第一章 時鳴きの里の異変
時守の里は、深い山襞に抱かれた隠れ里だった。その名は、里が抱える特異な現象に由来する。毎日、正午を告げる寺の鐘が十度鳴り響く瞬間、里の至るところで、過去の出来事が幻影と音となって現れるのだ。里人たちはこれを「時鳴き(ときなき)」と呼び、日々の営みの一部として受け入れていた。それは、過ぎ去りし時のささやきであり、決して触れることのできない、美しい、あるいは哀しい残像だった。
その日も正午、里の広場には、時鳴きを見守るわずかな人々が集まっていた。空は抜けるような青さで、遠くの山並みは水墨画のように霞んでいる。石畳の広場の中央で、ひときわ目を引く男がいた。佐助、三十路を少し過ぎた頃か。痩身ながら、その佇まいには隠しきれない鋭さが宿っていた。彼はかつて「里一番の絵師」と謳われたが、数年前、最愛の妹を喪って以来、筆を捨て、心を閉ざしていた。佐助の瞳は、里に現れる幻影を、まるで研ぎ澄まされた刃物のように見つめていた。
正午を告げる鐘の音が、里の谷間に吸い込まれていく。
キィ……ガタ……と、かつてそこに建っていた材木屋の引き戸が軋む音。
キャッキャッ、と、広場で鬼ごっこをする子供たちの笑い声。
里の祭りであろうか、太鼓と笛の賑やかな音色、色とりどりの着物を着た人々の幻影が、陽炎のように揺らめく。それらはいつもと同じ、里の歴史の断片だった。里人たちは懐かしげに目を細め、あるいは過ぎ去った肉親の姿に涙を浮かべる。
しかし、その日の時鳴きは、いつもと違った。
祭りの賑わいが掻き消えるように薄れ、代わりに異様な静寂が訪れる。そして、広場の中央に、これまで見たことのない、奇妙な残像が浮かび上がった。
それは、黒く塗られた顔、あるいは泥にまみれた顔の男が、荒れ果てた里の廃墟の中で、ただひたすらに何かを描き続けている姿だった。激しい風が吹き荒れ、砂塵が舞い、男の体を打ちつける。その腕は血に濡れ、しかしその表情は、狂気にも似た、あるいは深い悲しみにも似た、筆への執念に満ちていた。
佐助は息を呑んだ。
その男の姿は、まさしく彼自身だった。
しかし、これまでの時鳴きは、過去の事実しか映し出してこなかったはずだ。それは、まだ起きていない、あるいは起こりうる未来の出来事なのか。里の廃墟、己の変わり果てた姿、そしてその手にある筆。
何故、筆を捨てたはずの自分が、そんな絶望的な状況で筆を握っているのか。
残像は一瞬にして消え去った。
里人たちは皆、首を傾げていた。「今日の時鳴きは妙じゃったのう。最後は何も見えなんだ」という声が聞こえる。彼らは、佐助が見た奇妙な幻影には気づかなかったようだった。
佐助の心臓は激しく高鳴っていた。冷や汗が背中を伝う。彼は広場に立ち尽くし、ただその残響が残した強烈なイメージに囚われていた。
里が、廃墟と化す?
そして、筆を捨てた自分が、再び……。
その日の夜、佐助は長い間しまい込んでいた筆と墨を取り出した。埃を被った筆は、ひんやりと掌に重い。震える手で、彼はあの不吉な残像を、記憶を辿りながら紙に描き始めた。
第二章 筆が導く過去と未来
再び筆を握った佐助は、寝食を忘れて残像を描き続けた。彼の描く絵は、奇妙な熱気を帯びていた。過去の出来事をただ模写するのではなく、見えない未来の破片を拾い集め、それを形にするかのような、鬼気迫る筆致だった。里人たちは佐助が再び絵を描き始めたことに驚きつつも、その絵に宿る狂気に畏れを抱いた。彼らは知らなかった。佐助が描き出しているのが、里の深奥に眠る真実と、来るべき未来の影であることを。
佐助の絵は、時鳴きに現れる断片的な幻影と呼応するように、次第に詳細な像を結び始めた。ある日は、遠い昔に里を襲った大干ばつの様子。またある日は、里の奥に佇む古びた祠の内部。そして、その中に佇む、見慣れない装束を纏った巫女の姿。
里の長老、玄翁は、佐助の描く絵に深い関心を示した。玄翁は里の歴史と時鳴きの伝承に最も詳しい人物だった。白く長い髭を蓄え、仙人のような風貌を持つ彼は、佐助の絵をじっと見つめ、静かに言った。「佐助よ、お前が見ているのは、ただの過去の残響ではないのかもしれぬな。時鳴きは、時折、未来の兆しをも映し出すと伝えられている。しかし、それは我ら凡人には決して理解できぬ、曖昧な象徴としてしか現れぬものとされてきた。お前の筆は、それを明確にしようとしているのか?」
玄翁の言葉に、佐助の心は波立った。曖昧な未来の兆しを、己の筆で明確にする。それは、単なる絵師の業を超えた、運命への介入ではないか。
佐助は、以前描いた自身の廃墟の中の姿と、巫女の姿、そして大干ばつの絵を並べてみた。点と点が繋がり始める。里に迫る危機、そしてその解決の鍵を握る巫女。
そして、彼は思い至る。妹の死。
数年前、佐助の妹は、里の奥の禁忌とされる森で倒れているのが発見された。その時、里では原因不明の病が流行し始めていた。里人たちは、禁忌を犯した妹が里の祟りに触れたのだと噂した。佐助は、妹の死を里の不条理な因習のせいだと憎み、それが筆を捨てる原因となっていた。
しかし、もし、妹の死もまた、時鳴きと関係があるとしたら?
