第一章 色褪せたシャッターチャンス
僕が通う私立常盤木学園には、百年以上続く奇妙な伝統がある。
卒業式の日、卒業生は一人ひとり、在学中の「最も大切な記憶」を、琥珀色の小さなクリスタルに封じ込めて学校に捧げなければならない。それは「献憶の儀」と呼ばれ、神聖で、感傷的で、そしてどこまでも馬鹿げた儀式だと僕は思っていた。
祭壇に置かれたクリスタルは、講堂のステンドグラスから差し込む光を乱反射させ、きらきらと瞬く。まるで星屑のようだ。卒業生たちは涙を浮かべ、その星屑に自分の青春を託す。友情、恋愛、部活動の栄光。そんな、ありふれた物語の一つを差し出すことで、彼らは大人への階段を上るのだという。
「綺麗だね、星みたい」
ふいに、隣から澄んだ声がした。振り返ると、天野陽菜が僕の手元を覗き込んでいた。彼女の大きな瞳が、僕のカメラのレンズに映る埃を捉えている。
「……ただのガラス玉だろ」
僕は素っ気なく答え、ファインダーを覗き込んだ。そこにあるのは、無機質で、感情のない、切り取られた世界。写真部の僕にとって、カメラは世界との間に一枚の壁を作るための盾だった。被写体と深く関わらず、ただ構図と光を計算してシャッターを切る。その機械的な作業が、僕を感傷から守ってくれた。
「相沢くんは、何を捧げるか決めてるの?」
陽菜は僕の皮肉を意にも介さず、屈託なく笑う。彼女は園芸部で、いつも指先を少し土で汚している。太陽の匂いをまとった彼女の存在は、僕のモノクロームの世界に、無理やり原色を叩きつけるようで落ち着かなかった。
「何も。どうせ消える記憶だ。一番どうでもいいものを捧げるさ」
「ええっ、だめだよ! 一番大切な記憶じゃなきゃ。だから意味があるんだよ」
「意味なんてない。過去に浸るのは非生産的だ」
僕の言葉に、陽菜は少しだけ悲しそうな顔をした。でも、すぐにいつもの笑顔に戻ると、自分の足元で健気に咲く、名前も知らない小さな白い花を指差した。
「この花も、いつかは枯れちゃうけど、ここに咲いていたっていう記憶は、この場所をちょっとだけ素敵にしてくれると思うな。記憶って、そういうものじゃないかな」
僕は答えずに、シャッターを切った。ファインダー越しに見た陽菜の笑顔は、やけに眩しくて、少しだけピントが甘くなった。
この時、僕はまだ知らなかった。僕が切り捨てようとしていたその「意味」こそが、僕の世界を根底から覆すことになるということを。そして、僕が捧げることになる記憶が、僕の人生で最も切なく、そして温かい光を放つものになるということを。
第二章 ファインダー越しの陽だまり
陽菜は、僕がどれだけ素っ気ない態度をとっても、めげずに話しかけてきた。僕が昼休みに屋上で一人、校庭の風景を撮っていると、いつの間にか隣にいて、園芸部で育てたというプチトマトを差し出してきたりした。
「はい、おすそわけ。不格好だけど、甘いよ」
真っ赤な実を口に放り込むと、青臭い香りと共に、驚くほど濃い甘さが広がった。それは、僕が普段口にする、スーパーで買った野菜の味とは全く違っていた。太陽と土と、そして彼女の労力が作り出した、生命そのものの味がした。
「……うまい」
僕がぽつりと呟くと、陽菜は心の底から嬉しそうに笑った。その笑顔は、中庭の花壇で彼女が世話をするマリーゴールドのように、明るく、見る者の心を照らした。
僕は無意識のうちに、カメラを彼女に向けていた。
カシャリ、と乾いたシャッター音が響く。ファインダーの中の彼女は、少し驚いたように目を丸くし、それから照れたようにはにかんだ。
その日から、僕のカメラのメモリカードは、少しずつ陽菜の写真で満たされていった。水やりをする横顔。虫を見つけてはしゃぐ姿。夕暮れの教室で、窓の外を眺める物憂げな瞳。
