幻桜抄 音なき響きの剣

幻桜抄 音なき響きの剣

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第一章 色彩の静寂

朔(さく)の視界に、世界は音の色彩として映る。

盲いた両の眼は光を捉えぬ代わりに、万物の響きを色の波紋として拾い上げるのだ。人々の話し声は柔らかな橙に、駆ける足音は鋭い黄に、そして風が暖簾を揺らす音は、淡い緑の漣(さざなみ)となって空間に広がる。

しかし、今日の江戸は奇妙なほどに静かだった。いや、音は確かにある。だが、その全てが色褪せている。商人たちの威勢の良い声は、くすんだ灰色の靄(もや)となり、子供らのはしゃぎ声さえ、輪郭のぼやけた白茶の染みとなって地に落ちる。まるで、町全体が分厚い綿に包まれてしまったかのように、あらゆる音から生命力が失われていた。

その代わり、というように、朔の視界には別のものが舞っていた。幻の桜の花びら。人々が忘れてしまった記憶の欠片だ。常人には見えぬその花びらが、今年は異常なほどに降り積もっている。朔がそっと指先で触れると、見知らぬ老婆が孫の名を呼び間違える、刹那の情景が脳裏をよぎった。些細な、しかし確かな忘却の証。

不意に、朔は足を止めた。町の中心、火の見櫓の下。そこだけ、記憶の花びらが渦を巻き、濃密な桜色の吹雪と化していた。そして、その中心にゆらりと立ち昇る人影。それは実体ではない。大量の花びらが寄り集まって形作った、時間の停止した情景。燃え盛る炎の中、何かを叫ぶ男の、声なき絶叫。その周囲には、恐怖に歪む無数の顔、顔、顔。それは、この江戸の誰もが忘れ去ってしまった、或る日の悲劇の残響だった。

朔は腰に差した刀の柄を、そっと握りしめた。町を覆うこの静寂と、増え続ける記憶の花びら。そして、蘇る悪夢の情景。全ては繋がっている。何者かが、この町から音と記憶を、根こそぎ奪い去ろうとしているのだ。

第二章 音なき鼓の調べ

記憶の花びらの流れを追い、朔の足は古びた社へと向かった。打ち捨てられて久しいその場所は、忘却の吹き溜まりとなっていた。鳥居をくぐると、空気がひやりと肌を撫でる。境内は、幻の桜で埋め尽くされていた。

「あなたも、これが見えるのですか」

凛とした、しかし微かに震える声がした。澄んだ瑠璃色の波紋。そこに嘘の色は混じっていない。振り返らずとも、そこに若い娘が立っているのがわかった。

「……見えるだけだ」朔は短く答えた。

「私は楓(かえで)と申します。父は幕府の歴史編纂所に勤めておりました」

娘は言った。

「父は、ある事件を調べていました。十年前、この町を襲った大火。公式の記録では失火となっています。ですが父は、それが幕府による計画的な……」

言葉が途切れる。楓の声が恐怖を示す濁った赤に揺らいだ。彼女の父は、その調査の最中に謎の失踪を遂げたのだという。

朔は懐から、古びた小鼓を取り出した。『音なき鼓』。叩いても音は出ないが、周囲の音の色彩を吸収し、過去の残響を再生する力を持つ。

「幕府が隠したいもの。それこそが、この静寂の元凶か」

朔が呟いたその時だった。社の空気が、急速に凍てついていく。楓の声が放っていた瑠璃色の波紋が、掻き消されるように失せた。

ぞわり、と肌が粟立つ。

色が、消える。音が、死ぬ。

完全なる無が、すぐそこまで迫っていた。

第三章 影の術師

現れた人影の周囲は、漆黒の虚無だった。

あらゆる音の波紋を飲み込み、光さえも吸い込むような絶対的な無。朔の視界は、その一点だけがぽっかりと抜け落ちた闇に支配された。あれが「無音の術師」。

「詮索は無用。忘れよ。全てを忘れ、安寧に生きるがいい」

声ではない。思考が直接流れ込んでくるような、冷たい響き。術師がすっと右手を動かす。朔は咄嗟に刀を抜き、虚空を薙いだ。甲高い金属音は響かない。ただ、朔の刀身に鈍い衝撃だけが走り、腕が痺れた。音のない攻撃。それは、音を頼りに戦う朔にとって、致命的ともいえる敵だった。

「なぜ、記憶を奪う」

朔は問いかける。刀を構え、自身の心音――静かながらも力強い藍色の鼓動――に意識を集中させる。それだけが、闇の中で己を見失わないための唯一の標だった。

「記憶は苦しみだ。悲劇の記憶は、人を縛り、未来を蝕む毒となる。私は人々を解放するのだ。忘却という、唯一の救いによって」

術師が再び動く。今度は気配すらなかった。朔の頬を何かが掠め、一筋の血が流れる。触覚だけが、攻撃の存在を伝えてきた。このままでは嬲り殺される。

「楓、下がれ!」

朔は叫び、懐の『音なき鼓』を強く握りしめた。この闇を払うには、より強い音の響きを、過去の叫びをぶつけるしかない。しかし、それは最後の手段。鼓を使うたび、その革は白くひび割れ、命を削るように力を失っていくのだ。

