第一章 不協和音の辻斬り
神田の裏通りに居を構える研ぎ師、奏(かなで)の日常は、音で満ちていた。客が持ち込む刀の、鞘を払う衣擦れの音。砥石の上を滑る鋼の、水を含んだ囁き。そして、常人には聞こえぬはずの、刀身そのものが発する微かな声。奏には、その声が聞こえた。刀が経てきた歳月、斬り結んだ記憶、主の念――それら全てが、彼にとっては固有の音律として響くのだ。
ある雨の夜、その静謐は無粋な音に破られた。戸を叩くのは、北町奉行所の同心、橘源吾だった。古馴染みの彼は、濡れた頭巾の下から苦渋に満ちた顔を覗かせる。
「奏、まただ。今度は両国橋のたもとで」
源吾が言う「また」とは、ここ一月、江戸の夜を震撼させている連続辻斬りのことだった。下手人の手口は残忍で、狙われるのは決まって腕の立つ浪人ばかり。そして、その傷口には不可解な共通点があった。
「太刀筋は素人ではない。だが、まるで獣が喰らいついたかのような、酷い刃こぼれの跡が残る」
源吾は懐から、現場で見つかったという小さな鉄片を取り出した。犯人の刀から欠けたものだろう。奏がそれを受け取ると、指先に触れた瞬間、脳髄を劈くような不快な音が鳴り響いた。
キィィン、という耳鳴りのような高音と、ゴボゴボと濁った水が渦巻くような低音。それは憎悪と狂気が入り混じった、おぞましい不協和音だった。奏は思わず顔をしかめる。
「……酷い音だ。これほどの念がこもった刀は、そうはない。持ち主は、尋常ならざる恨みを抱えている」
「恨み? 被害者たちの間に、繋がりは見つからんのだ」
「いや、あるはずだ。この音は、一つの目的に向かって研ぎ澄まされている。だが、あまりに強い念が刃を歪ませている。だから、あれほど無残な傷跡が残る」
奏の指先は、鉄片から伝わる音の感触を記憶に刻み込んでいた。それはまるで、呪詛そのものが鍛え上げられたかのような、禍々しい響きだった。彼の日常は、この日を境に、江戸の闇に潜む不協和音を探し出すという、新たな役目を帯びることになった。彼の持つ「音を聞く」という特異な才が、初めて血の匂いを纏ったのだ。
第二章 残響を追って
奏の捜査は、音を頼りにした、途方もない旅のようだった。源吾と共に、江戸中の刀屋、武家屋敷の蔵、果ては質屋の隅に積まれた鈍まで、数え切れぬほどの刀に触れた。指先を刀身に滑らせるたび、様々な音の記憶が流れ込んでくる。ある刀は、戦場の喧騒と鬨の声を奏でた。ある短刀は、遊郭の閨で交わされる、甘く湿った囁きを響かせた。
だが、あの忌まわしい不協和音はどこにもなかった。
「手掛かりなしか…」
源吾が焦燥を滲ませる傍らで、奏は目を閉じ、意識を研ぎ澄ましていた。彼の能力は、ただ刀に触れるだけでは真価を発揮しない。心を水面のように静かにし、水底に沈む微かな音を拾い上げるのだ。
「犯人の刀は、名のある刀工の作ではない。恐らくは、数打ちの、どこにでもあるような代物だ。だが、持ち主の念が、それを妖刀に変えている」
捜査が行き詰まる中、源吾は地道な聞き込みから、被害者たちの僅かな共通点を探り当てた。彼らは皆、五年前に取り潰された小藩、佐倉藩の元藩士だったのだ。お家騒動の末の改易。そこに恨みの根源があるのかもしれない。
「佐倉藩…」
奏はその名に聞き覚えはなかったが、藩の取り潰しという悲劇は、多くの人間の運命を狂わせる。強い恨みを生む土壌としては十分すぎた。
ある日の昼下がり、奏は馴染みの古道具屋に立ち寄った。埃と黴の匂いが混じる薄暗い店内で、彼はふと、壁に立てかけられた一本の脇差に目を留めた。何の変哲もない、鞘も傷んだ粗末な品だ。店主も、いつからそこにあったか覚えていないという。
何故か、その脇差が奏を呼んでいる気がした。
彼は許しを得て、そっとそれに手を伸ばす。柄を握り、ゆっくりと刀身を抜いた。曇った刃が、薄暗い光を鈍く反射する。そして、指先が鋼に触れた、その瞬間――。
来た。
脳を揺さぶる、あの不協和音。憎悪の絶叫と、狂気の渦。間違いなく、辻斬りの刀だ。全身の血が沸騰するような感覚と、同時に、真実を掴んだという冷たい確信が奏を貫いた。
「源吾さん…見つけた」
震える声で呟いた彼の顔は、蒼白だった。探し求めていた音を見つけた安堵と、その音がおぞましさ故の恐怖がない交ぜになっていた。ようやく、この長い悪夢に終止符が打てる。彼はそう信じていた。この時の奏は、自らの能力への絶対的な信頼を、微塵も疑ってはいなかったのだ。
第三章 砕け散る真実の音
脇差の来歴は、源吾の調べで程なくして判明した。持ち主は、佐倉藩の元勘定方で、今は浅草の裏長屋で寝たきりの生活を送る、島田という老人だった。
「馬鹿な…。あの老人に、辻斬りなど出来るはずがない」
源吾は信じられないといった様子で首を振る。奏もまた、混乱していた。あの禍々しい音を発する刀の主が、か細い息をするだけの老人だとは。何かの間違いではないのか。
