第一章 静寂の依頼人
江戸の片隅、神田の裏通りに、響(ひびき)は工房を構えていた。彼の生業は「音墨師(おんぼくし)」。この世に存在するあらゆる音を、特製の墨と和紙を用いて描き出し、その記憶を半永久的に封じ込めるという、奇妙で、そして稀有な職人であった。彼の描いた絵からは、耳を澄ませば、描かれた当時の音が微かに聞こえてくると噂された。ある者は亡き妻の歌声を、またある者は二度と聞けぬ祭囃子を求め、彼の工房の戸を叩いた。
響自身は、音に満ちた世界を厭うていた。彼は生まれつき聴覚が鋭敏すぎた。人の声の裏にある偽り、雨音に潜む憂い、風に混じる嘆きまでをも聴き取ってしまう。故に、彼の仕事場は常に水を打ったような静寂に包まれていた。音を描くことで、彼は世界から音を奪い、自らのための静けさを創り出していたのだ。
ある雨の日の午後だった。工房の引き戸が、そろりと開かれた。そこに立っていたのは、濡れそぼった菖蒲(あやめ)のような風情の娘だった。年は十八か十九。上質な縮緬(ちりめん)の着物は雨に濡れ、しっとりと肌に張り付いている。
「音墨師の響様でいらっしゃいますか」
鈴を転がすような、しかし芯のある声だった。響は無言で頷き、娘を中に促した。
「わたくし、日本橋の薬種問屋、加賀屋の娘で小夜(さよ)と申します」
小夜と名乗る娘は深々と頭を下げると、懐から小さな布袋を取り出した。そして、ゆっくりと紐を解き、中から現れたものを響の前に差し出した。
それは、古びた真鍮(しんちゅう)の鈴だった。だが、奇妙なことに、その鈴には音を鳴らすための玉が入っておらず、代わりに内側が空洞になっているだけだった。振っても、何の音もしない。ただ、空気が虚しく揺れるだけだ。
「これを……」小夜は唇を震わせた。「ひと月前、父が亡くなりました。これは父の形見でございます。父は息を引き取る間際、この鈴をわたくしに握らせ、『鈴の音を聴け。あれはお前のための音だ』と、そう言い残したのです」
響は眉をひそめた。音のしない鈴。矛盾した遺言。
「しかし、ご覧の通り、この鈴は鳴りませぬ。家中どこを探しても、鈴の玉は見つかりませんでした。父が何を伝えたかったのか、皆目見当もつかないのです。そこで、響様のお噂を耳に致しました。どんな微かな音でも描き出せると。もしや、この鈴がかつて鳴らした音、その記憶を描いてはいただけないでしょうか」
真剣な眼差しだった。その瞳の奥には、父を失った深い悲しみと、遺された謎を解き明かしたいという切実な願いが揺らめいていた。
響は、その空っぽの鈴を手に取った。ひんやりとした金属の感触。長年、人の手で握り締められてきたであろう、滑らかな丸み。彼は目を閉じ、全神経を指先に集中させた。彼の能力は、対象に残された音の残滓、その微細な振動を捉えることから始まる。
だが、何も感じない。
ただ、深く、昏い、底なしの静寂がそこにあるだけだった。まるで、この鈴が周囲の音すらも吸い込んでいるかのような、異様なほどの無音。これほどまでに完璧な「無」を感じたのは初めてだった。
「申し訳ないが」響は目を開け、静かに告げた。「この鈴には、何の音も残ってはいない。これはただの、鳴らない鈴だ」
彼の言葉に、小夜の顔からさっと血の気が引いた。その肩が微かに震えるのを見て、響の心の奥で、普段は固く閉ざされている何かが、ほんの少しだけ軋んだ。
第二章 描かれぬ音
響が小夜の依頼を断りきれなかったのは、ほとんど気まぐれに近かった。あるいは、あの鈴が放つ不可解な静寂に、音墨師としての矜持を刺激されたのかもしれない。彼は「手がかりを探す」という名目で、小夜と共に彼女の父、加賀屋の主人であった宗助(そうすけ)の足跡を辿ることにした。
旅は、宗助がかつて頻繁に訪れていたという、箱根の湯治場から始まった。道中、響は小夜の求めに応じ、様々な音を描いた。谷川のせせらぎ、梢を渡る風の声、名も知らぬ鳥のさえずり。響が筆を走らせると、和紙の上には、水流の渦や風の軌跡、鳥の羽ばたきを思わせる、流麗な墨の濃淡が描き出された。小夜がその絵にそっと耳を寄せると、まるで幻聴のように、描かれた音が心の内に響いてくるのだった。