佐助は、新たに現れた残響の中に、妹が倒れていた森の奥、そして小さな石碑の幻影を見つけた。その石碑には、古めかしい文字で何かが刻まれていた。
佐助は、玄翁の元へと急いだ。
「玄翁様、この文字は…」
玄翁は、佐助が写し取った文字を見て、顔色を変えた。
「これは……里に伝わる、時を縛る古の術に関わる文字だ。そして、巫女がそれを司る。里の平穏は、この術によって守られてきた。だが、その術には、大きな代償が伴うと伝えられていた…」
玄翁は、言葉を選ぶように慎重に続けた。「そして、その代償とは、時に、穢れを払うための『生贄』を必要とすることがあった、と。だが、これは禁忌中の禁忌。里の歴史から抹消されたはずの伝承だ。」
佐助の頭の中で、妹の死と、里の禁忌、そして巫女の存在が一つに結びつく。妹の死は、単なる事故ではなかった。里の平和を保つための、隠された残酷な真実の一部だったのではないか。彼の心は、怒りと悲しみ、そして里への深い疑念で満たされていった。
第三章 運命の転換点
佐助は、妹の無念を晴らすため、そして里の真実を明らかにするために、禁忌とされる森の奥深く、時鳴きが指し示す古びた祠へと向かった。苔むした石段を踏みしめ、鬱蒼とした木々の合間を抜けていく。冷たい湿気と土の匂いが混じり合い、佐助の胸中に重くのしかかる。
祠の内部は、外からは想像もつかないほど広大で、複雑な構造をしていた。奥へと進むと、壁一面に描かれた古の壁画が目に飛び込んできた。それは、里の祖先たちが、ある巨大な災厄(山津波、あるいは疫病の蔓延)から里を守るため、「時を縛る術」を施す様子を描いたものだった。巫女が祈りを捧げ、人々が血の滴るような犠牲を払う場面が、生々しく描かれていた。
そして、その壁画の最奥で、佐助は戦慄すべき光景を目にする。
正午の鐘の音が、祠の奥底にまで響き渡った瞬間、時鳴きが始まったのだ。
現れた残像は、これまでになく鮮明だった。
それは、佐助の妹の姿だった。妹は、壁画に描かれた巫女と同じ装束を身に着け、祠の中心で祈りを捧げている。その表情は、苦痛に歪みながらも、どこか諦めと、里への深い愛に満ちていた。妹の体から、光の粒が空へと昇っていく。そして、その光が消え去ると同時に、里を覆っていた災厄が静まり、里に平穏が訪れる様子が描かれていた。
妹は、里の平和と引き換えに、自らが生贄となり、「時を縛る術」の新たな担い手として、その命を捧げたのだ。
佐助の膝が崩れ落ちた。
妹の死は事故ではなかった。里を守るための、隠された、あまりにも残酷な儀式だったのだ。
里の平和は、最愛の妹の命によって保たれていた。そして、里人たちはその事実を知らず、あるいは知っていても、平穏を享受するために目を背けてきたのだ。
佐助の価値観は、根底から揺らぎ、砕け散った。
里の美しい風景、人々の笑顔、そして毎日のように現れる時鳴きの残響。それら全てが、妹の血と涙の上に築かれていたのだ。
彼は、里を憎むべきなのか。妹の尊い犠牲を、無駄だったと嘆くべきなのか。
憎しみと悲しみが、佐助の胸の中で渦巻く。
その時、妹の残響が消え去った後、再びあの未来の残像が現れた。
荒れ果てた里の廃墟。砂塵の中、狂ったように筆を握る自分。
そして、その残像の片隅に、妹の幻影がそっと現れ、佐助に向かって微笑んだ。その口元が、わずかに動く。「…描いて…」
妹の声が、遠く、しかしはっきりと佐助の耳に届いた気がした。
それは、里の未来を、絶望ではなく、希望に変える絵を描けという、妹からのメッセージのように思えた。
里の秘密を知ってしまった今、佐助には二つの道があった。里を呪い、滅びに任せるか。あるいは、妹の犠牲の真の意味を理解し、その命が繋いだ未来を、自らの筆で切り開くか。
佐助は、深く息を吸い込んだ。枯れた目から、熱い涙が溢れ出した。
第四章 絵筆が紡ぐ希望と別れ
