第一章 侵入者のファインダー
水無月湊(みなづきみなと)にとって、世界とは分厚い文庫本のページと、イヤホンから流れるノイズ混じりの音楽、そしてそれらを遮るものがない屋上の青空だけで構成されていた。高校二年の春、彼は人間関係という名の複雑怪奇な数式を解くのをやめた。友人はいない。部活にも所属せず、放課後は決まって旧校舎の屋上で、誰にも邪魔されずに本を読む。それが彼の日常であり、平穏そのものだった。
その日も、湊は錆びた手すりにもたれ、読みかけの小説の世界に沈んでいた。頬を撫でる五月の風が心地よい。不意に、カチャリ、という金属音が耳に届いた。イヤホンを外すと、その音はすぐ近くから聞こえてくる。
視線を上げ、湊は息を呑んだ。
屋上を囲む金網フェンスの、その外側に、女子生徒が立っていたのだ。
一歩間違えれば真っ逆さまに落ちてしまう危険な場所。彼女は少しも怖がる様子なく、鼻歌まじりに古いフィルムカメラをフェンスの金網に固定している。風に揺れる栗色の髪。見慣れない制服のリボン。おそらく、他校の生徒だろう。
「……おい」
思わず声が出た。彼女はこちらを振り返り、大きな瞳を悪戯っぽく細めた。
「あ、見つかった」
「何してるんだ、危ないだろ。こっちへ来い」
「うーん、でも今、大事なところだから」
彼女は湊の警告を意に介さず、カメラのファインダーを覗き込む。だが、そのレンズが向いているのは、眼下に広がる校庭でも、街並みでもなかった。ただひたすらに、雲ひとつない青空に向けられている。
「何を撮ってるんだ?」
「空」と、彼女はこともなげに答えた。「でも、ただの空じゃない。この世界でたった一つの、特別なものを撮るの」
湊は眉をひそめた。空なんて、どこにでもあるじゃないか。彼女の言葉の意味がまるで理解できない。しばらくして、彼女は器用にフェンスを乗り越え、湊の前に降り立った。手には年代物のカメラが握られている。
「ねえ、あなた。手伝ってくれない?」
「断る」
「そんなこと言わずに。一人じゃ大変なんだから」
彼女は天野陽菜(あまのひな)と名乗った。陽菜は、なぜか湊がこの場所にいることを知っていたかのように、自然に隣に座り込む。そして、空を見上げながら言った。
「私の代わりに、シャッターを押してほしい時があるの。最高の瞬間を、逃したくないから」
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、湊は言葉に詰まった。こうして、彼の灰色の日常は、ファインダー越しの空を追い求める、謎めいた侵入者によって、静かに、しかし確実に色を変え始めたのだった。
第二章 色づく世界のスケッチ
陽菜との奇妙な約束が始まってから、湊の放課後は一変した。彼女は神出鬼没に現れ、湊を様々な「撮影スポット」へと連れ回した。
「湊、今日はここ!」
そう言って陽菜が指さしたのは、雨上がりのグラウンドにできた巨大な水たまりだった。泥水にしか見えないそれを、陽菜は宝物のように見つめている。
「見て。逆さまの空が映ってる。風が吹くと、雲が水面で揺れるんだよ。まるで空が呼吸してるみたい」
彼女に言われるまま、湊は水たまりに映る空にカメラを向けた。ファインダーを覗くと、確かにそこにはもう一つの世界が広がっていた。陽菜の言う通り、風が水面を揺らすたび、空は生き物のように蠢いて見えた。湊がシャッターを切ると、陽菜は「うん、いい感じ!」と子供のようにはしゃいだ。
夕暮れに赤く染まる理科準備室の窓ガラス、夏の入道雲が湧き上がるプールの飛び込み台の上、木漏れ日が揺れる図書館の床。陽菜のファインダーを通すと、見慣れたはずの学園の風景が、まるで知らない星のように輝いて見えた。彼女はいつも空を撮った。様々な表情を見せる、その一瞬の空を。
「なんで、そんなに空ばかり撮るんだ?」
ある日、湊は尋ねた。陽菜は少しだけ遠い目をして、それからふわりと笑った。
「空はね、同じ顔を二度と見せてくれないから。昨日と同じ青でも、今日の青とは少しだけ違うの。その一瞬一瞬を、全部覚えておきたいんだ」
陽菜と過ごす時間が増えるにつれ、湊の世界からノイズが消えていった。代わりに、風の音や、木の葉の擦れる音、陽菜の笑い声が聞こえるようになった。分厚い文庫本を開く時間も減り、彼女の隣で空を見上げる時間が増えた。冷え切っていたはずの心が、陽の光を浴びてゆっくりと解けていくのを感じていた。
だが同時に、湊は彼女の纏う儚さに気づき始めていた。時折、陽菜が見せる一瞬の苦しそうな表情。何かを堪えるように固く結ばれる唇。湊がそのことに触れようとすると、彼女は決まって笑顔で話を逸らした。その笑顔が、あまりにも完璧で、かえって湊の胸を締め付けた。彼女が抱える秘密の正体を知りたい。そう思うようになった頃には、湊はもう、彼女のいない日常を想像できなくなっていた。
第三章 砕け散ったプリズム
文化祭の日、学園は非日常の熱気に包まれていた。クラスの模擬店も、ステージの発表も、湊にはどこか遠い世界の出来事だった。彼は陽菜からの『午後三時、屋上で。今日、最高の空が撮れるよ』という短いメッセージだけを頼りに、人混みをかき分けて旧校舎へと向かった。
