業火の刹那、灯篭の夢
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業火の刹那、灯篭の夢

第一章 揺らめく炎と見えざる根

俺、惣之助(そうのすけ)の目に映るこの世は、常人とは少しばかり違う。人の頭上には、その者の命そのものである「灯(ともしび)」が、ロウソクの炎のように揺らめいている。赤く力強い炎、病で弱々しく揺れる青い炎、そして、悪意に染まり淀んだ煤を出す黒ずんだ炎。生まれ落ちた時から、俺はこの景色と共に生きてきた。

江戸の町は、無数の炎で満ちている。威勢のいい魚売りの炎は勢いよく燃え盛り、物乞いの老婆の炎は今にも消え入りそうだ。そして、人々の足元。そこからは、嘘や裏切り、欲望の数だけ「業の根」が地面深くに伸びていく。俺にしか見えないその根は、淡い光を放ちながら不気味に脈動し、持ち主の運命を静かに、だが確実に蝕んでいくのだ。

俺はこの力を呪い、人の世の裏側から目を逸らすように、日本橋のたもとで古道具屋を営み、ひっそりと暮らしていた。客の命の灯が長くないとわかっても、ただ黙って繕い物を手渡すだけ。他人の業に深入りすれば、碌なことにはならない。そう、言い聞かせながら。

だがある日の夕暮れ、町に奇妙な噂が流れ始めた。大店の主や札差しの金貸しが、立て続けに屋敷で急死している、と。その死に様はまるで、魂だけを抜き取られたようだったという。その話を聞いた瞬間、俺の胸を嫌な予感がぞわりと撫でた。夕闇が迫る江戸の空に、見慣れぬ凶兆の煙が立ち上っている気がしたのだ。

第二章 青白い残光

「惣之助、力を貸してくれ」

訪ねてきたのは、南町奉行所の同心、源吾(げんご)だった。彼は俺の奇妙な力に薄々感づいている、数少ない男だ。彼の頭上の灯は、正義感の強さを示すように真っ直ぐに燃えているが、その周りには疲労の影が色濃く滲んでいた。

源吾に連れられて向かったのは、昨日三人目の犠牲者が出たという材木問屋の屋敷。鼻を突くのは、香の匂いに混じった、何かを焦がしたような異様な臭気。死体は既に片付けられていたが、その男が息絶えたという座敷には、異様な空気が澱んでいた。俺の目には、はっきりと見えた。空間に漂う、黒い煙の残滓。そして、男の命の灯が最後に放ったであろう、強烈な青白い光の残像が。

「まるで、寿命を前借りして一瞬で燃やし尽くしたかのようだ」

俺は呟いた。通常の死とは違う。これは、何者かによる強制的な「焼却」だ。

源吾が他の者と話している隙に、俺は屋敷の庭に下りた。被害者の足元から伸びていたであろう業の根。それは、地面に焼け焦げたような痕を残し、途中で断ち切られている。しかし、その痕跡は奇妙にも、皆が同じ方角を指していた。北だ。江戸の北、千住の先の荒れ果てた土地へ向かって、見えざる根がまるで道標のように続いていた。

第三章 終末の灯篭

根の痕跡を辿り、俺がたどり着いたのは、打ち捨てられて久しい古寺だった。月光が崩れた屋根から差し込み、苔むした仏像の顔に不気味な影を落としている。ひんやりとした空気が肌を刺し、ここが尋常な場所でないことを告げていた。

本堂の中心に、それはあった。黒曜石のように滑らかで、闇を吸い込むような黒い小さな灯篭。手に取ると、石のように冷たい。何の変哲もないその灯篭が、俺の足元、わずかに残っていた業の根の断片に触れた瞬間だった。

ぼうっ、と。

灯篭の内側にかすかな光が灯り、そのガラス面に影絵が映し出された。

それは、先ほどの材木問屋が、貧しい人々から不当に土地を奪い、ほくそ笑む姿だった。次に映ったのは、別の犠牲者である金貸しが、借金のかたに娘を遊郭に売り飛ばす場面。灯篭は、根の持ち主が犯した最も暗い罪を、静かに、しかし鮮明に暴き出していた。

「終末の灯篭……」

誰が呼んだ名か。俺は、この灯篭が事件の核心に繋がる鍵だと確信した。

第四章 影綱という男

「それをどうするつもりだ」

背後からかけられた声に、俺は凍りついた。振り返ると、本堂の暗がりに一人の男が立っていた。痩身の侍。その男の頭上に揺れる「命の灯」を見て、俺は息を呑んだ。

それは炎ではなかった。まるで小さな太陽だ。眩いほどの光を放ち、周囲の闇を白々と照らし出している。しかし、その輝きは生命力に満ちたものではない。他者の命を吸い上げ、無理矢理に燃え盛る、禍々しくも神々しい光だった。

