第一章 気まぐれなコンクリート
僕たちの通う県立湊ノ丘高等学校は、生きている。
比喩ではない。この学校は、明確な意志と感情を持っているのだ。
月曜日の朝、校門をくぐると、校舎全体が柔らかな桜色に染まっていた。昨日までの無機質なコンクリートの色合いはどこにもない。空気には、春一番のような甘い花の香りが満ちている。生徒たちは慣れたもので、「ああ、今日はご機嫌だな」「詩でも詠みたくなる色だ」などと軽口を叩きながら昇降口へ向かう。
今日の校則は、靴箱の上に置かれた黒板に、流麗なチョークアートでこう書かれていた。『本日の校則:廊下を歩く際はスキップすること。ただし、心の中で歌を歌う者に限る』。馬鹿げている、と誰もが思う。だが、誰も逆らわない。逆らえばどうなるか、僕たちは知っているからだ。以前、学校の機嫌が悪い日に校則を無視した生徒が、教室の扉を開けた瞬間、扉が壁と一体化して丸一日閉じ込められたことがあった。
僕は、相沢海斗。この気まぐれな学校に馴染めない、ただの一生徒だ。皆が楽しげにスキップする廊下を、僕はぎこちなく跳ねながら進む。心の中では何の歌も流れていない。ただ、コンクリートの壁に手を触れ、その微かな振動に耳を澄ませる。桜色の壁は、ほんのりと温かい。まるで、はにかむ誰かの頬のようだ。
教室に入ると、窓から差し込む光が虹色のプリズムを描き、黒板には数式ではなく美しい風景画がひとりでに浮かび上がっていた。今日の授業は自習になるだろう。学校の「感情」が豊かすぎる日は、教師たちも授業のコントロールを諦めるのだ。
友人たちは、この非日常をイベントのように楽しんでいる。だが僕は、この予測不可能性が息苦しかった。まるで巨大で気まunnaな生き物の胃袋の中にいるような感覚。いつ機嫌を損ね、僕たちを消化してしまうかも分からない。だから僕は、いつも壁に、床に、窓ガラスに触れる。その質感、温度、響きから、学校の次の感情を読み取ろうと必死だった。それは、臆病な僕なりの生存戦略だった。
ふと、中庭に目をやる。そこには、一本だけ、葉をほとんど落とした枯れかけの古木が立っている。どんなに学校がご機嫌で、校舎中が花で満たされる日でも、あの木だけはいつも冬のまま、寂しげに空を突いている。まるで、この祝祭じみた狂騒から、たった一人取り残されているかのように。僕はその姿に、どうしようもなく自分を重ねていた。
第二章 沈黙の対話
数週間後、学校は長い不機嫌の季節に突入した。校舎は重苦しい鉛色に沈み、廊下はまるで洞窟のように薄暗く、どこからともなく冷たい隙間風が吹き抜ける。空は晴れているのに、教室の窓ガラスには絶えず雨粒のような水滴が流れ落ち、僕たちの顔を濡らした。
校則は日を追うごとに厳しく、そして陰鬱になった。『私語を禁ずる』『笑顔を禁ずる』『他者と視線を合わせることを禁ずる』。学校全体が巨大な喪に服しているようで、生徒たちの間にも疲労と苛立ちが蔓延していた。誰もが、この陰気なコンクリートの塊にうんざりしていた。
そんなある日、僕は一つの仮説に思い至った。学校の不機嫌は、あの中庭の古木と関係があるのではないか。皆が学校の派手な変化に気を取られている間、僕はあの木をずっと観察していた。学校が鉛色に染まった日、古木の幹には深い亀裂が走り、まるで苦しみに呻くように、微かに軋む音がしていたのだ。
放課後、僕は意を決して中庭に足を踏み入れた。鉛色の空の下、古木は一層痛々しく見えた。乾ききった土、ひび割れた樹皮。誰からも忘れ去られた存在。僕はしゃがみ込み、そっとその幹に手を触れた。冷たく、ざらりとした感触。死んでいるように見える。だが、指先に意識を集中すると、その奥にかすかな、本当に微かな脈動のようなものを感じた。
