第一章 空っぽの男と涙晶の少女
アスファルトの匂いも、排気ガスの淀みも、けたたましいクラクションの音も、そこにはなかった。水瀬湊(みなせみなと)が最後に覚えていたのは、残業帰りの横断歩道で、ヘッドライトの暴力的な光に目を焼かれたことだけだった。
次に目を開けた時、彼は柔らかな苔の上に横たわっていた。見上げる空は、故郷のどの青とも違う、吸い込まれそうなほどの瑠璃色をしていた。周囲には、水晶でできたかのように透き通った木々が立ち並び、その枝葉からは、時折ぽつり、ぽつりと光の雫が滴っていた。
「……どこだ、ここ」
呟きは、澄み切った大気に吸い込まれて消えた。立ち上がると、身体に異常はない。だが、見慣れたスーツ姿はひどく場違いだった。
呆然と歩き始めると、やがて小さな集落が見えてきた。石と木でできた素朴な家々。道行く人々は、ゆったりとした亜麻色の衣服を身につけていた。彼らが湊を見て、ひそひそと何かを囁き合っている。その視線には、好奇心よりも、奇妙なものを見るような警戒心が滲んでいた。
その時、湊は信じられない光景を目にする。前を歩いていた老婆が、ふと立ち止まり、深く安堵のため息をついた。すると、彼女の胸元から、ぽろりと太陽のような温かい光を放つ小さな宝玉がこぼれ落ちたのだ。老婆はそれを慣れた手つきで拾い上げると、革の袋にしまった。道の向こうでは、言い争いをしている男たちの足元に、触れると火傷しそうなほど禍々しい黒曜石の欠片が散らばっている。
誰もが、まるで呼吸でもするかのように、体から様々な色や形の結晶体を生み出し、そしてそれを当たり前のように処理している。湊は、自分が理解の範疇を完全に超えた場所に迷い込んでしまったことを悟った。
「あなた、『空っぽ(カラ)』なのね」
声をかけられ、振り返ると、一人の少女が立っていた。歳は十代半ばだろうか。亜麻色の髪を三つ編みにし、大きな瞳には深い森のような緑色を湛えている。
「空っぽ?」
「だって、あなたからは何も生まれない。喜びも、怒りも、驚きも。普通、あなたみたいに知らない場所に来たら、恐怖の硝子(ガラス)か、困惑の煙水晶(スモーキークォーツ)くらい、いくつかこぼれ落ちるものよ」
少女は湊の足元を指差した。そこにはもちろん、何も落ちていない。湊は、自分の感情を押し殺すことに慣れきっていた。驚きも、恐怖も、心の奥底に沈殿させ、決して表情や態度に出さない。それが社会で生きるための処世術だと信じてきた。
「僕は、ミナト」
「私はリラ。……あなた、どこから来たの?」
「分からない。気づいたら、森に」
リラは湊をじっと見つめた。彼女の瞳には、警戒心よりも純粋な興味が浮かんでいた。湊がこの村で初めて向けられた、温かみのある視線だった。
その時、リラの胸元がかすかに揺れた。彼女は苦しそうに胸を押さえ、ぎゅっと目をつぶる。
「大丈夫か?」
「……うん。また、溜まってきたみたい」
彼女がそっと開いた手のひらの上には、何もなかった。だが、湊には見えた気がした。彼女の心の内側で、誰にも見せることのできない、冷たく重い涙の形の水晶が、その存在を主張しているのを。この世界では誰もが当たり前に排出するという感情の結晶を、この少女は、何か理由があって内に溜め込んでいるらしかった。
第二章 秘める心、蝕む理
湊はリラの家に厄介になることになった。彼女は両親を数年前に亡くし、今は一人で暮らしているという。村人たちは感情を生まない「空っぽ」の湊を不気味がって遠ざけたが、リラだけは違った。
「ミナトの世界では、感情はどうするの? みんな、あなたみたいに空っぽなの?」
夕食の木の実のスープを囲みながら、リラが尋ねた。スープは素朴だが、じんわりと体に沁みる味がした。
「いや、そんなことはない。ただ……感情を外に出すのは、あまり良いことだとはされないんだ。特に、悲しみや怒りは。内に秘めて、自分で乗り越えることが『強い』ことだとされる」
「秘める……?」
リラは不思議そうに首を傾げた。「喜びの金剛石(ダイヤモンド)は分かち合うために、悲しみの涙晶(るいしょう)は流されて癒されるために、怒りの黒曜石(オブシディアン)は過ちを砕くために生まれる。感情は巡るものよ。溜め込むなんて……それは、病だわ」
