言の葉の庭と沈黙の書

言の葉の庭と沈黙の書

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***第一章 白紙の書と色なき世界***

水瀬奏(みなせかなで)の世界は、古紙の匂いと、背表紙に刻まれた金色の文字でできていた。街の片隅に佇む古書店『時紡ぎ堂』の店主である彼女にとって、現実の喧騒は遠い国の出来事のようだ。人々が交わす軽薄な言葉よりも、インクの染み込んだ紙の上で静かに眠る、忘れ去られた言葉たちの方がよほど雄弁に感じられた。

ある雨の降る午後、奏は客が持ち込んだ古書の山を整理していた。その中に、一冊だけ異質な本が紛れ込んでいた。装丁は使い古された深い藍色の革。しかし、表紙にも背表紙にも、タイトルはおろか文字一つない。好奇心に駆られてページをめくると、中もまた真っ白だった。インクの染み一つ、書き込み一つない、完全な白紙の書。まるで、これから紡がれるべき物語を、静かに待ち続けているかのようだった。

その本の、奇妙なほど滑らかな紙に指先が触れた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。古書の放つカビ臭さが鼻から消え、代わりに無臭の、真空のような空気が肺を満たす。目眩と共に、奏の意識は急速に遠のいていった。

次に目を開けた時、奏は見たこともない場所に立っていた。そこは、まるで古いモノクロ映画の中に迷い込んだかのような、色彩を失った世界だった。空は均一な鉛色で、地面には灰色の草が力なく生えている。遠くに見える森の木々も、川の流れも、すべてが濃淡の異なる灰色で描かれた水墨画のようだった。音もない。風が草を揺らす音も、川が流れる音も、鳥のさえずりも聞こえない。世界全体が、息を殺したような深い静寂に包まれていた。

呆然と立ち尽くす奏の前に、ふわりと一人の少女が現れた。色素の薄い髪も、簡素な衣服も、やはり灰色がかっている。ただ、その大きな瞳だけが、夜の湖のように深い色を湛えていた。
「あなたは、外から来た人?」
少女の声は、ささやきのようにか細く、この静寂な世界で唯一の音だった。
「……ここは、どこ? あなたは?」
「ここは『言の葉の庭』。世界が、忘れられて、消えかけている場所。私は……私の名前は、思い出せないの」
少女は悲しげに微笑んだ。その笑顔さえも、色褪せて見えた。名前を忘れた少女と、色彩を失った世界。奏は、自分が足を踏み入れた場所が、ただの異世界ではないことを直感した。手には、あの白紙の書が握られている。まるで、この世界への唯一の鍵であるかのように。

***第二章 言の葉が彩る庭***

奏は、自らを「ノア」と呼んでほしいと言った少女と共に、色なき世界を歩き始めた。ノアの話によれば、この世界はかつて、豊かな色彩と音に満ち溢れていたという。しかし、いつからか少しずつ色を失い、音を忘れ、存在そのものが希薄になっていった。今では、世界のほとんどがこの灰色の静寂に覆われているらしい。

「どうして、こんなことに……」
奏の問いに、ノアは力なく首を振るだけだった。二人が歩いていると、枯れ木のようなものの前にたどり着いた。ノアがそれを指さし、「昔は、綺麗な花が咲いていたの。甘い香りがして……」と呟く。
その瞬間、奏の脳裏に、古書の一節が閃光のように過った。古い歌集で見た、忘れられた言葉。
「……かおりたつ」
奏が無意識にその言葉を口にすると、信じられないことが起きた。枯れ木だったはずの枝先から、淡い桜色の光が滲み出し、瞬く間に可憐な花が咲き誇ったのだ。そして、言葉の通り、ふわりと甘い香りが奏の鼻をくすぐった。世界で初めて嗅ぐ、本物の香りだった。
「すごい……!」
ノアが驚きに目を見開く。奏もまた、自分の口にした言葉が引き起こした奇跡に言葉を失った。

この世界は、人々に忘れられた「言葉」でできているのではないか。
その仮説は、すぐに確信に変わった。
奏が「せせらぎ」と呟けば、音のなかった川から清らかな水の音が生まれ、「こもれび」と口にすれば、鉛色の空の雲間から金色の光が差し込み、灰色の木々の葉を透かして、地面に美しい光の斑点を描いた。
『時紡ぎ堂』で過ごした時間、奏が愛し、心に蓄えてきた古い言葉たちが、この世界を蘇らせる魔法の呪文となった。彼女が「うららか」と言えば穏やかな陽光が降り注ぎ、「そよご」と囁けば心地よい風が頬を撫でた。奏が言葉を紡ぐたびに、灰色の世界は鮮やかな色彩と生命力を取り戻していく。それは、奏にとって初めての経験だった。自分の存在が、自分の知識が、世界をこんなにも美しく変えられる。現実世界で常に感じていた無力感や孤独感が、少しずつ溶けていくようだった。

ノアは、奏の後ろをついて歩きながら、蘇る世界の美しさに感嘆の声を上げた。彼女の灰色がかっていた髪や服にも、少しずつだが柔らかな色彩が戻り始めているように見えた。
「奏は、魔法使いみたいだね」
無邪気に笑うノアを見て、奏の胸に温かい感情が込み上げる。誰かに必要とされる喜び。誰かと美しいものを分かCち合う幸福。それは、奏がずっと求めながらも、言葉にできなかった感情だった。この世界でなら、自分は自分でいられる。そう思えた。

