言の葉の残り香

言の葉の残り香

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第一章 墨染めの沈黙

江戸の片隅、神田川沿いに玄斎の小さな仕事場はあった。表に看板はなく、ただ軒先に吊るされた一本の筆が、ここが代筆屋であることを示している。玄斎は、言葉を売って生計を立てる男だったが、彼自身の口は貝のように固く閉ざされていた。客とのやり取りも、すべて手元の反故紙に筆を走らせることで済ませる。その無口ぶりは奇異の目で見られたが、彼の書く文字は、まるで命が宿っているかのように美しく、力強かった。依頼は絶えなかった。

その日、がらりと戸を開けて入ってきたのは、場にそぐわぬ陽光を背負った娘だった。名を葉月という。彼女は屈託のない笑みを浮かべ、文机に向かう玄斎を覗き込んだ。

「お侍様、恋文を一つ、お願いできますでしょうか」

玄斎は顔を上げず、たださらさらと紙に筆を滑らせる。

『相手は。内容は』

「向かいの染物屋の若旦那です。内容は…そうですね、『貴方様の凛々しいお姿を拝見するたび、私の心は茜色に染まります』…なんて、どうでしょう」

葉月がきゃらきゃらと笑う。玄斎はぴたりと筆を止め、静かに首を横に振った。そして、新しい紙に力強く二文字を書く。

『書けぬ』

「まあ、どうして?お代ならここに」

葉月が差し出す銭入れには目もくれず、玄斎はただ一点を見つめている。彼の沈黙は、単なる頑固さとは質の違う、深く、冷たい壁のようだった。葉月は頬を膨らませたが、やがて諦めたように息をつき、「また来ます」と言い残して去っていった。

一人になった部屋に、夕暮れの光が差し込む。玄斎は文机の引き出しから、古びた桐の小箱を取り出した。中には、ビー玉ほどの大きさの、黒く変色した塊が一つだけ入っている。

それは、かつて彼が口にした「言葉」の亡骸だった。

玄斎には、秘密があった。彼が口にした言葉は、時に形を成してこの世に現れる。しかし、一度具現化した言葉は、彼の声帯から永遠に失われるのだ。

彼は小箱の中の塊を指でなぞる。これは、十年前にたった一度だけ口にした「**炎(ほむら)**」という言葉だった。悪党に囲まれた夜、咄嗟に叫んだその言葉は、凄まじい火焔となって周囲を焼き払い、彼を守った。だがその代償に、彼は二度と「炎」という言葉を発することができなくなった。それ以来、彼は言葉の力を恐れ、己の口を封印したのだ。言葉は力であり、同時に取り返しのつかない喪失なのだと、骨身に沁みて知ってしまったから。

第二章 筆先の温もり

葉月は、本当に次の日もやってきた。その次の日も。

「今日は祝いの口上を」「今度は商いの断り状を」

玄斎は、そのすべてに首を横に振った。恋文も、祝いの言葉も、断りの文句も、彼にとってはあまりに重い。それらは人の心を動かす強い言葉であり、一度失えば、二度と誰かに伝えることができなくなるかもしれないからだ。

ある雨の日、ずぶ濡れになった葉月が、いつものように戸口に立っていた。しかし、その表情からはいつもの明るさが消え、切羽詰まった色が浮かんでいた。

「玄斎様。…本当は、恋文などではございません」

彼女は懐から、しわくちゃになった一枚の紙を取り出した。それは医者の見立て書きだった。

「私には、生まれつき胸を病む弟がおります。江戸の名医は皆、匙を投げました。ですが、遥か京の都に、類なき腕を持つというお方がいると聞きまして…」

葉月の声が震える。

「このお方に、弟の命を救っていただきたいのです。ですが、私は文字が書けませぬ。どうか、どうか私の代わりに、この想いを届けるための嘆願書を…」

玄斎は、葉月の濡れた瞳をじっと見つめた。そこには、嘘も計算もなかった。ただ、家族を想うひたむきな心が、雨粒のように零れ落ちそうになっていた。

彼は、ゆっくりと頷いた。

そして、上質な和紙を取り出し、墨をする。静かな部屋に、墨の香りとかすかな衣擦れの音だけが響く。葉月が語る弟の容態、これまでの苦しみ、そして一縷の望み。玄斎は、その一つ一つの言葉を、祈りを込めるように紙に刻みつけていった。

彼の筆先から生まれる文字は、単なる記号ではなかった。葉月の悲しみ、愛情、そして切なる願いが、墨の一滴一滴に溶け込んでいるようだった。

書き終えた嘆願書を、玄斎はそっと葉月に差し出した。彼女はそれを受け取ると、はらはらと涙をこぼした。

「ありがとうございます…ありがとうございます…」

玄斎は何も言わず、ただ茶を一杯、彼女の前に置いた。その日から、二人の間には、言葉を介さない確かな温もりが生まれ始めていた。玄斎は、葉月が持ってくる団子を黙って食べ、葉月は、玄斎が黙って淹れる茶を静かに飲んだ。沈黙はもはや壁ではなく、二人を優しく包む空間となっていた。

第三章 言霊の代償

運命は、時としてあまりに性急だ。嘆願書を送って幾日も経たないうちに、葉月の弟の容態が急変した。高熱にうなされ、呼吸は浅く、今にも消え入りそうだった。知らせを聞いた玄斎が葉月の家に駆けつけると、そこには青白い顔の葉月と、もう一人、卑しい笑みを浮かべた男がいた。高利貸しの源蔵だった。

