第一章 音の見える場所
静寂が欲しかった。
水瀬響(みなせひびき)は自室のベッドに深く沈み込み、ヘッドフォンで耳を完全に覆っていた。ノイズキャンセリング機能は最大。それでも足りず、音量をゼロにしたまま装着している。外界のあらゆる音を遮断するためだ。車の走行音、隣人の話し声、風の音。そして何より、自分自身の内に響く、あの日の聴衆の失望のため息と、ひび割れた自分の歌声の記憶から逃れるために。
声楽家を目指していた。神童とまではいかなくとも、才能はあると信じていた。だが、未来を懸けたコンクールの舞台で、彼の声は裏切った。プレッシャーに押し潰された喉から漏れたのは、か細く震える、無様な音。その瞬間、世界の全てが色を失った。以来、響は歌えない。それどころか、声を出すこと自体が苦痛になっていた。自分の声は、価値のない、壊れた楽器だ。
ヘッドフォンの内側で、不意に「ジジ…」という微かなノイズが走った。故障だろうか。いや、違う。それは電子的なノイズではなく、もっと有機的で、まるで耳元で砂が囁くような音だった。ノイズは急速に大きくなり、視界がぐにゃりと歪む。強烈な浮遊感。何かに引きずり込まれるような感覚を最後に、響の意識は途切れた。
次に目を開けた時、響は柔らかな苔の上に横たわっていた。見知らぬ森の中。木々の隙間から射す陽光が、きらきらと乱反射している。だが、その光景の異様さに、響は息を呑んだ。
光そのものではない。空中で何かが輝いているのだ。
一羽の小鳥が枝から飛び立ち、高く澄んだ声でさえずった。その瞬間、鳥のくちばしから、金色の光の粒がシャワーのように生まれ、放物線を描いてきらめきながら地面に落ちていく。風が木々の葉を揺らすと、翠色のリボンが幾重にもなって宙をしなやかに泳いだ。
音が、見えている。
全ての音に、形と色があった。人々のかすかな話し声は、淡い色のガラス玉のように転がり、遠くで聞こえる川のせせらぎは、青銀の細い糸となって流れ続けている。静寂とは、音が無いことではなかった。この世界では、音の「結晶」が生まれない状態を指すらしかった。
呆然と立ち尽くす響の耳に、か細い声が届いた。
「旅の人? 大丈夫?」
振り返ると、亜麻色の髪をした少女が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。彼女が言葉を発するたび、その口元から、たんぽぽの綿毛のような、柔らかく淡い黄色の結晶がふわりと生まれ、静かに地面に落ちていく。
「ここは…どこなんだ?」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。そして、その声と同時に、響の口元から、何かがポトリと落ちた。それは、指先ほどの大きさの、濁った鉛色の石ころだった。輝きも、透明度もまるでない、ただの石ころ。
少女はそれを見ると、少しだけ悲しそうな顔で微笑んだ。
「あなたの音、とても寂しそうな色をしてるね」
その言葉は、響の心を鋭く抉った。価値のない自分の声は、この異世界においてさえ、醜く、無価値なものとして現れるらしかった。
第二章 色褪せたアリア
少女はリラと名乗った。彼女はこの森の先にある小さな村で、音の結晶――「響晶(きょうしょう)」を集めて暮らしているという。
「響晶は、私たちの生活の全てなの。綺麗な響晶は街で食料や道具と交換できる。暖炉で燃やせば、その音が生まれた時の記憶が、陽炎みたいに揺らめいて温かい気持ちになれるのよ」
リラに連れられてたどり着いた村は、不思議なほど静かだった。人々は物憂げな表情で、必要最低限の言葉しか交わさない。彼らの口から生まれる響晶は、どれも小さく、くすんだ色をしていた。かつては活気に満ち、色とりどりの響晶が溢れていたとリラは言うが、今ではその面影もない。
リラの家は、村の外れにある小さな小屋だった。彼女は古い木箱を大切そうに開け、中から一つの響晶を取り出して見せてくれた。それは、他のくすんだ結晶とは違い、かつては月光のような気高い輝きを放っていたであろうことが分かる、白く大きな響晶だった。だが、その輝きはほとんど失われ、表面には無数のひびが走っている。
「おばあちゃんの形見。昔、この村でただ一人の『謳い手』だったの」
謳い手。それは、自らの歌声で、極めて美しく、強い力を持つ響晶を生み出すことができる特別な存在だという。特に、感情を豊かに込めた歌から生まれる響晶は「アリア・クリスタル」と呼ばれ、人々の心を癒し、土地を豊かにする力を持っていたらしい。
「でも、もう何十年も、この村に謳い手はいない。みんな、心を込めて歌うことを忘れてしまったから…」
リラは響に向き直り、期待の眼差しを向けた。
「あなた、謳い手なんでしょう? あなたが来た時、森の空気が少しだけ震えたの。強い音の気配がした」
響は首を横に振った。歌えない。あの舞台の上で、自分の声が醜く砕け散るのを聞いてから、歌うことは恐怖そのものになった。
「試してみて。お願い」
リラの純粋な瞳に、響は断りきれなかった。震える唇を開き、かつて得意だったアリアの一節を、囁くように口ずさむ。だが、喉は固くこわばり、声はみじめに震えるだけだった。そして、彼の口元から生まれたのは、やはり、いびつで小さな灰色の欠片だけだった。
