彩なき世の綴り人
第一章 灰色の揺らぎ
都を覆う空気は、まるで古びた羊皮紙のように色褪せていた。かつてこの街は、人々の感情が織りなす「揺らぎ」で満ちていたという。喜びは陽炎のように立ち昇る光の波紋となり、悲しみは地面を這う青白い霧となって路地を濡らした。怒りは空気を焦がす熱波となり、愛は春の陽だまりのような温もりを運んだ。それが、この世界の理だった。
しかし今、都に満ちるのは、ただ均一で生気のない灰色の揺らぎだけだ。人々は表情を失い、その瞳は磨りガラスの向こう側を眺めているかのように虚ろだった。原因不明の病――感情を失う病が、静かに都を蝕んでいた。
私、綴(つづり)は、古物商の軒先で埃をかぶった一冊の絵本にそっと指を触れた。私の指先は、他者が記した文字に触れることで、その瞬間の書き手の感情を幻影として読み取ることができる。それは呪いであり、唯一の手がかりを探すための術でもあった。
指がインクの染みに触れた瞬間、脳裏に幻影が弾けた。
――幼い子供の、弾けるような笑い声。新しい絵本を胸に抱きしめる、純粋な歓喜。世界がきらきらと輝いて見えるほどの、幸福感。
だが、その鮮やかな感情は、あまりにも強烈すぎた。閃光が網膜を焼く。ぐらり、と視界が揺れ、目の前の世界から一切の色が抜け落ちていく。白と黒の濃淡だけが残る世界。今回の代償は「色彩」だった。一時的なものだと分かっていても、胸を締め付けるような喪失感が襲う。
それでも私は、この灰色の都で、失われた彩りの欠片を探し続けなければならなかった。
第二章 無音の痕跡
手がかりを求め、私は都の南区画へと足を運んだ。そこには、奇妙な噂があった。「揺らぎ」が完全に消失した、無の空間が現れるというのだ。
裏路地をいくつか抜けた先に、その場所はあった。まるで世界から切り取られたかのように、そこだけ空気が死んでいた。音は吸い込まれ、匂いもせず、肌を撫でる風さえも存在しない。灰色の揺らぎすら、この一角を避けるように歪んでいた。足を踏み入れた瞬間、全身の産毛が逆立つような悪寒が走る。
壁には、誰かが書きなぐった落書きがあった。「神は我らを見捨てた」と。震える指で、その文字をなぞる。
幻影が来るはずだった。絶望か、怒りか、あるいは諦念か。だが、何も感じない。まるで乾いた砂に触れているかのように、そこには何の感情の残滓もなかった。これが「無」。感情そのものが、根こそぎ奪い去られた痕跡。
一体何が、これほどの虚無を生み出すというのか。
私は古文書館へと向かった。都で最も古い記録が眠る場所。そこに、この異変の源流を記した文字が残されているかもしれない。失われた色彩の代わりに、聴覚だけが妙に研ぎ澄まされ、自分の足音だけがやけに大きく響いていた。
第三章 忘れられた筆
古文書館の空気は、黴と古い紙の匂いで満ちていた。閲覧室の片隅で、私はそれを見つけた。誰にも読まれることなく、棚の奥で眠っていた革張りの日記。表紙には、紋章も署名もない。
私は覚悟を決めて、そのページに触れた。
瞬間、絶叫が鼓膜を突き破った。いや、音ではない。魂そのものが引き裂かれるような、悲痛の奔流だった。愛する者を失った絶望。世界への呪詛。己の無力さに対する、血を吐くような慟哭。あまりに濃密な悲しみの濁流に、私は意識を保つことさえできなかった。
気がつくと、私は冷たい床に倒れていた。
頭を振るが、世界は完全な沈黙に包まれていた。自分の呼吸の音も、心臓の鼓動も聞こえない。今度の代償は「聴覚」だった。だが、それ以上に強烈なものが、私の内に残っていた。あの幻影――日記の書き手が見た記憶の断片だ。
『……この悲しみが世界から消えぬのなら、私が消し去る』
震える手で日記をめくると、そこには一つの名が記されていた。
『感情を刻む筆』。
あらゆる感情の揺らぎを墨として吸い上げ、文字に封じ込めるという伝説の筆。そして、その在処は王宮の禁書庫である、と。