「素晴らしい……。響様の手にかかれば、音は姿を持ついのちなのですね」
小夜は感嘆の声を上げた。その無垢な賞賛に、響は居心地の悪さを感じながらも、顔を背けた。彼は、ただ音を世界から切り離し、蒐集しているに過ぎない。いのちなどと、思ったこともなかった。
しかし、肝心の鈴の手がかりは一向に見つからなかった。宗助を知る人々は口を揃えて、彼が温厚で実直な薬種問屋の主人であったと語るばかり。謎の鈴に繋がるような話は、誰の口からも出てこなかった。
旅を続けるうち、二人の間には少しずつ打ち解けた空気が流れるようになっていた。響は、自分の過去をぽつりぽつりと語った。彼の師は、同じく音墨師であった父だったこと。そして、その父を十年前に火事で亡くしたこと。
「あの日以来、私には描けぬ音がある」
宿の縁側で、月を見上げながら響は呟いた。
「燃え盛る炎の音だ。あの、すべてを呑み込み、破壊する轟音だけは、どうしても描くことができない」
筆を取ろうとすると、指が震え、呼吸が浅くなる。耳の奥であの日の熱と音が蘇り、意識が遠のくのだ。それは、彼にとって単なる技術的な問題ではなく、魂に刻み込まれた深い傷だった。小夜は何も言わず、ただ静かに彼の隣に座っていた。その沈黙が、どんな慰めの言葉よりも響の心を和らげた。
ある日、小田原の古物商を訪ねた二人は、思わぬ発見をする。店の主人が、宗助が熱心に集めていたという古い絡繰(からくり)や錠前の類を見せてくれたのだ。その精巧な作りに目を見張っていると、主人が何気なく言った。
「加賀屋の旦那は、若い頃は江戸でも指折りの錠前師だったそうですよ。どんな堅牢な蔵でも開けてしまうほどの腕前だったとか」
錠前師。薬種問屋の主人からは、およそ結びつかない過去だった。その言葉が、固く閉ざされていた扉の鍵のように、響の頭の中でカチリと音を立てた。
第三章 鈴に潜む真実
錠前師だったという宗助の過去。それが意味するものは何か。響と小夜は江戸に戻ると、加賀屋の裏手にある、今は使われていない古い土蔵を調べることにした。宗助は生前、誰にもこの蔵を開けさせなかったという。響が持てる知識を総動員し、複雑な錠前を半日かけて解き明かすと、ぎい、と重い音を立てて扉が開いた。
蔵の中は、埃と黴(かび)の匂いが満ちていた。乱雑に積まれた古い道具や書物の中に、響は一つの桐箱を見つけた。蓋には「友、響一郎(きょういちろう)へ」と記されている。響一郎は、響の父の名だった。
箱の中には、古びた日記が一冊だけ入っていた。それは、響の父が遺した日記だった。宗助が大切に保管していたのだ。震える手で頁をめくると、そこには衝撃的な事実が、父の生真面目な筆跡で綴られていた。
『――我が友、宗助。もしお前がこれを読んでいるのなら、私はもうこの世にいないだろう。そして、私の息子、響は生き延びているはずだ。お前に託した「鎮音(しずね)の鈴」は、うまく役目を果たしてくれただろうか』
日記によれば、宗助と響の父・響一郎は、若い頃からの無二の親友だった。そして、あの「空っぽの鈴」は、錠前師であった宗助が、音墨師である響一郎のために特別に作った道具だったという。
その名は、「鎮音の鈴」。
音を鳴らすためのものではない。その逆。周囲の音を、その記憶ごと内部の空間に吸い込み、封じ込めるための、究極の「無音」を生み出すための道具だったのだ。
そして、最後の日付の頁に、響の記憶を根底から覆す、残酷な真実が記されていた。
十年前の火事の日。火元は隣家からの貰い火だった。逃げ遅れた幼い響を守るため、父・響一郎は決断した。彼は、迫り来る炎の壁を前に、鎮音の鈴を握りしめた。そして、音墨師の全生命力を懸けて、一つの術を行使した。
彼は、燃え盛る家の轟音、梁の崩れる音、そして恐怖に泣き叫ぶ幼い響の悲鳴、その場にあるすべての「絶望の音」を、たった一つの鈴の中に封じ込めたのだ。
『響よ、許せ。お前の心を守るには、こうするしかなかった。お前があの音を背負って生きていくには、あまりに幼すぎた。私が封じたのは、ただの音ではない。お前の記憶そのものだ。いつか、お前が真に強い音墨師になった時、この鈴の封印を解き、真実と向き合う日が来るだろう。友よ、その時まで、息子を頼む』