僕はこれまで、完璧な構図と光だけを追い求めてきた。だが、彼女を撮る時は違った。少し手ブレしていても、ピントが甘くても、そこに彼女の「生」の瞬間が写っていれば、それで良かった。写真は記録だと思っていた。けれど、陽菜を写した写真は、ただの記録ではなかった。それは、僕の心に灯った、小さな温かい感情の証明だった。
「相沢くんの写真、好きだな」
ある放課後、写真部の暗室で現像した写真を見せると、陽菜はそう言った。
「なんだか、優しい光が見えるから」
僕の写真は、人から「冷たい」「硬い」と評されることが多かった。優しい、なんて言われたのは初めてだった。
「光……?」
「うん。どんなものでも、相沢くんのレンズを通すと、その中に隠れてる一番綺麗な光を見つけてくれる感じがする。だから、私の『最も大切な記憶』も、相沢くんに撮ってほしいな」
彼女は悪戯っぽく笑った。その言葉の意味を、僕はまだ深く考えようとしなかった。ただ、胸の奥がくすぐったいような、それでいて少しだけ苦しいような、不思議な感覚に包まれた。
卒業が近づくにつれ、「献憶の儀」が現実味を帯びてくる。僕は、何を捧げるべきか、初めて真剣に考え始めていた。陽菜と過ごす、この何でもない、けれど陽だまりのように温かい日々。これを「最も大切な記憶」として捧げるのも悪くない。そう思い始めた矢先だった。
世界が、音を立てて崩れ始めたのは。
第三章 砕け散るプリズム
それは、秋風が少し冷たくなった頃のことだった。陽菜が、学校を休みがちになった。最初はただの風邪だと思っていた。だが、彼女の欠席は続き、たまに登校してきても、どこか上の空で、顔色も優れなかった。
僕が撮った写真を見せても、彼女は曖昧に微笑むだけだった。
「これ、いつ撮ったんだっけ……?」
夏祭りの日に、二人で食べたリンゴ飴の写真。彼女が大好きだと言っていた、金魚すくいの屋台。つい二ヶ月前の出来事なのに、彼女の記憶は、まるで霧の中を彷徨っているようだった。
真実を知らされたのは、彼女の両親からだった。陽菜は、若年性の記憶障害を患っていた。脳の中の、記憶を司る海馬という部分が、少しずつ萎縮していく病気。新しい記憶から順に、まるで砂の城が波にさらわれるように、消えていくのだという。治療法は、まだ見つかっていない。
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。僕が大切だと思い始めた記憶が、僕の前からではなく、彼女の中から消えていく。僕が陽菜に向け始めたこの感情も、彼女の中では、もう存在しない過去になっているのかもしれない。絶望が、冷たい霧のように全身を包んだ。
「だからね、湊くん」
久しぶりに会った陽菜は、病院のベッドの上で、以前よりも少し痩せた顔で微笑んだ。彼女が僕を下の名前で呼んだのは、これが初めてだった。
「私の『最も大切な記憶』が、全部消えちゃう前に、クリスタルに閉じ込めたいの。湊くんと過ごした、この一年間の記憶を。だから、卒業式まで、私の記憶、もってくれるかな……?」
彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。それは、砕け散ったプリズムのように、病室の白い光を反射して、悲しくきらめいていた。
僕に何ができる? 写真は、ただの記録だ。記憶そのものを留める力はない。無力感に打ちひしがれながらも、僕はシャッターを切り続けた。
陽菜の笑顔を、仕草を、声の響きを、そのすべてを永遠に刻みつけるように。
一枚でも多く。一瞬でも長く。
僕の写真は、もはや盾ではなかった。それは、消えゆく光を必死に繋ぎ止めようとする、祈りそのものだった。
陽菜が忘れてしまった出来事を、僕が撮った写真を見せながら、何度も何度も語って聞かせた。