「もう一度、聞かせてくれ」
奏は奉行所の一室で、証拠品として押収された脇差と向き合った。今度は、ただ音を聞くのではない。音の源流まで遡るかのように、深く、深く精神を集中させる。ひんやりとした鋼の感触が、彼の意識を現実から引き剥がしていく。
いつもの不協和音が響き始める。だが、奏はさらにその奥へと潜っていく。憎悪の叫び、狂気の渦。その激しい音の奔流を抜け、さらに深奥へ――。
そして、彼は聞いた。
今まで、犯人の念だと思い込んでいた音とは、全く異なる響きを。
それは、恐怖に引きつる男の喘ぎだった。命乞いをする、かすれた声。そして、肉を断ち、骨を砕く生々しい音と共に迸る、絶望の悲鳴。
「あ…ぁ…」
奏は思わず刀から手を離した。全身から汗が噴き出し、呼吸が浅くなる。
間違っていた。全て、間違っていたのだ。
彼が今まで聞いていたのは、犯人の憎悪の音ではなかった。これは、この脇差が最初に斬った男――辻斬りの最初の犠牲者が、死の間際に発した断末魔の叫びそのものだったのだ。刀は、持ち主の念だけでなく、斬りつけた相手の強烈な情念をも吸い込み、記憶する。あの不協和音は、犯人のものではなく、被害者の恐怖と苦痛の残響だったのである。
自分の能力への過信が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。音こそが真実だと信じてきた。だが、音は一つの側面しか語らない。いや、時として、聞く者の先入観によって、全く違う意味を成してしまう。自分は、最も重要なことを見誤っていた。
「どうした、奏。何が分かった」
源吾の問いかけに、奏は力なく顔を上げた。その目は、今まで宿していた鋭い輝きを失い、深い絶望の色に染まっていた。
「俺は…犯人を追ってなどいなかった。ずっと、死人の声を聞いていただけだったんだ」
その告白は、捜査を振り出しに戻すだけでなく、奏という人間が拠り所にしてきた世界の根幹を、粉々に砕き散らしたのだった。
第四章 沈黙の刃
能力という名の杖を失った奏は、初めて自分の足で、己の五感で、事件と向き合うことになった。音への過信を捨て、彼は源吾と共に、改めて佐倉藩士たちの身辺を洗い直した。見えてきたのは、お家騒動の裏で権力者に踏みにじられた、名もなき人々の悲劇だった。
そして、一人の娘の名が浮かび上がった。志乃。お家騒動の責を一身に負わされ、切腹した家老の娘。彼女は、騒動の後に一家離散となり、行方が知れなくなっていた。
「まさか…」
奏の脳裏に、ある光景が蘇る。古道具屋で脇差を見つけた日、店の隅で針子仕事をする、影の薄い娘がいた。年の頃は、志乃と同じくらいだろうか。
奏と源吾が古道具屋に駆けつけると、娘の姿はすでになかった。だが、彼女が使っていた針箱から、血の染みがついた男物の着物が見つかった。
真犯人は、志乃だった。彼女は、父を死に追いやり、家族を地獄に突き落とした者たちへの復讐のため、男装して夜な夜な辻斬りを繰り返していたのだ。奏が聞いたあの脇差は、最初の犠牲者から奪ったものだった。断末魔の音を刻み付けた刀を手に、彼女は復讐の鬼と化していた。
数日後、志乃は次の標的を襲おうとしたところを、張り込んでいた源吾たちによって取り押さえられた。月明かりの下に晒されたその顔は、およそ人斬りとは思えぬほど、儚く、そして深い哀しみに満ちていた。
奏は、研ぎ場に戻っていた。捕縛の場には、行かなかった。いや、行けなかった。事件は解決した。だが、彼の心には、鉛のような重い澱が溜まったままだ。
彼は、工房の隅に立てかけてあった一本の刀を手に取った。誰かが捨てていった、錆びて朽ち果てそうな代物だ。指でそっと撫でてみる。だが、何の音も聞こえない。長きにわたる放置のせいで、この刀が持っていた記憶も、念も、全てが沈黙してしまったかのようだった。
以前の彼ならば、こんな刀は価値がないと打ち捨てただろう。
しかし、今の奏は違った。
彼は静かに砥石を水に浸し、錆びた刀を構えた。そして、ゆっくりと刃を研ぎ始める。
シャッ…シャッ…
規則正しく、静かな音が工房に響き渡る。
音は、真実の一欠片でしかない。音の奥には、語られることのない無数の物語があり、声にならぬ哀しみがある。自分の能力は、その入り口を教えてくれるに過ぎなかった。
本当の意味で刀と向き合うとは、音を聞くことではない。沈黙の声に耳を澄まし、その傷や錆の一つ一つから、失われた物語を丹念に拾い上げ、再び命を吹き込むことなのだ。
夜空には、冴え冴えとした月がかかっていた。奏が刀を研ぐ音だけが、江戸の夜の静寂に凛と響き渡る。それは復讐の音でも、断末魔の音でもない。ただひたむきに、失われたものを取り戻そうとする、一人の職人の、静かで確かな息遣いの音だった。