「……寒いのか? 喉が、渇いてるのか?」
誰に聞かせるでもなく、僕は呟いた。自分の声が、静まり返った中庭に虚しく響く。僕は水飲み場からバケツで水を汲んでくると、何度も往復し、木の根元にゆっくりと注いだ。乾いた土が、ごくりと喉を鳴らすように水を吸い込んでいく。そして、古木の周りに生えた雑草を、一本一本丁寧に抜き始めた。
それは奇妙な光景だっただろう。鉛色の校舎の下で、一人の生徒が黙々と枯れ木の世話をしている。何人かの生徒が窓から僕を見て、訝しげな顔をしていた。だが、僕は構わなかった。これは僕と、この学校との、誰にも邪魔されない対話なのだ。
数日間、僕は毎日その行為を続けた。すると、信じられない変化が起きた。僕が古木の世話をしている時間だけ、校舎の鉛色が少しだけ薄らぐのだ。教室を濡らしていた水滴が止み、冷たい隙間風が和らぐ。それは本当に些細な変化で、僕以外、誰も気づいていないようだった。それでも、僕には分かった。この学校は、僕の行いを見ている。そして、応えようとしてくれている。僕は初めて、この巨大な生き物と心が通じたような、不思議な高揚感を覚えていた。
第三章 孤独の残響
変化は、満月の夜に訪れた。どうしても古木のことが気になり、僕は閉校後の学校にこっそりと忍び込んだ。月明かりが中庭を銀色に照らし、古木のシルエットを幻想的に浮かび上がらせている。
いつものように幹に手を触れた、その瞬間だった。
世界が、反転した。
脳内に、言葉ではない何かが、激流となって流れ込んできた。それは映像であり、音であり、そして、僕のものではない膨大な感情の奔流だった。
―――セピア色の記憶。セーラー服の少女たちが笑いさざめく、古い木造校舎の廊下。チョークの匂い。窓の外で揺れる、若々しい緑の葉をつけた、あの古木。
―――一人の少女の視点。彼女は病室のベッドにいる。窓から見えるのは、遠い空だけ。友人たちからの手紙。『卒業式、待ってるからね』という文字が、涙で滲む。
―――卒業式の日。晴れやかな陽光。体育館に響く合唱。しかし、彼女はそこにいない。彼女の魂だけが、誰もいない教室を、廊下を彷徨っている。友と学び、笑い、泣いたこの場所から離れたくない。卒業したくない。一人になりたくない。
―――強烈な孤独。置いていかれることへの恐怖。学び舎への執着。そのあまりに強い思念が、古い校舎の隅々に染み渡り、やがてコンクリートの塊に新たな「魂」を宿らせていく―――。
僕は激しい眩暈に襲われ、その場に崩れ落ちた。息が荒い。心臓が早鐘を打っている。
全てを、理解した。
この学校は、かつてこの場所にいた一人の少女の「思念体」なのだ。卒業を前にしてこの世を去り、友人たちと共に学び舎を去ることができなかった少女の、深い孤独と愛着が生み出した奇跡、あるいは呪い。
学校の気まぐれな感情は、彼女の心の叫びそのものだった。生徒たちが楽しそうにしている日は、彼女も嬉しくて校舎を桜色に染める。誰かが孤独を感じていると、彼女も悲しくなって鉛色の涙を流す。そして、中庭の古木は、生前の彼女が最も愛した場所であり、彼女の魂の核だったのだ。
僕は、この学校の、たった一人の理解者になってしまった。
そして同時に、恐ろしい真実にも気づかされた。この学校が最も恐れていること。それは「卒業」だ。生徒たちが自分たちの未来へと旅立っていくたびに、彼女は再び一人になる。あの日の別れが、何度も、何度も繰り返される。だから、卒業式が近づくと、学校は決まって荒れ狂うのだ。