その言葉は、湊の胸に小さく突き刺さった。この世界では、感情を体外に排出することが、生命活動の根幹をなす理(ことわり)らしかった。感情は魂の代謝物であり、それを溜め込むことは、毒を溜め込むのと同じことなのだと。
リラが溜め込んでいるのは、「悲しみ」の涙晶だった。亡き母親を想う悲しみ。それは彼女にとって、母親との唯一の繋がりであり、かけがえのない思い出そのものだった。
「この涙晶を手放してしまったら、お母さんのことを忘れてしまいそうで怖いの」
そう語るリラの瞳は、雨に濡れた森のように深く潤んでいた。湊は、彼女の気持ちが痛いほど分かった。大切なものを失った悲しみは、時として、その人が確かに存在したという証になる。それを無理やり捨て去ることなど、できるはずがない。
「無理に捨てる必要なんてないよ。その悲しみも、リラの一部なんだから」
湊の言葉に、リラはハッとしたように顔を上げた。この世界では、誰も言ってくれなかった言葉だった。誰もが、悲しみを「流すべきもの」「癒すべき毒」としか見ていなかったから。
湊の肯定は、リラの固く閉ざされた心に、温かい光を灯した。彼女は湊に少しずつ心を開き、湊もまた、感情を素直に受け止めてくれるリラの存在に、今まで感じたことのない安らぎを覚えていた。感情を抑圧する必要のない世界。それは、湊にとって一種の救いですらあった。
しかし、穏やかな日々は長くは続かなかった。リラの体調は、日に日に悪化していった。時折、彼女の体が陽炎のように揺らめき、指先が透けて見えるようになったのだ。溜め込まれた涙晶が、彼女の存在そのものを内側から蝕み始めているのは、明らかだった。
第三章 善意という名の毒
「もう、時間がない」
村の長老は、白く長い髭を揺らしながら、重々しく言った。彼の足元には、憂慮を示す鈍い光沢の瑪瑙(めのう)がいくつも転がっていた。
「リラの魂が、溜め込んだ涙晶の重さに耐えきれなくなっている。このままでは、存在そのものが霧散してしまうだろう」
「助ける方法はないんですか!?」
湊は思わず叫んでいた。感情を表に出さないはずの自分が、これほどまでに声を荒げていることに、自身でも驚いていた。
「……一つだけ、古の儀式がある。『浄化の儀』。溜め込んだ感情を、根こそぎ強制的に排出させる荒療治じゃ。じゃが、それは悲しみの記憶だけでなく、他の大切な思い出や、彼女の人格そのものさえも削ぎ落としかねない危険な賭けでもある」
絶望的な宣告だった。それは、湊が最も否定したかったことだ。リラの悲しみを、彼女自身の一部として肯定したかった。それなのに、その悲しみが彼女を消し去ろうとしている。
「なぜだ……なぜ、僕が来てから、彼女は急に……」
その時、湊はふと気づいた。自分自身のことだ。この世界に来てから、一度も感情の結晶を生んでいない。それなのに、なぜ自分はリラのように存在が希薄にならないのか。
その疑問を察したかのように、長老は鋭い視線を湊に向けた。
「お前が、『異邦人』だからじゃ」
長老の言葉は、冷たい刃のように湊の心を貫いた。
「我々は、感情を結晶として外に排出することで、世界の理と調和を保っておる。じゃが、お前たち異邦人は違う。感情を内に溜め込むという、我々にはない理を持つ。それは、この世界にとっては異物であり……『毒』なのじゃ」
長老は続けた。
「リラの病は、お前と出会ったことで悪化した。お前の持つ『内に秘める』という異質な理が、彼女の魂に干渉したのじゃ。お前が彼女の悲しみを肯定したことで、彼女は涙晶を溜め込むことに何の疑問も抱かなくなった。お前の善意が、リラを死へと追いやっている。お前の存在そのものが、彼女を蝕む猛毒なのだよ」
世界が、音を立てて崩れていくようだった。
良かれと思ってしたことだった。彼女の心を救いたかった。リラの一部だと肯定したあの悲しみは、彼女を殺すための毒だった。そして、その毒性を強めたのは、自分自身だった。
自分の価値観。自分の善意。自分の存在。そのすべてが、愛しい少女を消滅させようとしている。湊は、自分の足元が崩れ落ち、底なしの暗闇へと落下していくような、凄まじい絶望感に襲われた。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。だが、彼の足元からは、絶望を示すどんな結晶も生まれなかった。彼の絶望は、出口のない心の奥底で、ただただ黒く渦巻くだけだった。