「お前が、この事件を……」

「事件ではない。これは浄化だ」

男は静かに名乗った。影綱(かげつな)、と。彼は、かつてこの国で悪を斬り続けたという伝説の剣豪の末裔だった。

「この世は業の根に蝕まれ、腐りきっている。俺は、我が身を最後の薪とし、この世の不義を焼き尽くす。根を断ち切られた亡者どもは、己の業火に焼かれて消えるのが理だ」

彼の足元からは、無数の業の根が伸び、この古寺の地下深くへと収束していた。犠牲者たちの根は、彼を触媒として強制的に集められ、燃やされていたのだ。そしてそのエネルギーが、彼の命の灯を異常に輝かせている。彼は、自らの命と引き換えに、世界をリセットしようとしていた。

第五章 業火の審判

「やめろ!それは浄化じゃない、ただの破壊だ!」

俺は叫んだ。影綱の計画は最終段階に入りつつあった。江戸中の悪人たちの業の根が、この寺を目指して蠢き始めているのが、俺の目には見えた。大地が悲鳴を上げているようだった。

影綱は静かに首を振る。その瞳は、深い絶望と、狂気的なまでの決意に満ちていた。

俺は咄嗟に「終末の灯篭」を彼にかざした。灯篭は激しく明滅し、影綱の過去を映し出す。裕福な商家の息子だった彼は、父の悪行によって生じた人々の恨みによって、家族全員を惨殺されたのだ。唯一生き残った彼が見たのは、家に放たれた火と、燃え盛る炎の中で苦しむ家族の姿だった。

「業は…焼き尽くすしかないのだ」

彼の声は、慟哭のように響いた。

彼の命の灯が、ひときわ強く輝きを増す。計画が成就する時が来たのだ。江戸の空が、彼の放つ光によって真昼のように明るく照らされていく。このままでは、江戸が、そこに生きる全ての命が、彼の壮大な自己犠牲に巻き込まれてしまう。

第六章 刹那の選択

俺は覚悟を決めた。この忌むべき力、人の命と業を見るこの目で、初めて他人の運命に干渉する。

俺は影綱に向かって駆け寄り、彼の胸に手を当てた。彼の内にある、凝縮された命の光の奔流に、俺自身の全霊を注ぎ込む。

「お前の痛みはわかる!だが、未来を奪う権利は誰にもない!」

二つの力が衝突し、世界から音が消えた。

視界が真っ白に染まり、時間さえもが止まったかのような感覚。影綱の巨大な命の灯は、俺の干渉によって制御を失い、その全ての光を一度に解き放った。

それは破壊の光ではなかった。

影綱の絶望も、俺の願いも、犠牲になった者たちの無念も、全てを飲み込んだその光は、温かく、そして慈しむように江戸の隅々まで降り注いでいった。

光が人々を包んだ、その一瞬。

誰もが、己の過去の選択をやり直す「刹那の時間」を与えられた。悪行を働こうとしたその瞬間に、高利で金を貸そうとしたその瞬間に、人を裏切ろうとしたその瞬間に。全ての者が、己の業の根が生まれるその岐路に、もう一度だけ立たされたのだ。

第七章 新たな夜明け

光が収まった時、影綱は静かに塵となって消え、彼の命の灯は夜空に溶けていった。俺はその場に膝をつき、変わり果てた景色を見つめた。

いや、景色は何も変わっていない。日本橋も、長屋も、武家屋敷も、そこにある。

だが、俺の目に映る世界は、明らかに違っていた。

人々の足元から伸びる「業の根」が、あちこちで形を変えていたのだ。ある商人の太く醜い根は、か細く真っ直ぐなものに変わっていた。ある役人の根は消え、代わりに新たな善意の根が芽生えようとしていた。もちろん、何の変化もない者もいる。刹那の選択で、再び同じ過ちを選んだのだろう。

歴史は、ほんの少しだけ歪み、あるいは正されたのかもしれない。この変化が良い結果をもたらすのか、それとも更なる混沌を招くのか、それは誰にも分からない。

俺は立ち上がり、夜明け前の江戸の町を見渡した。無数の命の灯が、昨夜よりも少しだけ穏やかに、優しく揺らめいているように見えた。

人々が選び直した未来。その行く末を見届けることが、この力を与えられた俺の、新たな役目なのかもしれない。俺は、静かに昇り始めた朝日の中に、新たな物語の始まりを見ていた。


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