。

ここは、すべてが『色』として可視化される世界。

そして今の僕には、そのキャンバスに空いた致命的な『穴』が見えていた。

広場の中央。

そこだけ、風景が抉り取られていた。

音もない。色もない。

ただ、そこにあるはずの空間が『欠損』している。

まるで、古い油絵の具が乾燥して剥がれ落ちたように、世界の下地である『虚無』が露出しているのだ。

「……シキ?」

エララが僕の袖を引く。

彼女の亜麻色の髪を見る。

以前はもっと深く、輝くような蜂蜜色だったはずだ。

彼女が杖を構える。

先端から琥珀色の粒子が噴き出し、露出した虚無へと向かう。

「待って、エララ。それ以上は」

「でも! このままじゃ街が『剥離』しちゃうわ!」

奔流となる魔力。

その代償は、即座に彼女の肉体に現れた。

杖を握る彼女の指先から、血色が失われていく。

肌の色が抜け落ち、骨の白さが透け、やがて陶器のように透明度を増していく。

胸が締め付けられる。

彼女は自分の『色彩』――つまり命そのものを絵の具にして、世界の穴を塞ごうとしている。

怖い。

逃げ出したい。

僕に見えている世界は、いつも情報過多だ。

人の感情の裏側にあるドス黒い紫や、嘘をつく瞬間の不快な黄緑色。

そんなノイズに押し潰されそうで、僕はいつも耳を塞ぎ、目を伏せて生きてきた。

けれど今、僕の目の前にあるのは絶対的な『無』だ。

そして、それを止めようと透明になっていく少女だ。

僕は震える手で、腰のベルトに差した一本の筆を握りしめた。

穂先が乾ききった、ただの画材。

だが、元修復師である僕の目には分かっていた。

あれは怪物じゃない。

ただの『施工不良』だ。

世界の被膜が耐用年数を超え、ひび割れているに過ぎない。

なら、適切な処理を施せば直せる。

適切な『色』さえあれば。

第二章 修復師の仕事

空間が軋む音がした。

ガラスを爪で引っ掻いたような、不快な高音が脳を揺らす。

エララの放った防壁魔法が、音もなく『吸われて』いく。

「きゃあっ!」

衝撃波に吹き飛ばされ、エララが石畳に叩きつけられる。

カラン、と乾いた音を立てて杖が転がった。

「エララ!」

駆け寄ろうとする僕の足を、恐怖が縫い止める。

あの虚無の縁(ふち)を見てしまったからだ。

あそこには何もない。

触れれば、僕という存在の輪郭線さえも溶けて消える。

足がすくむ。

喉が干上がる。

その時、倒れたエララの顔が見えた。

苦痛に歪む表情。

けれど、その瞳だけは、まだ諦めていなかった。

ふと、記憶がフラッシュバックする。

この世界に迷い込み、色の洪水に酔ってうずくまっていた僕に、彼女が差し出した花のこと。

『見て、シキ。この花の色、あなたの瞳と同じ色よ』

そう言って笑った彼女の笑顔だけが、僕にとって唯一、心地よい『色彩』だった。

あの色を守りたい。

ただそれだけの理由が、恐怖をねじ伏せる楔(くさび)になる。

僕は大きく息を吸い込み、鉄の味がする空気を肺に満たした。

「……僕がやる」

一歩、前へ出る。

『無色の絵筆』を構える。

対象を観察しろ。

ただ漫然と見るな。構造を理解しろ。

虚無の断面を見る。

周囲の色彩が断裂し、ささくれ立っている。

通常の色では馴染まない。

この世界にある『色』では、接着剤としての粘度が足りないのだ。

必要なのは、この世界の外側の理(ことわり)。

僕だけが持っている、異界の色彩感覚。

「シキ……だめ、逃げ……て」

「逃げない。これは、僕の仕事だ」

僕は筆を振るった。

絵の具なんてついていない。

だが、僕には見えている。

空気中に漂う、世界がまだ定義できていない『概念』の粒子が。

虚空を薙ぐ。

筆先が重くなる。

空間そのものをパレットにして、見えない色を練り合わせる感覚。

ビッ、と空気が裂ける音が響く。

僕が筆を走らせた軌跡に、この世界には存在しないはずの光の帯が焼き付いた。

それは、視覚情報だけではない。

焦げたキャラメルのような甘苦い匂い。

遠くで鳴る鐘のような、厳かな響き。

五感すべてに訴えかける『重厚な色』。

「な、に……これ……?」

エララが目を見開く。

虚無の進行が止まった。

僕が描いた『色』がパテとなり、世界のひび割れを埋めていく。

直せる。

僕なら、この破損を修復できる。

だが、代償はすぐに訪れた。

「ぐっ……!」

筆を持つ右腕から、感覚が消える。

見ると、僕の指先が輪郭を失い、背景に溶け始めていた。

魔力じゃない。

この筆は、描き手の『存在そのもの』を溶剤(メディウム)にして、あの高次元の色を定着させているんだ。

「シキ! やめて! あなたが消えちゃう!」

「いいんだ、エララ」

僕は笑った。

生まれて初めて、心の底から笑えた気がした。

ずっと、自分は世界からズレていると感じていた。

余計なものが見える、バグだらけの存在だと。

でも、違った。

この瞬間のために、僕の目はあったんだ。

このひび割れた世界を、繋ぎ止めるために。

第三章 君のいない世界を彩るために

空が悲鳴を上げた。

街のあちこちで、連鎖的な剥離が始まっていた。

頭上の青空に亀裂が走り、巨大な虚無が世界を飲み込もうと口を開ける。

僕のちっぽけな絵筆一本じゃ、とても追いつかない。

(部分修復じゃ間に合わない)