第四章 心を渡すということ
絶望の淵で、湊は一つの決断を下した。
自分がこの世界から去ること。それが、リラを苦しめる「毒」を取り除く唯一の方法だった。しかし、ただ去るだけでは、彼女の中に溜まった涙晶はなくならない。浄化の儀を受けさせれば、彼女は助かるかもしれないが、それはもはや湊の知るリラではなくなってしまう。
「……違う」
湊は立ち上がった。震える声で、自分に言い聞かせるように呟いた。
「悲しみは、彼女の一部だ。それを奪うことだけは、絶対にしたくない」
ならば、どうする。自分がこの世界に持ち込んでしまった「内に秘める」という理。その毒で彼女を蝕んだのなら、同じ理を使って、彼女を救うことはできないか。
湊は、リラが眠るベッドの傍らに立った。彼女の体は、以前よりもさらに透き通り、まるで淡い幻のようだった。湊は彼女の手を握り、目を閉じた。そして、自分の心の奥底に意識を集中させた。
リラを愛おしく思う気持ち。彼女を救いたいという焦がれるような願い。自分の無力さへの怒り。彼女を苦しめてしまったことへの深い後悔と悲しみ。そして、それでも彼女のすべてを肯定したいという、揺るぎない覚悟。
今まで抑え込み、蓋をしてきた全ての感情を、解き放つ。心のダムを決壊させる。
「う……ぁああああああ!」
言葉にならない叫びと共に、湊の胸の中心が灼けるように熱くなった。内側から何かが生まれ、せり上がってくる。それは、今まで経験したことのない、魂が引き裂かれるような激痛だった。
やがて、湊の胸元から、一つの結晶がゆっくりと姿を現した。
それは、誰も見たことのない結晶だった。
喜びの金剛石のように強く輝き、悲しみの涙晶のように澄み渡り、怒りの黒曜石のような鋭さを秘め、そして愛情の薔薇水晶(ローズクォーツ)のような温かい色を湛えている。様々な感情が複雑に絡み合い、調和し、一つの奇跡的な美しさを形作っていた。
それは、湊がこの世界で初めて生み出した、彼の「心」そのものだった。
湊はその結晶を、そっとリラの胸の上に置いた。
「リラ。これは僕の心だ。君の悲しみを消すためじゃない。君が、君の悲しみを抱えたまま、生きていけるように。僕が、この世界の理に抗う」
湊の結晶が、リラの体内で澱んでいた冷たい涙晶に触れた瞬間、奇跡が起きた。涙晶は消えるのではなく、湊の結晶と静かに融合し始めたのだ。冷たさは和らぎ、代わりに温かい光を帯びていく。それはもはや、ただの悲しみの結晶ではなかった。「悲しみを乗り越えるのではなく、それと共に生きていく希望」という、全く新しい感情の光だった。
リラの体が、確かな実体を取り戻していく。それと同時に、湊の指先から、体が光の粒子となってほどけ始めた。この世界での役目を終え、元の世界へと還る時が来たのだ。
意識が薄れゆく中、リラがゆっくりと目を開けた。彼女は、自分の胸で温かい光を放つ結晶と、消えゆく湊を交互に見て、すべてを悟った。彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれる。すると、その涙は頬を伝う間に、温かく柔らかな光を放つ小さな宝玉へと変わった。彼女が、自分の意志で、初めて生み出した「感謝」の結晶だった。
「……ありがとう、ミナト」
消えゆく湊に向かって差し出されたその小さな光を、彼は最後の力で受け取った。
気がつくと、水瀬湊は自分の部屋のベッドにいた。鳴り響く目覚まし時計。窓から差し込む、見慣れた灰色の朝日。全ては、長い夢だったのだろうか。
彼は、ぼんやりとした頭で、固く握りしめていた右の掌を開いた。
そこには、夢ではなかった証拠が、確かに存在していた。
リラが生み出した、温かい光を放つ小さな宝玉。それは、確かな温もりを持って、湊の掌に収まっていた。
湊はそれをそっと胸に当てた。もう、自分の感情を偽らない。悲しみも、喜びも、怒りも、すべてが自分を形作る大切な一部なのだと、あの世界が教えてくれた。
彼は立ち上がり、窓を開ける。街の喧騒が流れ込んでくる。それは昨日までと同じ日常の音のはずなのに、なぜか今日は、少しだけ鮮やかに聞こえた。手の中の温もりを力に変えて、湊は新しい一日へと、力強く歩き出した。彼の心にはもう、決して消えることのない、異世界の光が灯っていた。