祠の床に崩れ落ちた佐助の心には、燃え盛る怒りと、鉛のように重い悲しみが同居していた。しかし、妹の幻影が放った「描いて」という言葉が、彼の心を支配する絶望の淵に、微かな光を灯した。妹は、自らの犠牲によって繋いだ里の命脈を、絶やすことを望んではいない。その痛みを乗り越え、彼は筆を再び握ることを決意した。今、彼が描くべきは、過去の再現でも、未来の予言でもない。来るべき未来を、自らの手で創造する「願望の具現化」なのだ。
里へ戻った佐助を待っていたのは、里全体を覆う不穏な空気だった。時鳴きの現象は激しさを増し、正午の残響は、過去の穏やかな風景ではなく、荒れ狂う嵐や、土地を飲み込む濁流、そして不吉な影が里を彷徨う様を映し出すようになっていた。里人たちは不安に怯え、里の長である玄翁もまた、憔悴しきった顔で佐助を迎えた。
「佐助よ、お前は里の真実を知ってしまったのか…」玄翁は悲しげに呟いた。「術が、限界を迎えようとしている。時を縛る代償が、今、里へと降りかかろうとしているのだ。」
佐助は言葉もなく、ただ力強く頷いた。そして、里人たちの不安と絶望をその目に焼き付け、彼の心は決まった。
「玄翁様、里の皆に、私が絵を描く場所を用意してほしい。そして、里の奥で起きていた真実を、隠すことなく皆に伝えてください。里の未来は、皆で向き合うべきものです。」
里の中心にある広場に、簡素な絵師の小屋が建てられた。佐助は、そこで、巨大な和紙を広げ、筆を握った。
彼が描いたのは、里の未来の姿だった。
筆致は力強く、迷いがない。最初に描いたのは、枯れ果てた土地に豊かな水が満ちる様子。次に、疫病に苦しむ人々が、健やかな笑顔を取り戻す姿。そして、里を襲う災厄が、人々の手によって退けられ、里が新たな息吹を取り戻していく様を描いた。
佐助の絵には、里への深い愛と、妹の犠牲への鎮魂、そして何よりも、未来への絶対的な希望が込められていた。彼の筆が紙の上を滑るたびに、小屋の外では、荒れ狂っていた時鳴きの残響が、わずかに、しかし確実に静まっていくのが感じられた。
里人たちは、佐助の描く絵に、希望の光を見出し始めていた。彼らは初めて、時鳴きの真実と、過去の犠牲、そして未来への責任を知ったのだ。
やがて、里を覆っていた不穏な時鳴きは完全に鎮まり、空は澄み渡った。里に迫っていた災厄は、なぜか穏やかな雨となり、大地を潤し、枯れかけていた作物に再び生命を与えた。
佐助は、最後の筆を置き、描き終えた絵を見上げた。
そこには、過去の痛みと未来への希望が織り混ざった、新たな時守の里の姿があった。彼の顔には、かつての陰りはなく、清々しい達成感と、穏やかな悲しみが同居していた。妹の犠牲を乗り越え、里の未来を自らの手で描いた彼は、内面的な成長を遂げていた。
佐助の描いた絵は、里の新たな「時守」として、広場の中心に掲げられた。もはや正午の時鳴きは、あの不吉な残響を映すことはなかった。代わりに、絵が描かれた後も、時折、佐助の絵の中から、微かな光が溢れ出し、里を優しく包み込むようになった。それは、過去の痛みを乗り越え、未来へと歩む里への、新たな希望の兆しだった。
佐助は、里に留まることも、去ることもできた。しかし、彼はそのいずれでもない、新たな道を選んだ。彼は里の片隅に小さな庵を結び、絵筆を再び握った。里の日常、人々の笑顔、そして移ろいゆく四季の美しさを、彼はひたすら描き続けた。それは、妹が命を捧げて守ったこの里の、一つ一つの瞬間の尊さを慈しむかのような、静かで力強い営みだった。彼の絵は、単なる記録ではなく、里の魂となり、人々に語りかける。
未来は、描くもの。そして、過去の痛みは、未来を紡ぐための糧となるのだと。
時守の里は、過去の秘密を胸に刻みながらも、新たな一歩を踏み出した。人々は、時折、佐助の描いた「未来の残響」のような絵を眺め、里の歴史と未来について深く考える。里の平和は、もはや見えない犠牲の上に成り立つものではない。過去を受け入れ、未来を描き続ける人々の心の中に、確かな希望として宿っていくのだ。佐助の絵は、未来への道標となり、里人たちの心に永遠に語りかけるだろう。