第一章 記憶の古物商
路地裏の突き当たり、蔦の絡まるレンガ造りの建物の扉には、煤けた真鍮のプレートが一つ。「記憶保管庫 カイ」とだけ、素っ気なく刻まれている。俺の仕事は、記憶を買い取ることだ。人々が心の奥底にしまい込み、鍵をかけ、忘れたいと切に願う記憶。それを、特殊な装置で当人の脳から抽出し、手のひらサイズのガラス瓶に封じ込めて保管する。それが俺、カイの生業だった。
店内は、薬瓶が並ぶ古い薬局のような匂いがした。埃と、乾燥したハーブ、そして無数の感情が澱のように沈殿した匂い。棚にずらりと並んだガラス瓶の中では、買い取った記憶が、色とりどりの液体のように揺らめいている。鮮やかな紅は激しい怒り、淀んだ藍は深い悲しみ、鈍い灰色は消えない後悔。俺はそれらを商品のように眺めるだけで、決して中身に深入りはしない。感情を切り離すこと、それがこの仕事を長く続けるための唯一のコツだった。
ある雨の午後、扉のベルが寂しげな音を立てた。入ってきたのは、背中の丸まった小柄な老婆だった。深く刻まれた皺は、彼女が生きてきた年月の地図のようだ。その瞳だけが、雨の日の窓ガラスのように澄んでいた。
「ここが、記憶を買い取ってくださるお店かね」
しわがれた、しかし芯のある声だった。
「ええ、そうです。忘れたい記憶がおありで?」
俺はいつものように、感情を乗せずに尋ねた。客の感傷に付き合うのは時間の無駄だ。
老婆はゆっくりと首を横に振った。その仕草が、俺の日常に小さな波紋を立てた。
「いや、逆さ。わしは、忘れてしまった記憶を買い取ってほしいんじゃ」
思わず、眉をひそめた。忘れた記憶を、買い取る? 意味が分からない。
「ご冗談でしょう。存在しないものは買い取れません。当店の専門は、あくまで『忘れたい』記憶、つまり、今あなたの中にある不要な記憶だけです」
「知っておる。じゃが、どうしてもお願いしたい。わしには、どうしても思い出したい、大切な一日がある。病のせいで、その記憶だけがすっぽりと抜け落ちてしまってのう。その記憶がないことが、今のわしを一番苦しめる。だから、この『記憶がないという苦しみ』を、あんたに買い取ってもらいたいんじゃ」
前代未聞の依頼だった。忘却そのものを商品として差し出す客など、これまで一人もいなかった。俺は腕を組み、ガラス瓶の向こうにいる老婆を見つめた。彼女の澄んだ瞳の奥に、俺が今まで扱ってきたどの記憶とも違う、静かで、しかし途方もなく深い絶望が揺らめいているように見えた。
第二章 不在の対価
老婆――ハルと名乗った――は、それから毎日、同じ時間に店を訪れた。俺が何度断っても、彼女は諦めなかった。ただ静かに椅子に腰掛け、窓の外の雨を眺めている日もあれば、ぽつりぽつりと、その「失われた一日」について語る日もあった。
「主人が亡くなって、もう五年になる。優しい人じゃった。わしが花が好きだと言えば、次の日には庭を掘り返して、小さな花壇を作ってくれるような……そんな人じゃった」
ハルの声は、遠い昔を懐かしむ音色をしていた。
「その人が亡くなる少し前、最高の贈り物をしてくれたんじゃ。二人で過ごした、夢のような一日を。じゃが、どんなに思い出そうとしても、霧がかかったように思い出せん。どこへ行って、何を見て、どんな話をしたのか……。ただ、とてつもなく幸せだったという感情の残り香だけが、胸にある」
その感情の残滓が、かえって彼女を苦しめているのだと、俺にも分かった。幸福の記憶そのものを失い、幸福だったという事実だけが残る。それは、宝箱のありかを示す地図を失くし、宝の存在だけを知らされているようなものだ。残酷な拷問に等しい。
一週間が経った頃、俺は根負けした。彼女の瞳に宿る静かな執念が、俺の「仕事」という名の分厚い壁に、少しずつひびを入れていた。
「分かりました。その『記憶の不在』、買い取りましょう」
俺がそう言うと、ハルは顔を上げ、深々と頭を下げた。皺だらけの目元に、光るものが滲んでいた。
「ただし、買い取る以上は、対価をいただきます。あなたが一番大切にしているものを」
これは俺なりの、最後の意地悪だったかもしれない。実体のないものを買い取るのだから、それ相応の「重さ」を持つものでなければ釣り合わない。
ハルは少しも迷わなかった。彼女は大切そうに抱えていた布袋から、古びた一本の万華鏡を取り出した。真鍮の筒は黒ずみ、細かな傷が無数についている。決して高価なものではない。
「これは、主人が若い頃に作ってくれたものじゃ。わしの宝物。これを、対価として受け取ってくだされ」
俺はそれを受け取り、契約書にサインをさせた。そして、抽出装置――ただの形式だ――のヘッドセットを彼女につけ、スイッチを入れた。ガラス瓶には、何も満たされなかった。空っぽの瓶。それが、彼女が売った「記憶の不在」の証明だった。
