第一章 灰色の古書店
世界から色彩が失われて、もうどれくらいの時が経っただろうか。かつて空は青く、木々は緑に燃え、人々の頬は生命の赤みを帯びていたという。だが今、目に映るすべては濃淡の異なる灰色に沈み、まるで未完成のスケッチの中に閉じ込められたようだった。街を覆う沈黙は重く、人々の表情からは感情の起伏が消え失せ、ただ義務のように日々をやり過ごしていた。
僕、蒼(アオ)は、そんな灰色の街の片隅で、古書店を営んでいた。埃とインクの匂いが染みついたこの場所だけが、僕の避難所だった。僕には、生まれつき厄介な能力があった。他者の強い「感動」を間近で感じると、その感情が生まれた過去の原風景か、あるいはそれがもたらす未来の結末を、脳裏に焼き付けられてしまうのだ。歓喜も、悲哀も、怒りも、すべてが奔流となって僕の精神を侵食する。だから僕は、人との関わりを絶ち、静かに本と向き合うことを選んだ。
店のカウンターには、古びた砂時計がひとつ置かれていた。祖父から受け継いだ「感情の砂時計」。中の砂は、夜空に浮かぶ「記憶の月」の輝きを映すという。月が強く輝けば虹色に、弱まれば灰色に。今の砂は、まるで死んだように淀んだ鉛色をしていた。伝説では、この月こそが人々の感動の源であり、その輝きが失われると、世界から色彩と記憶が失われていくのだという。
その日、店のドアベルが、錆びついた音を立てた。入ってきたのは、白い杖を携えた一人の少女だった。
「ごめんください。古いオルゴールを、探しているんです」
少女は陽菜(ヒナ)と名乗った。その瞳は何も映してはいなかったが、彼女の顔は不思議なほどに豊かで、世界の灰色に染まっていなかった。
第二章 刹那の虹彩
陽菜が探していたのは、店の奥で埃を被っていた小さな木製のオルゴールだった。僕がゼンマイを巻くと、掠れた、しかし澄んだ音色が静寂を破った。それは、遠い昔に忘れ去られた子守唄の旋律だった。
陽菜は、その音にじっと耳を澄ませていた。やがて、彼女の唇が微かに綻び、その頬をひとすじの涙が伝った。
「……きれいな、音の色」
その瞬間だった。
僕の脳裏に、閃光が迸る。強烈なビジョン。それは未来の光景だった。一面に咲き誇る、色とりどりの花畑。陽菜が、その中央に立っている。彼女は空を見上げ、その瞳は確かに世界の色彩を映し、太陽の光を受けて輝いていた。彼女は泣きながら、心の底から微笑んでいた。それは、世界が色を取り戻した日の、彼女の歓喜の涙だった。
全身を駆け巡る激しい感動の余韻に、僕は突き動かされていた。気づけば、僕はカウンターの「感情の砂時計」を手に取り、衝動的にそれを逆さにしていた。
次の瞬間、世界は息を吹き返した。
鉛色の砂が流れ落ちると同時に、古書店の内部が爆発的な色彩で満たされた。本の背表紙は深紅や瑠璃色に輝き、床の木目は温かい琥珀色を帯びる。窓の外では、石畳が濡れたように艶めき、空には淡い水色が滲んでいた。古書の革の匂いが鼻腔をくすぐり、インクの香りが記憶を呼び覚ます。
「すごい……感じる……!」
陽菜は歓喜の声を上げた。彼女は「見える」とは言わなかった。全身で、世界の色彩を浴びているようだった。
だが、虹色の時間は刹那だった。砂時計の砂がすべて落ちきると、世界は急速に彩度を失い、再び冷たいモノクロームの世界へと収縮していく。そして、砂時計の中の砂は、以前よりもさらに色褪せ、まるで燃え殻のようだった。僕は知っていた。この砂時計は、世界の寿命そのものを削り取って、一瞬の夢を見せるのだと。
第三章 月の慟哭
「月が、泣いているの」
数日後、再び店を訪れた陽菜がぽつりと言った。彼女は目が見えない代わりに、世界の微細な音を聞き分けることができた。人々の心の軋み、建物の呼吸、そして、夜空に浮かぶ月の、か細い慟哭までも。
彼女の言葉は、僕の中で燻っていた疑念に火をつけた。なぜ月は輝きを失っているのか。人々はなぜ感動を忘れてしまったのか。僕の能力が映し出す断片的なビジョンは、いつも核心の部分で巨大な影のようなノイズに遮られていた。まるで、何者かが意図的に真実を隠しているかのように。
僕は決意した。この謎を解き明かすために、僕はこの能力を使わなければならない。
僕は街に出た。人々の間に辛うじて残る、感動の残り火を探して。病院の待合室で、生まれたばかりの我が子を抱きしめる父親の震える肩。路地裏で、老夫婦が分け合う一つのパンに宿る、静かな愛情。僕は彼らの感動に触れるたび、ビジョンを見た。しかし、やはり巨大な影がそれを覆い隠し、真実を見せてはくれなかった。
「感動を吸い取っている……何かが」