それは地面に落ちると、粉々に砕けた。
「ごめん…」
自己嫌悪で顔を伏せる響に、リラは何も言わなかった。ただ、静かに色褪せた祖母の響晶を握りしめている。その沈黙が、かえって響の胸を締め付けた。この世界でも、自分は役立たずのままだ。美しいものを生み出す資格などない。響は、この静かで、緩やかに死に向かっているような世界に、自分自身の姿を重ねて見ていた。
第三章 虚無のレクイエム
数日が過ぎた頃、村に異変が訪れた。西の空が、不気味な暗灰色に染まり始めたのだ。村人たちが「虚無(ヴォイド)が来る」と怯え、慌ただしく家財をまとめ始める。
虚無。それは、この世界の全ての音を喰らい、響晶をただの黒い砂に変えてしまう、巨大な災厄だという。ゆっくりと、しかし確実に村へと迫ってくる灰色の帳は、まるで世界そのものの終わりを告げているようだった。
その時、響は気づいた。リラが大切にしていた祖母の響晶が、箱の中でカタカタと震え、その白い表面を急速に黒く染めていくのを。
「リラ、これは…」
リラは唇を噛み締め、震える声で真実を語り始めた。その内容は、響の想像を絶するものだった。
「虚無は…自然災害なんかじゃない」
彼女の言葉と共に生まれた響晶は、悲しみの色を宿した、透明な涙の雫のようだった。
「虚無の正体は、この世界の人々が捨ててきた、悲しみの音の集まりなの」
かつて、この世界の人々は、喜びや愛といった美しい音から生まれる響晶だけを尊んだ。そして、悲しみ、苦しみ、怒りといった負の感情から生まれる醜い響晶を忌み嫌い、村はずれの深い谷底に捨て続けてきたのだという。
「忘れ去られ、誰にも聞かれなかった声…その怨嗟が、長い年月をかけて積もり、全ての音を憎む虚無になったの」
リラの祖母は、最後の謳い手として、その事実に気づいていた。彼女は人々の悲しみを受け止め、それを鎮めるためのレクイエム(鎮魂歌)を歌った。だが、人々は悲しみの歌そのものを恐れ、不吉だとして彼女を村から追放した。この黒ずんでいく響晶は、その時の祖母の絶望と、世界への深い哀しみが込められた、最後の歌だったのだ。
響は全身に雷が落ちたような衝撃を受けた。
美しい音だけが価値がある。醜い音は無価値だ。この世界の歪みは、そのまま自分自身の心の歪みだった。完璧な歌声だけを求め、舞台で失敗した自分の醜い声を、誰よりも憎み、捨て去ろうとしてきた。目を背けてきた自分の弱さ、トラウマ、後悔。それらが、目の前で世界を飲み込もうとしている虚無と、完全に重なった。
自分もまた、自分自身の「虚無」を生み出していたのだ。
第四章 不完全なカノン
虚無は、もはや村の目前まで迫っていた。全ての音が吸い込まれ、世界から色が消えていく。村人たちが絶望に叫ぶ声さえ、生まれるそばから黒い砂となって霧散した。
逃げ惑う人々の中で、響は一人、虚無へと向かって歩き出した。リラが彼の名を呼ぶが、足は止まらない。
怖い。だが、逃げることはできなかった。これは、自分が向き合うべきものだ。
虚無の目の前で、響は息を吸い込んだ。そして、歌い始めた。
それは、完璧なアリアではなかった。喝采を浴びるための美しい旋律でもない。喉から絞り出されたのは、あのコンクールで失敗した、ひび割れ、震え、音程を外しそうになる、剥き出しの魂の叫びだった。
後悔。自己嫌悪。無力感。この世界に来て感じた戸惑い。リラへの感謝。そして、この世界の悲しみ。自分の内にある、ありとあらゆる醜く、不完全な感情の全てを、その声に乗せた。
彼の歌声から生まれた響晶は、美しくなかった。
完璧な球体でも、一点の曇りもない宝石でもない。それは亀裂が走り、黒い染みが混じる、いびつな塊。だが、その結晶は虚無に喰われることなく、虚無のただ中で、確かな存在感を放っていた。
そして、奇跡が起こる。
響の不完全な歌声が生んだ響晶に呼応するように、虚無の中から、かつて捨てられた無数の悲しみの音たちが、黒い砂の呪縛を解かれ、本来の色を取り戻し始めたのだ。怒りの緋色、苦悩の藍色、嫉妬の濁った緑。それらは決して美しい色ではなかったが、確かにそこに存在した「生」の証だった。
響の歌は、虚無を消し去るためのものではなかった。それは、全ての音を受け入れ、調和させるためのカノン(追走曲)だった。彼の不完全な歌声が、忘れられた声たちを追いかけ、重なり合い、やがて一つの巨大なハーモニーを織りなしていく。
虚無は消えなかった。ただ、その性質を変えた。世界は再び色とりどりの音で満たされたが、それは以前のような上辺だけの美しさではない。悲しみの音も、苦しみの音も、世界の構成要素として、当たり前にそこに存在する、新しい世界が生まれたのだ。
響は、元の世界には帰らなかった。彼はこの世界に残り、新しい「謳い手」として生きることを選んだ。完璧な歌を目指すのではない。世界に存在する全ての音――美しいものも、醜いものも――その全てを拾い上げ、歌によって紡いでいく。それが、自分の役目だと知ったからだ。
夕暮れ時、響は丘の上に立ち、リラの隣で静かに歌い始める。その歌から生まれる響晶は、決して完璧な球体ではない。少しだけ歪で、複雑な色が混じり合い、けれど夕陽を受けて、どんな宝石よりも深く、温かい虹色の光を放っていた。
それは、不完全さを受け入れた、彼の魂そのものの形だった。