「葉月ちゃんよぉ。弟の薬代、そろそろ返してもらわねえとな。返せねえなら、あんたの身で払ってもらうぜ」

源蔵の手が葉月の腕を掴む。

「やめてください!」

悲鳴を上げる葉月。その前に、玄斎が立ちはだかった。源蔵は玄斎を鼻で笑う。

「なんだい、この口の利けねえ男は。どきやがれ」

手下の男たちが玄斎に掴みかかろうとした、その瞬間。

「**壁(かべ)**」

玄斎の唇から、乾いた声が漏れた。すると、彼の目の前の空間がぐにゃりと歪み、土埃を舞い上げながら分厚い土壁が轟音と共にせり上がった。源蔵たちは驚愕に目を見開く。

「な、なんだぁ!?」

「**刃(やいば)**」

玄斎が再び呟くと、鋭い風が巻き起こり、男たちの着物を切り裂いた。悲鳴を上げて逃げ惑う源蔵たち。玄斎は彼らを睨みつけ、最後の一言を放つ。

「**去(さ)れ**」

その言葉は、目に見えぬ巨大な力となって男たちを家の外へと吹き飛ばした。

静寂が戻る。葉月は、目の前の信じられない光景に、ただ立ち尽くしていた。

「玄斎…様…?」

玄斎は、彼女の方を振り返ることなく、崩れ落ちそうになる体を壁に預けた。言葉を使うたびに、彼の体からは生命力がごっそりと削り取られていく。そして、今使った三つの言葉は、もう二度と彼のものにはならない。

彼は懐から筆と紙を取り出し、震える手で書き始めた。彼の過去。彼の能力。そして、言葉を失うことの恐怖。

『かつて、愛した女がいた。病に倒れた彼女を救うため、私は一つの言葉を使った』

紙の上に、痛々しい文字が続く。

『**命(いのち)**、と。その言葉は光となり、彼女を救った。だが、私は永遠に「命」という言葉を失った。以来、言葉の重みに耐えきれず、口を閉ざした』

葉月は、彼の背中を見つめながら、その告白を読んでいた。彼が背負ってきた孤独と喪失の深さを知り、涙が溢れた。彼が言葉を惜しんだのは、臆病だったからではない。あまりに言葉を、そして人を、愛しすぎていたからだ。

その時、奥の部屋から弟の苦しげな咳が聞こえた。葉月ははっと我に返る。絶望が再び彼女を覆う。

「もう、だめなのでしょうか…。奇跡でも起きない限り…」

その言葉に、玄斎の肩が微かに震えた。彼はゆっくりと振り返り、葉月を見つめる。その瞳には、深い悲しみと、ある決意の色が宿っていた。彼は、震える指で再び紙に書いた。

『「奇跡」という言葉も、とうの昔に弟を想うあまり、使ってしまった』

第四章 声なき朝

絶望的な沈黙が部屋を支配した。使える言葉は、もう残されていないのか。葉月の瞳から光が消えかけた、その時だった。玄斎が、そっと彼女の手を取った。その手は冷たく震えていたが、力強かった。彼は葉月を導き、弟が眠る枕元へと膝をついた。

玄斎は、苦しそうに喘ぐ少年を見つめ、深く、深く息を吸い込んだ。彼の全存在を賭けるように。そして、これまで一度も誰のためでもなく、自分のためですら使ったことのない、たった一つの、ありふれた言葉を、絞り出すように紡いだ。

「**明日(あす)**」

その瞬間、部屋は柔らかな朝陽のような光で満たされた。それは「命」の光のような劇的なものではなく、「奇跡」のような超常的な力でもない。ただただ暖かく、穏やかで、すべてを肯定するような優しい光だった。光は弟の体をゆっくりと包み込み、そして、すうっと消えていった。

嵐が過ぎ去ったかのように静まり返った部屋で、弟の呼吸が、穏やかな寝息に変わっていた。頬にはほんのりと血の気が差し、その顔には苦悶の代わりに安らかな表情が浮かんでいた。病が消え去ったわけではない。しかし、彼の心と体に、明日を生きるための強い「希望」という灯火が宿ったのだ。

葉月は、その光景を涙で見つめていた。玄斎は、やり遂げたように静かに目を閉じ、その場に崩れ落ちた。彼は、未来を語るための言葉を、永遠に失った。

数年の月日が流れた。

神田川沿いの小さな家では、相変わらず玄斎が代筆屋を営んでいる。彼の口が開かれることはない。しかし、その表情は以前のような硬質なものではなく、凪いだ水面のように穏やかだ。

縁側では、すっかり元気になった葉月の弟が、玄斎の真似をして筆を握っている。そして、その傍らには、妻となった葉月が、優しい笑みで二人を見守っていた。

玄斎はもう、「愛している」と囁くことも、「ありがとう」と感謝を伝えることも、「明日」の約束をすることもできない。彼の世界からは、多くの大切な言葉が失われた。

だが、彼はもう喪失を嘆いてはいなかった。

ふと、玄斎は仕事の手を止め、葉月の手を取った。そして、その白魚のような手のひらに、自身の指で、そっと文字を書いた。

葉月はこくりと頷き、幸せそうに微笑む。

言葉は失われたかもしれない。しかし、彼の心には、まだ伝えたい想いが、伝えるための術が、無限に残されていた。声はなくとも、言の葉の残り香は、二人の間にいつまでも、暖かく漂っていた。

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