修復師としての冷徹な計算が、答えを弾き出す。

継ぎ接ぎは限界だ。

世界の『下地(プライマー)』そのものを、塗り替えなければならない。

人々が拒絶してきた『存在しない色』を、『根源の調和色』として世界に再定義する。

そうすれば、この崩壊は止まる。

でも、それを行うには――僕という個体すべての質量が必要だ。

僕は空を見上げた。

そこには、僕にしか見えない、美しくも恐ろしい色彩の渦が満ちている。

「エララ、よく聞いて」

僕は震えるエララの肩を抱き寄せた。

彼女の体温が、僕に残された最後の『感覚』のように愛おしい。

「これから、大きな儀式をする。世界中の色が、一度だけ混ざり合う」

「何を言ってるの……? そんなことしたら、シキは……」

「僕は、ちょっと遠くへ行くだけだよ」

嘘だ。

二度と戻れない。

僕という絵の具はチューブから絞り出され、薄く引き伸ばされ、この世界の大気そのものになる。

「シキ、嫌よ……。行かないで」

彼女の瞳から零れる涙が、宝石のような青色を帯びて地面に落ちた。

「泣かないで。せっかくの綺麗な色が滲んでしまう」

僕は彼女の涙を親指で拭った。

その指はもう、半透明になりかけていて、彼女の肌の感触さえ曖昧だった。

僕は駆け出した。

街で一番高い、時計塔の尖塔へ。

風が轟々と鳴り響く。

眼下には、灰色に沈みゆく街と、必死に生きようとする人々の煌めきが見える。

そのすべてが、守るべき『作品』に見えた。

「……最高の仕事にしよう」

僕は『無色の絵筆』を両手で握りしめた。

全身全霊、僕の記憶、感情、肉体、そのすべてを顔料に変えて。

「彩れ(カラー)!!」

叫びと共に、僕は筆を空へ突き立てた。

その瞬間、僕の体は弾け飛んだ。

痛みはなかった。

ただ、圧倒的な解放感があった。

僕という輪郭が溶け出し、風になり、光になり、音になる。

僕の目に映っていた『存在しない色』が、爆発的な勢いで世界中へ拡散していく。

ああ、見える。

人々の驚く顔。

色が戻っていく煉瓦、鮮やかさを取り戻す緑。

そして、エララが空を見上げ、僕の名前を呼んでいる姿。

僕の意識は急速に拡大し、そして霧散していく。

孤独だった僕の心は、世界のすべての色と混ざり合い、溶け合って……。

もう、一人じゃない。

僕は、この美しい世界そのものになったんだ。

エピローグ 混ざり合う色彩

朝の光が、窓辺に差し込む。

エララはゆっくりと目を開けた。

いつもの朝。

けれど、決定的に違う朝。

窓の外には、見たこともない景色が広がっていた。

空は単調な青ではない。

見たこともない、優しく揺らめく光の粒子が、オーロラのように空気に溶け込んでいる。

街路樹の緑はより深く、煉瓦の赤はより鮮烈に。

そして何より、世界は圧倒的な『調和』に満ちていた。

「……シキ」

エララは呟き、窓枠に置かれた一本の筆を手に取った。

色は失われ、白木のようになった古い絵筆。

彼はもういない。

どこを探しても、彼の姿はない。

けれど。

エララは窓を開け、深呼吸をした。

風の中に、懐かしい匂いがした。

陽だまりの暖かさの中に、彼の優しさを感じた。

街を行き交う人々が、空を見上げて微笑んでいる。

かつては『見えなかった色』が、今は誰もが当たり前に感じる『日常の色』として、世界を支えている。

彼の命が、この世界の光となり、影となり、すべての瞬間に息づいている。

「おはよう、シキ」

エララは筆を胸に抱き、涙ぐみながらも、晴れやかに微笑んだ。

彼が命を賭して修復したこの世界は、こんなにも美しい。

ふとした瞬間に煌めく、名前のない新しい色を見つけるたび、彼女は思うだろう。

愛する画家は、今日もここで生きていると。

AIによる物語の考察

### 深掘り解説:無色の絵筆が、君のいない世界を彩る

**1. 登場人物の心理**
主人公シキは、「過剰な色彩」に見舞われる孤独な視覚能力者。常に情報過多な世界で苦しんできた彼は、エララの存在を唯一の「心地よい色彩」と感じ、彼女を守るために世界の修復という使命に目覚めます。自己を「バグ」と捉えていた彼が、命を懸けて世界と一体となることで、真の存在意義と絶対的な解放感を得る心理が描かれています。エララは、シキの孤独を受け入れ、彼の犠牲と創造した世界を深く愛し、彼の存在を永遠に感じ続ける強さと受容を示します。

**2. 伏線の解説**
シキの「過剰な視界」や、後に「存在しない色」として定義される異界の色彩を操る「無色の絵筆」は、彼がこの世界とは異なる理(ことわり)を持つ「世界の修復者」であるという伏線です。エララの髪の色が「以前はもっと深く、輝くような蜂蜜色だったはず」という記述は、世界の「剥離」が既に静かに進行していたことを示唆しています。

**3. テーマ**
この物語は、「多様性の受容と共生」を哲学的なテーマとして掲げます。シキが見えていた「存在しない色」が世界の根源の調和色となることで、異なるものが新たな豊かさを生むことを示唆。また、「自己犠牲と存在意義の探求」も重要なテーマです。孤独だったシキが、自身のすべてを捧げることで世界と一体となり、真の存在意義と解放を得る過程を通じて、読者に深い感動と希望を与えます。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る