朔は楓を背にかばい、闇の向こうの敵を見据えながら、一度だけ後退した。

第四章 ひび割れる過去

「刑場跡地……。父の書きつけにありました。大火は、そこから始まったと」

社の隅で震える楓が、懐から取り出した古文書の写しを広げた。記憶の花びらが、まるで道標のようにその場所へと流れ込んでいる。全ての謎の答えは、そこにある。

夜の闇に紛れ、二人は刑場跡地へとたどり着いた。そこは、この世の怨念が凝り固まったかのような、淀んだ紫色の空気に満ちていた。空からは、血のように赤い記憶の花びらが絶え間なく降り注いでいる。

「これより先は、俺一人が行く」

朔は楓にそう告げると、広場の中心へと進み出た。そして、『音なき鼓』を構える。

ぽん、と乾いた革を叩く。

音は、出ない。

だが、鼓の表面が淡い光を放ち、朔がこれまで吸収してきた江戸中の音の色彩が、奔流となって溢れ出した。橙の笑い声、黄の足音、緑の風。それらが混じり合い、渦を巻き、この土地に刻まれた最も強い記憶――絶望の残響――を呼び覚ます。

視界が、真紅に染まった。

ごう、と燃え盛る炎の色。逃げ惑う人々の恐怖が放つ、濁った赤紫の波紋。そして、幕府の役人たちが放つ、冷徹な殺意の黒い矢。

それは、失火などではなかった。

増えすぎた貧民と、幕府に反発する者たちを、一掃するための計画的な大虐殺。反乱の芽を摘むという名目の下、数千の無辜の民が、炎の中に葬られたのだ。

人々の断末魔、声なき叫びが、朔の脳髄を直接焼き付けた。

「ああ……っ!」

朔は膝をつき、激しい頭痛に耐えた。手の中の『音なき鼓』を見ると、その革には、蜘蛛の巣のように白い亀裂が深く刻み込まれていた。

第五章 無音の慟哭

過去の情景が再生されたことで、この地を覆っていた無音の術が揺らいだ。闇の向こうから、微かな音の波紋が漏れ始める。それは、苦痛に満ちた、深い藍色の響き。悲しみの色だ。

「なぜ……なぜ、思い起こさせる……」

現れた無音の術師――影と名乗った男の声は、もはや思考ではなく、微かに震える音として朔の耳に届いた。

「私は、この悲劇を無かったことにしたかった。誰も苦しまぬように。誰も思い出さぬように……」

影こそが、あの大火で一族を皆殺しにされた、ただ一人の生き残りだったのだ。彼の目的は復讐ではない。あまりにも深すぎる悲しみ故の、忘却による救済だった。

「忘れられることこそ、真の死だ」

朔は、ひび割れた鼓を懐にしまい、静かに刀を抜いた。

「彼らが確かに生きていた証を、お前の悲しみで塗り潰すな」

二人の最後の戦いが始まった。影の攻撃は、迷いを帯びていた。術が揺らぎ、音を完全に消し去ることができない。朔の視界には、影の太刀筋が、悲しみの藍色を帯びた軌跡となって映る。

朔は、もはや影の太刀筋を見てはいなかった。ただ、その中心で激しく明滅する、慟哭の心音だけを見据えていた。

藍色の波紋が、一瞬、大きく歪む。

その刹那の隙。朔の刃は、吸い込まれるように影の胸元へと伸びていた。斬るためではない。峰打ちで、その動きを止めるための一閃。

カッ、と硬い音が響き、影は崩れ落ちた。

第六章 桜舞う孤独

影が倒れた瞬間、世界が白い光に包まれた。術が解ける。町に音が戻り、人々は記憶を取り戻す――朔は、そう思った。

しかし、違った。

光が収まった時、朔が感じたのは、歓声と活気に満ちた、あまりにも明るい江戸の色彩だった。人々は笑い、語り合い、その声の波紋は、一点の曇りもない鮮やかな色を放っている。まるで、大火の悲劇など、初めから存在しなかったかのように。

影は最期に、己の命と引き換えに、究極の術を発動させたのだ。記憶を消すのではなく、歴史そのものを書き換えてしまった。

大火は「不幸な事故」として記録され、幕府の罪は永遠に闇に葬られた。犠牲者たちの存在は、歴史の彼方へと消え去った。

結果として、江戸は平和になった。幕府への不信も、過去の怨嗟もない、誰もが幸福な世界。

幻の桜の花びらは、もうどこにも舞っていなかった。忘れるべき記憶が、この世界から完全に消え失せたからだ。

「……これで、よかったのか」

朔は、雑踏の中で一人、呟いた。

誰もが幸福そうに笑っている。楓さえも、歴史編纂所で働く父の帰りを、屈託のない笑顔で待っているだろう。

この世界で、あの炎の夜を、数千の無辜の魂の叫びを覚えているのは、朔ただ一人。

彼は、音なき鼓を固く握りしめた。深い亀裂の入ったそれは、彼が背負った真実の重さそのものだった。

人々が手に入れた偽りの平和。その中で、朔はたった一人、「かつてあったはずの悲劇の記憶」を抱え、歩き出す。

誰にも知られることのない、彼の永遠の戦いが、今、始まった。

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