その影は、まるで世界中の感動を一身に集め、そして消し去っているように感じられた。僕はビジョンの断片を必死に繋ぎ合わせる。影の中心は、いつも同じ方向を指し示していた。街で最も高い、あの古い時計塔だ。
第四章 偽りの塔
「あそこに行けば、何かがわかるはずだ」
僕の言葉に、陽菜は黙って頷いた。僕たちは二人で、街の中心に聳え立つ時計塔へと向かった。螺旋階段を上りきると、そこには広大な空間が広がっていた。部屋の中央には、僕がビジョンで見たものと同じ、巨大な機械が鎮座していた。複雑に絡み合ったパイプと歯車が、弱々しい光を発しながら、不気味な低い唸りを上げていた。
これが、世界から感動を奪う装置。人々を無気力にし、世界を灰色に変えた元凶。
「これを止めれば、世界は……!」
僕が機械に駆け寄り、その動力源と思しき部分を破壊しようと手を振り上げた、その瞬間だった。
視界が、白く染まる。
これまで経験したことのない、最も強大で、最も鮮明なビジョンが僕の精神を呑み込んだ。それは、この時計塔が建てられた数百年前の光景だった。先人たちが、日に日に輝きを失っていく「記憶の月」を憂い、最後の希望を託してこの装置を組み上げていた。
これは、感動を奪う機械などではなかった。正反対だ。世界に僅かに残された人々の感動を集め、増幅させ、弱りゆく月へと届けるための……必死の祈りの装置だったのだ。僕がビジョンで見た巨大な影は、この装置の姿そのものだった。
そして、ビジョンは僕に本当の真実を告げた。世界から感動を奪い、月を翳らせている存在の名を。その巨大な意思の正体を。
第五章 慈愛のモノクローム
僕は、膝から崩れ落ちていた。脳裏に流れ込んできた真実は、あまりにも残酷で、そしてあまりにも哀しいものだったからだ。
世界を『無感動』へと導いていたのは、夜空に浮かぶ「記憶の月」、そのものだった。
僕が見た最後のビジョンは、もはや僕自身の視点ではなかった。それは、遥か天空から地上を見下ろす、月の視点だった。悠久の時をかけて、月は人類の歴史のすべてを記憶していた。人々が強すぎる感動――愛、憎悪、歓喜、絶望――に突き動かされ、輝かしい文明を築き、そしてその感動の炎で自らを焼き尽くし、幾度となく破滅してきた歴史を。
燃え盛る街。血と涙に濡れた大地。愛する者を失った絶叫。そのすべてが、月の記憶に刻み込まれていた。
そして、月は決断したのだ。
これ以上、愛しい我が子である人類が、自滅の歴史を繰り返さないように。破滅の連鎖を断ち切るために、自らの記憶を糧にして、人々の心から過剰な感動を、ゆっくりと、ゆっくりと希薄化させることを。
それは、人類に向けられた、限りなく深く、そして悲痛な『慈愛』という名の、究極の自己犠牲だった。世界を灰色に染めていたのは、憎しみでも悪意でもない。ただ、我が子の未来を案じる親のような、途方もない愛だったのだ。
月の意識が、僕に直接語りかけてくるようだった。その声は、長い旅路の終わりに安堵するような、穏やかな響きをしていた。月は、その最後の『慈愛』という感動を燃やし尽くし、今、静かな終焉を迎えようとしていた。
第六章 夜明けの色
ビジョンから覚醒した僕の頬を、熱いものが伝っていた。時計塔の床に、いくつもの染みができていた。
「月は……ずっと泣いていたのね」
隣にいた陽菜が、そっと僕の手に触れた。彼女の指先は冷たかったが、その温もりは確かに僕の心に届いた。彼女には見えていなくとも、僕が体験した月の哀しみを、その魂で感じ取っていたのだ。
僕は立ち上がり、懐から「感情の砂時計」を取り出した。燃え殻のようになった砂が、静かに底に溜まっている。僕はそれを、陽菜の小さな手に握らせた。
「これは君が持っていて。いつか、本当に必要な時が来るかもしれないから」
彼女は黙って、それを大切そうに胸に抱いた。
僕たちは時計塔を降りた。月の悲しい決意を受け入れた今、この灰色の世界が、以前とは少し違って見えた。これは罰ではない。絶望でもない。ただ、深すぎる愛によって与えられた、静かな時間なのだ。
僕たちは、この世界で生きていく。過剰な感動に身を焦がすことなく、ささやかで、けれど確かな温もりを見つけながら。陽菜が聞く音の色のように、僕が古書の中に感じる時の重みのように。
翌朝、僕は古書店の窓を開けた。東の空が、ほんの僅かに、薔薇色に染まっているように見えた。それは世界の色彩が戻ったわけではないのかもしれない。あるいは、月の最後の慈愛が残した、ささやかな贈り物だったのかもしれない。
いや、きっと違う。
それは、僕自身の心の中に、哀しみと愛しさの果てに生まれた、新しい感動の色だった。僕と陽菜が、これからこの世界で紡いでいく、物語の始まりを告げる夜明けの色だった。