「この日は、屋上でトマトを食べたんだ。すごく甘かった」
「この時、君は僕の写真が好きだと言ってくれた」
陽菜は、僕の話を初めて聞く物語のように、静かに聞いていた。時折、写真を見つめる彼女の瞳に、懐かしい光が宿る瞬間があった。その一瞬を信じて、僕は来るはずのない奇跡を願い続けた。
第四章 琥珀に眠るアステリズム
雪が舞う、卒業式の日。
陽菜は、僕の助けを借りながら、なんとか卒業式に出席することができた。彼女の記憶は、もうほとんど白紙に近い状態だった。僕のことも、ぼんやりと「優しい人」としか認識できていないようだった。
「献憶の儀」が始まった。卒業生が一人ずつ、名前を呼ばれ、祭壇へと進む。
僕の名前が呼ばれた時、僕は立ち上がり、隣に座る陽菜の手をそっと引いた。彼女は驚いたように僕を見上げたが、何も言わずに立ち上がってくれた。
二人で、ゆっくりと祭壇へ向かう。ざわつく講堂の中で、僕たちの足音だけがやけに大きく響いた。
「相沢湊。君が捧げる記憶は、決まっているかね」
儀式を司る、白髪の学園長が静かに問いかけた。
僕は、陽菜の手を握りしめたまま、はっきりと答えた。
「僕の、そして彼女の、この一年間の記憶を。僕が天野陽菜と出会い、共に過ごした、すべての日々を捧げます」
僕がそう言うと、学園長は深く頷き、隣に立つ陽菜に優しい眼差しを向けた。そして、僕たちと、講堂にいる全ての卒業生に向かって、誰も知らなかった真実を語り始めた。
「諸君は、『献憶の儀』を、記憶の『忘却』あるいは『消去』の儀式だと思ってきただろう。だが、それは違う」
学園長の声が、厳かに響き渡る。
「ここに捧げられた記憶は、消えるのではない。『保管』されるのだ。この琥珀のクリスタルは、君たちの記憶という星々を、永遠の輝きのまま留めておくための器。我々はこれを『記憶の星群(アステリズム)』と呼んでいる」
講堂が、驚きの声で満たされる。
「人生は長い。これから諸君は、幾度となく困難な壁にぶつかり、道を見失い、自分の価値を信じられなくなる時が来るだろう。その時だ。この学校は、君たちがここに預けた『最も大切な記憶』を、そっと君たちの心に返す。それは、君たちが再び立ち上がるための、光り輝くお守りとなるのだ」
そうか。だから、一番大切な記憶を、だったのか。
失うためじゃない。未来の自分に、贈るためだったのか。
僕は、握りしめた陽菜の手に力がこもるのを感じた。彼女の瞳が、僕を真っ直ぐに見つめている。その瞳には、確かな光が宿っていた。記憶はなくても、心が、魂が、この瞬間の意味を理解しているようだった。
僕と陽菜は、二人で一つの琥珀のクリスタルを祭壇に捧げた。それは、僕たち二人の一年間が詰まった、温かい光を放つ小さな星だった。
いつか、陽菜が人生の闇に迷い込んだ時、この星が彼女の足元を照らしてくれるだろう。僕と過ごした陽だまりの日々が、彼女を支えてくれるだろう。そして、もし奇跡が起きて、彼女が記憶を取り戻した時、この輝きは、僕たちの元へ帰ってくるのかもしれない。
卒業後、僕は写真家の道を歩み始めた。
僕の撮る写真は、いつしか「被写体への温かい眼差しに満ちている」と評されるようになった。
僕の部屋の机の上には、一枚の写真が飾ってある。
それは卒業式の日に、僕が撮った最後の写真。
制服姿の陽菜が、琥珀のクリスタルをそっと胸に抱き、少しだけはにかみながら、陽だまりの中で穏やかに微笑んでいる。
彼女が今、どこで何をしているのか、僕には分からない。
けれど、この写真を見るたびに、僕は信じることができるのだ。
記憶は、たとえ失われても、どこかで光り続けている。そして、その光は、必ず誰かの未来を照らしているのだと。
僕たちの小さな星群(アステリズム)が、この世界のどこかで、今も静かに輝いていることを。