***第三章 沈黙の樹と忘れられた名***

奏の言葉の力によって、『言の葉の庭』のほとんどは、かつての輝きを取り戻した。色とりどりの花が咲き乱れ、鳥たちが歌い、小動物たちが駆け回る。しかし、世界の中心に聳え立つ、一本の巨大な樹だけは、依然として黒く枯れたままだった。その樹は「沈黙の樹」と呼ばれ、周囲に近寄りがたいほどの静寂と虚無を漂わせていた。この樹が蘇らない限り、世界はまだ不完全で、いつまた色を失うか分からないとノアは言う。

「この樹を蘇らせる、最後の言葉があるはずなの」
ノアは祈るように言った。奏は、自分の持つありったけの言葉を樹に投げかけた。「生命」「永遠」「希望」「祝福」。だが、どんなに美しく力強い言葉も、沈黙の樹には届かない。黒い枝はピクリとも動かず、その根本には深い影が淀んでいるだけだった。
焦りが募る。このままでは、せっかく取り戻したこの美しい世界が、また消えてしまうかもしれない。何より、ノアの存在が日に日に希薄になっている気がした。彼女の身体が、時折透き通って見えるようになったのだ。
「何か、もっと根源的な言葉が……何かを忘れている……」
奏は必死に記憶の引き出しを探った。しかし、答えは見つからない。途方に暮れた彼女は、いつからか手に馴染んでいた白紙の書を、無意識に強く握りしめた。その時だった。真っ白だったはずのページに、水が染みるように、うっすらと文字が浮かび上がってきたのだ。

それは、特定の意味を持つ既成の言葉ではなかった。奏が幼い頃、病弱だった母親と二人だけで使っていた、秘密の愛称。他の誰にも通じない、二人だけの「愛の言葉」。奏は、母親を亡くして以来、その言葉を悲しみと共に心の奥底に封印し、忘れようとしてきた。
なぜ、今この言葉が? 奏が混乱していると、傍らのノアが悲しげな瞳で彼女を見つめていた。
「思い出したんだね、奏」
その声は、いつもよりずっとはっきりとしていた。そして、ノアは衝撃的な真実を告げた。
「この『言の葉の庭』は、奏、あなたの心の中に生まれた世界なの」
ノアの正体は、奏自身が母親を失った深い悲しみから逃れるため、無意識のうちに切り離してしまった「感情」そのものだった。そして、この色を失った世界は、奏が現実で心を閉ざし、言葉を失っていったことの現れだったのだ。
「私は、あなたの感情。あなたが私を忘れたから、私は名前を失った。あなたが心を閉ざしたから、世界は色を失ったの」
奏が蘇らせてきた言葉たちは、彼女が本の中に逃避することで、かろうじて繋ぎ止めていた心の欠片だった。そして、目の前にある「沈黙の樹」の正体。それは、奏が言葉にできず、向き合うことを恐れ続けた、母親の死に対する巨大な「悲しみ」の塊だった。

***第四章 私の物語が始まる時***

すべてを理解した奏は、その場に崩れ落ちた。異世界だと思っていた場所は、自分の内なる牢獄だった。世界を救っていると思っていた行為は、自分自身の心を修復する作業だったのだ。孤独から逃れるために本の世界に没頭し、感情に蓋をし、言葉を遠ざけてきた。その結果、自分の一部であるノアを、そして自分自身の心を、消滅させてしまうところだった。
「ごめん……ごめんなさい、ノア……」
涙が溢れ、灰色の土に染みを作っていく。ノアは、そっと奏の隣に座り、その肩に手を置いた。
「謝らないで。ずっと、待ってた。奏が、私を思い出してくれるのを」
その手は温かかった。奏は、ノアの、つまりは自分自身の感情の温もりを、初めて確かに感じた。
彼女は立ち上がり、沈黙の樹に向き直った。もう、逃げない。この悲しみも、紛れもなく自分の一部なのだから。
彼女は、どんな美しい古語でもなく、どんな力強い言葉でもなく、ただ、心の底から湧き上がってくる、ありのままの言葉を紡いだ。
「さびしい……。お母さん、会いたいよ」
嗚咽が混じる。
「ありがとう。たくさんの言葉を、愛を、教えてくれて」
そして、最後に。
「あいしてる」
それは、母親に言えなかった言葉。そして、自分自身に言ってあげられなかった言葉。
その言葉が樹に届いた瞬間、世界が光に包まれたわけではなかった。黒く枯れた樹が、奇跡のように花を咲かせることもなかった。ただ、硬く閉ざされていた黒い樹皮の一点から、ぽつりと、小さく、しかし力強い緑色の新芽が一つ、顔を出した。
それだけで、十分だった。悲しみは消えない。でも、悲しみと共に生きていくことはできる。この新芽のように、新しい物語を育んでいくことはできるのだ。
「ありがとう、奏」
ノアが微笑む。彼女の身体は柔らかな光の粒子となり、奏の胸の中へと、ふわりと吸い込まれていった。一つになる感覚。欠けていた何かが満たされる、温かい感覚。

気がつくと、奏は『時紡ぎ堂』の床に座り込んでいた。窓から差し込む夕日が、部屋の埃を金色に照らしている。頬には、乾いていない涙の跡があった。手には、あの白紙の書が握られている。しかし、その藍色の表紙には、見慣れた自分の筆跡で、こう記されていた。
『私の物語』
窓の外の空は、美しいグラデーションを描いていた。奏は、その空の色を表す言葉を知っていた。「彼は誰時(かわたれどき)」。かつてはただの知識だったその言葉が、今は痛みと愛しさを伴って、胸に深く響いた。
奏はゆっくりと立ち上がり、机に向かう。そして、白紙の書の最初のページを開いた。ペンを握る彼女の手に、もう迷いはなかった。
失われた言葉を探すのではなく、これからは、自分の言葉で、自分の物語を紡いでいくのだ。悲しみも、喜びも、すべてを抱きしめて。彼女の、本当の物語が始まる瞬間だった。

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