約束の午後三時。しかし、そこに陽菜の姿はなかった。フェンスには、いつものように彼女のカメラだけが、空に向けられて固定されていた。五分、十分と時間が過ぎる。胸騒ぎがして、湊は屋上を飛び出した。彼女が行きそうな場所を探し回るが、どこにもいない。
まさか、と思い、新校舎の保健室のドアを勢いよく開けた。
そこに、陽菜はいた。
ベッドに横たわり、真っ青な顔で、細く息をしている。傍らには、深刻な顔をした養護教諭と、見知らぬ大人の女性が立っていた。陽菜の母親だった。
「……陽菜!」
湊の声に、陽菜がゆっくりと目を開けた。その瞳には、いつもの輝きがなかった。
「……みなとくん。ごめん、行けなくて……」
「どうしたんだ、一体……」
答えをくれたのは、陽菜の母親だった。その声は、諦めと悲しみが滲んでいた。
「この子は……病気なんです。網膜色素変性症……。少しずつ、視野が狭くなって、やがては光を失ってしまう……」
ハンマーで頭を殴られたような衝撃だった。湊の頭の中で、これまでの全てのピースが一つの悲しい絵を完成させた。
陽菜が空ばかり撮っていた理由。
「この世界でたった一つの、特別なもの」という言葉の意味。
それは、彼女自身の失われゆく視界に映る、「最後の空」だったのだ。
彼女は、完全に見えなくなる前に、大好きだった空の色、雲の形、太陽の光を、一枚でも多くフィルムに焼き付けようとしていた。彼女にとって、ファインダー越しの風景は、失われゆく世界のスケッチそのものだったのだ。
「最高の空が撮れるって言ったのに……」陽菜が涙声で呟いた。「今日の空、すごく綺麗だった?」
湊は何も答えられなかった。これまで彼女の行動を、ただの風変わりな趣味だとしか思っていなかった自分が、愚かで、どうしようもなく許せなかった。彼女が一人で抱えていた絶望の深さに、なぜ気づけなかったのか。湊の世界は、音を立てて砕け散った。プリズムが砕けるように、彼女が教えてくれたはずの鮮やかな光が、無数の痛みの破片となって胸に突き刺さった。
第四章 君が遺した光
陽菜は、その日を境に入院した。病状の進行は早く、彼女の視力は急速に失われていった。湊は毎日、病室を見舞った。陽菜は気丈に振る舞おうとしたが、その瞳から光が消えていくのが、湊には痛いほどわかった。
屋上に残されていたカメラと、陽菜の部屋にあった大量のフィルム。湊はそれらを全て預かり、現像した。現像された写真には、湊が知る空も、知らない空も、無数にあった。雨上がりの逆さの空、夕焼けの教室、夏の入道雲。一枚一枚が、陽菜が見ていた世界の断片だった。
「これじゃ足りない」
湊は呟いた。写真だけでは、陽菜が感じていた全てを伝えられない。風の匂い、空気の温度、その時聞こえた音、そして、二人で交わした何気ない会話。それら全てがあって、初めて彼女の「空」になるのだ。
湊は決意した。他人と関わることをやめた彼が、初めて自分の意志で、他人のために動くことを選んだ。彼はクラスメイトに頭を下げた。事情を話し、協力を求めた。驚いたことに、誰も彼を笑わなかった。クラス委員は点字を打てる祖母に頼んでくれ、美術部の友人は美しい装飾を施したアルバムを用意してくれた。
湊は、現像した写真一枚一枚に、その時の記憶を言葉にして添えた。
『この日は少し肌寒くて、君はくしゃみをした。風が止んだ瞬間に撮った、逆さの空だ』
『西日が眩しくて、君は目を細めていた。理科室のアルコールの匂いがした』
そして、その言葉を、クラスメイトが点字シールにして写真の余白に貼り付けてくれた。
数週間後、分厚いアルバムが完成した。湊がそれを陽菜の病室へ持って行くと、彼女はもう、湊の顔さえぼんやりとしか見えなくなっていた。
「陽菜。君のアルバムができた」
湊がアルバムを彼女の手に乗せると、陽菜は震える指先で、そっとページをめくった。そして、写真の横にある点字の凹凸に触れた。
『……最高の空が撮れるって言った文化祭の日。空は、泣きたくなるくらい青かったよ』
最後のページに添えられた湊の言葉を、陽菜は指でゆっくりとなぞった。やがて、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ、アルバムの上に落ちた。
「……ありがとう」
彼女は、光を失った瞳で、それでも確かに湊を見て微笑んだ。
「ありがとう、湊くん。これで、私の空は……永遠になった」
その笑顔は、湊が今まで見たどんな空よりも、美しく、切なく、輝いて見えた。
あれから五年。
大学生になった湊は、今もあの古いフィルムカメラを手に、時々空を撮っている。陽菜がどうしているのか、湊は知らない。知るのが少し怖いのかもしれない。
だが、ファインダーを覗き、シャッターを切るたびに、彼は思い出す。
世界はこんなにも色鮮やかで、光に満ちているのだと教えてくれた少女のことを。
彼の灰色の世界に、永遠の光を遺してくれた、君のことを。
湊の心の中には、今も彼女が撮ろうとしていた、あの日の「最高の空」が広がっている。それはきっと、誰にも見せることのできない、彼だけの宝物なのだ。