響は、その場に崩れ落ちた。
描けなかったのではない。忘れていたのだ。父によって、記憶ごと音を奪われていたのだ。あの火事の音は、自分自身の悲鳴と共に、父が命を懸けて封じ込めたものだった。父の死は、火事に巻き込まれただけではなかった。能力の限界を超えて絶望の音を封じ込めた、その反動による魂の衰弱が、彼の命を奪ったのだ。
「鈴の音を聴け」
宗助の遺言が、全く違う意味を持って響の胸に突き刺さった。あれは、鈴に封じられた音を解放し、真実を知れ、という父と友からのメッセージだったのだ。
第四章 劫火の鎮魂歌
真実の重みに、響は打ちのめされた。父は自分を守るために死んだ。その事実が、鉛のように心を沈ませる。自分が背負うべきだった記憶と罪悪感を、父はずっと肩代わりしてくれていた。静寂を求めていたのではない。ただ、真実から逃げていただけだった。
工房に戻り、響は何日も筆を握れずにいた。目の前には、あの鎮音の鈴が静かに置かれている。その中には、父の命と、自分の失われた記憶が眠っている。
そんな彼のもとに、小夜が訪れた。彼女は何も言わず、ただ静かにお茶を淹れた。その温かい湯気が、凍てついた響の心を少しずつ溶かしていく。
「響様」やがて小夜が口を開いた。「お父上は、あなたに絶望を遺したかったのではありません。きっと、乗り越えてほしかったのです。その音を描き出すことこそが、お父上への何よりの供養になるのではないでしょうか。そして……あなた自身の、魂の解放になるのだと、わたくしは信じます」
小夜の言葉が、闇の中に差し込む一筋の光のように、響の心に届いた。そうだ。父は、自分がこの真実を受け止め、乗り越えることを信じてくれていた。
響は、覚悟を決めた。
彼は工房の中央に大きな和紙を広げ、墨をする。そして、鎮音の鈴を手に取り、目を閉じた。今度は逃げない。父が封じた音を、記憶を、すべて受け止める。
彼は、音墨師としての全霊を込めて、鈴の封印を解き放った。
瞬間、工房の静寂が引き裂かれた。
ゴウッ、という地獄の釜が開いたような轟音。パチパチと木のはぜる音。家が軋み、崩れ落ちる絶叫。そして、その全てを突き抜けて響き渡る、幼い子供の、甲高い悲鳴。
十年間、鈴の中に閉じ込められていた絶望が、一気にあふれ出した。響の全身を、あの日の熱と恐怖が襲う。だが、彼は歯を食いしばり、震える手で筆を握りしめた。
描く。描く。描く。
燃え盛る炎の赤黒い渦を。崩れ落ちる柱の絶望的な軌跡を。そして、恐怖に歪んだ、幼い自分の顔を。
墨が飛沫を上げ、和紙を汚す。涙が頬を伝い、墨と混じり合った。それは絵を描くというより、魂を削り出すような壮絶な闘いだった。
やがて、最後の悲鳴を描き終えた時、工房に再び静寂が戻った。だが、それは以前の冷たい無音ではなかった。すべてを出し尽くしたあとの、穏やかで、温かい静寂だった。
和紙の上には、一枚の絵が完成していた。それは、阿鼻叫喚の地獄絵図のはずなのに、不思議と見る者の心を打つ、鎮魂歌(レクイエム)のような荘厳さを湛えていた。
響は、絵の前に座り込んだまま、静かに涙を流した。それは悲しみの涙ではなかった。父への感謝と、ようやく過去と一つになれた安堵の涙だった。
彼の心にあった、描けない音の空白は、父の愛という名の音で満たされていた。
数ヶ月後。響の工房からは、以前よりも多くの音が聞こえるようになった。彼はもはや、静寂のために音を描いてはいなかった。人々の喜びの音、祝いの音、愛しい者を想う優しい音を、未来へ遺すために描いていた。彼の描く絵には、温かな血が通い、確かないのちが宿っていた。
縁側で、響が新しい筆を下ろしていると、小夜が手作りの団子を持って訪れた。町の喧騒、子供たちのはしゃぐ声、遠くで鳴る鐘の音。世界は、かくも多くの音で満ちている。
「今日は、どんな音を描かれるのですか?」
小夜が微笑む。響は、彼女と、窓の外の穏やかな景色に目をやり、柔らかく微笑み返した。
「この、ありふれた日々の音を」
彼はそう言うと、迷いのない筆さばきで、和紙の上に「今日」という名の、かけがえのない音を描き始めた。