僕は月明かりに照らされた校舎を見上げた。それはもう、無機質なコンクリートの塊には見えなかった。深い悲しみを抱え、誰にも理解されずに佇む、巨大な少女の姿に見えた。
第四章 君と歩む卒業
卒業式の一週間前、学校はついに牙を剥いた。
校舎は漆黒に染まり、全ての窓と扉は意思を持って固く閉ざされた。廊下は無限に伸び縮みし、階段は上下が逆さまになる。僕たちは、巨大な迷宮に閉じ込められてしまったのだ。スピーカーからは、嵐のような風の音と、少女のすすり泣きのような音が絶え間なく流れている。
生徒たちはパニックに陥り、泣き叫ぶ者、壁を叩き続ける者で、校内は混沌と化した。教師たちも為す術がない。
「行かないで」
「独りにしないで」
「ずっと、ここにいて」
少女の悲痛な声が、僕の頭の中にだけ直接響いてくる。胸が張り裂けそうだった。彼女の孤独が、痛いほどわかる。
だが、僕はもう以前の僕ではなかった。この学校との対話を通して、僕は臆病な殻を破り始めていた。僕は、彼女を救いたい。そして、僕たちも未来へ進まなくてはならない。
僕は、パニックに陥る友人たちの間を抜け、たった一つの目的地へと向かった。歪む廊下を走り、ねじれる階段を駆け上り、彼女の魂の核である、中庭の古木を目指した。
ようやくたどり着いた中庭は、暴風が吹き荒れる異界と化していた。古木が激しく揺れ、その枝はまるで僕を拒絶する腕のようにしなっている。僕は風に抗いながら、その幹に必死でしがみついた。
「わかるよ! 君の気持ちは、痛いほどわかる!」
僕は叫んだ。声は風にかき消されそうになる。それでも、この想いは必ず届くと信じて、言葉を紡いだ。
「一人になるのが怖いんだろ! 僕もだよ! 僕も、ここから出て、新しい世界に行くのが怖い! でも、行かなくちゃいけないんだ!」
僕は幹に額を押し付け、続ける。
「卒業は、終わりじゃない。別れでもない。僕たちが君と過ごしたこの三年間は、絶対に消えない。僕たちが君に教えてもらったこと、ここで感じた喜びも悲しみも、全部、僕たちが外の世界に持って行くんだ! 僕たちの心の中で、君はずっと生き続ける! だから、君はもう一人じゃないんだ!」
内向的で、自分の意見を言うのが苦手だった僕が、これほど必死に誰かに想いを伝えたのは初めてだった。それは、彼女のためであり、僕自身のためでもあった。
すると、奇跡が起きた。
荒れ狂っていた風が、ぴたりと止んだ。漆黒に染まっていた校舎に、夜明けのような柔らかな光が差し込み始める。僕の頭に響いていたすすり泣きが、穏やかな溜息に変わった。
固く閉ざされていた校門が、ゆっくりと、本当にゆっくりと開いていくのが見えた。
卒業式の日。湊ノ丘高等学校は、これまで誰も見たことがないほど、美しく澄み渡った空色に染まっていた。それはまるで、長年の悲しみを乗り越え、晴れやかな気持ちで僕たちを送り出してくれる、少女の微笑みのようだった。
式が終わり、僕は最後に一人、校門を振り返った。
すると、あの中庭の古木―――一年中、枯れ木同然だったあの木の枝先に、たった一輪だけ、幻のような、純白の花が咲いているのが見えた。
その花は、風に揺れながら、まるで僕に「ありがとう」と囁いているようだった。
涙が、頬を伝った。それは悲しみの涙ではなかった。
僕はもう、一人ではない。あの学校との対話を通して、見えない誰かの心に寄り添い、繋がることの意味を知ったのだから。
空色の校舎に別れを告げ、僕は未来へと続く道を、確かな一歩で踏み出した。僕の心の中には、永遠に卒業しない、大切な友人がいる。