ハルは、どこか憑き物が落ちたような、穏やかな顔で店を去っていった。俺の手元には、空のガラス瓶と、古びた万華鏡だけが残された。虚しい取引だった、と俺は思った。
第三章 万華鏡の海
その夜、俺は手持ち無沙汰に、ハルから受け取った万華鏡を手に取った。子供の頃に誰もが一度は遊んだことのある、ありふれた玩具。振れば、カラカラと乾いた音がする。一体どんな景色が見えるのか。大して期待もせず、俺は片目を閉じ、筒の先を蛍光灯の光にかざした。
息を、呑んだ。
そこに広がっていたのは、色ガラスの幾何学模様ではなかった。
それは、一つの鮮やかな「世界」だった。
どこまでも続く、夏の青い空。きらきらと光を反射する、穏やかな海。白い砂浜を、裸足で駆け回る若い男女の姿が見えた。男は、日に焼けた腕で女を軽々と抱き上げ、楽しそうに笑っている。女は、きゃっきゃっと声を上げ、その首に腕を回している。風に揺れるワンピース、潮の香り、遠くに聞こえるカモメの鳴き声、肌を撫でる太陽の暖かさ。五感の全てが、洪水のように流れ込んでくる。
それは紛れもなく、一つの完璧な「記憶」だった。若き日のハルと、彼女の夫が過ごした、幸福に満ち溢れた一日の記憶。
俺は愕然とした。これはただの万華鏡ではない。持ち主の最も幸福な記憶を封じ込め、映し出す魔法の装置だったのだ。
ハルは、記憶を失ってなどいなかった。彼女は、この万華鏡に記憶を「保管」していたのだ。そして、それを見ることが、何よりも辛かった。最愛の夫を失った今、この完璧な幸福の記憶は、彼女の胸を鋭い刃物のように引き裂く。だから、彼女は「忘れてしまった」と自分に嘘をつき、この万華-鏡を手放す口実を探していた。俺に買い取らせたのは「記憶の不在」などではない。「幸せすぎて直視できない記憶」そのものだったのだ。
俺は、棚に並んだガラス瓶に目をやった。怒り、悲しみ、後悔。俺が「不要なもの」として買い取ってきた、数多の記憶たち。だが、ハルの万華鏡は教えてくれた。どんな記憶も、ただの一色ではない。悲しみの裏には愛があり、後悔の下には希望があったのかもしれない。俺はただ、記憶の表面的な色だけを見て、その奥にある物語から目を背けてきただけではないのか。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。それは、俺が長年封じ込めてきた感情だった。他人の記憶を扱うことで、自分自身の空虚さから逃げてきた。だが、ハルの純粋な愛と痛みに満ちた記憶は、俺の心の分厚い扉を、いとも簡単にこじ開けてしまった。
第四章 返された光
翌日、俺は店を閉め、ハルの家を訪ねた。古いが、手入れの行き届いた小さな家。庭には、ハルが好きだと言っていた色とりどりの花が咲き誇っていた。
「カイさん……どうしてここに」
驚くハルに、俺は黙って万華鏡を差し出した。
「これは、あなたが持っているべきものです」
ハルは、万華鏡と俺の顔を交互に見て、やがて全てを悟ったように小さく微笑んだ。
「見てしまわれたんじゃな。あの、まぶしすぎる一日を」
「ええ。……だから、分かったんです。あなたは忘れたかったんじゃない。ただ、一人で見るのが辛すぎたんだ」
俺の言葉に、ハルの澄んだ瞳から、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなかった。堰を切ったように溢れ出す、安堵と、愛しさと、そして感謝の涙だった。
「ありがとう。ありがとう、カイさん。あんたに一度預けたおかげで、わしも、もう一度あの人と向き合う勇気が持てそうじゃ」
彼女は震える手で万華鏡を受け取り、そっと胸に抱いた。その姿は、失われた宝物を取り戻した巡礼者のように見えた。
店に戻った俺は、一人、薄暗い中で棚のガラス瓶を眺めていた。以前はただの色の羅列にしか見えなかったそれらが、今は一つ一つ、異なる重みと物語を持つ、尊い人生の断片に見えた。
俺は自分の仕事の本当の意味を、初めて理解した気がした。記憶を消し去ることじゃない。人々が、辛い記憶と共存し、それでも前を向いて歩き出すための、ほんの少しの手助けをすること。記憶を一時的に預かる「保管庫」であること。それが、俺の役割なのだ。
棚の一番奥に、俺が決して触れなかったガラス瓶が一つだけある。中には、濁った鉛色の液体が沈殿している。それは、俺自身の記憶。孤独だった幼少期、誰からも愛されなかったという、俺が最も忘れたいと願った記憶だ。
俺はゆっくりと、その瓶を手に取った。ずしりと重い。
ハルが万華鏡と向き合う勇気を持てたように、俺もまた、自分の過去と向き合わなければならない。
俺は静かに、ガラス瓶のコルク栓に指をかけた。窓から差し込む夕陽が、瓶の中の鉛色を、ほんのわずかに、金色に染めていた。蓋を開けた先にあるのが痛みだけではないことを、俺はもう知っていた。