第四章 禁書の囁き
音のない世界は、孤独だった。王宮の警備兵の足音も、風の音も聞こえない。それが幸いし、私は禁書庫の最深部へとたどり着くことができた。そこは、呪われた書物や禁忌の記録が封じられた場所。埃っぽい空気の中に、異質な気配を放つ一本の筆が、黒檀の箱に納められていた。
軸は夜の闇を固めたような黒。穂先は、まるで濡れているかのように艶やかな光を放っていた。これが、『感情を刻む筆』。
その傍らに、一通の封じられた書簡が置かれていた。蝋封はとうに解かれ、誰かが読んだ痕跡がある。私は吸い寄せられるように、その書簡に指を伸ばした。
触れた瞬間、世界が反転した。
今までの幻影とは比べ物にならない。都中の、いや、世界中の苦しみが、一つの濁流となって私に流れ込んできた。病の苦痛。飢餓の叫び。戦争の憎悪。裏切りの悲嘆。それは、個人の感情ではない。人類が積み重ねてきた、ありとあらゆる負の感情の集合体だった。
意識が遠のく中で、私は見た。
一人の男が、この『感情を刻む筆』を握りしめ、血の涙を流しながら文字を綴っている。世界から全ての苦しみをなくすために。悲しみのない、争いのない世界を創るために。
そのために、感情そのものを、この世界から封印するのだ、と。
そして私は、凍りついた。
その男の筆跡。震える指の形。それは、鏡に映した私自身の姿だった。
第五章 虚ろの王座
真実が、砕けたガラスの破片のように私の精神を切り刻んだ。
あの男は、「過去の私」だった。遥か昔、私と同じ能力を持って生まれた私は、人々の苦しみに耐えきれなくなった。善意から、純粋すぎる正義感から、世界を救おうとしたのだ。『感情を刻む筆』を使い、あらゆる負の感情を吸い上げ、それを「無」として世界に蓋をした。
しかし、感情は分かちがたく結びついていた。悲しみを封じることは、喜びを殺すことだった。怒りを消すことは、愛を失うことだった。
結果として生まれたのが、この感情のない、灰色の世界。
過去の私は、自らの過ちに気づいた。だが、封印を解くことは、再び世界に苦しみと悲しみを取り戻すことと同義だった。彼は最後の力を振り絞り、この書簡を記した。未来、同じ能力を持って生まれるであろう自分自身――今の私――に、最後の選択を託すために。
書簡の最後には、こう綴られていた。
『我が過ちを正す者よ。お前がこの文字を読むとき、私はお前の中にいる。選択はお前に委ねる。だが覚えていてほしい。この世界は、苦しみに満ちていても、なお美しいのだと』
その文字からは、深い後悔と、そして微かな希望の揺らぎが感じられた。
第六章 彩を取り戻すための選択
私は書簡を置き、『感情を刻む筆』を手に取った。ずしりと重い。それは筆の物理的な重さではなく、世界中の感情を吸い込んできた、魂の重さだった。
過去の私が残した書簡の最後のページは、空白だった。
ここに記すべき言葉は、一つしかない。
封印を解くには、楔が必要だ。「無」の封印を打ち破る、強大な感情の楔が。そして、その楔となりうるのは、この世でただ一つ。全ての始まりである、私自身の存在。
筆を握る。穂先が、私の魂に触れた。
喜び、悲しみ、怒り、驚き、愛――私という個人を形成してきた、全ての感情が墨となって吸い上げられていく。身体が内側から透き通っていく感覚。記憶が、一枚一枚剥がれ落ちていく。
父の温かい手。母の優しい笑顔。初めて文字に触れた時の驚き。友と笑い合った日々の輝き。
それら全てが、この筆を通して、最後の一文を記すための力に変わっていく。
色彩が戻り始めた視界の端で、私は微笑んだ。
ああ、そうだ。この世界は、こんなにも彩り豊かだった。
第七章 ただ、世界に愛を
私は、空白の羊皮紙に、最後の一文を綴った。
私の存在の全てを懸けた、たった一行の言葉を。
その瞬間、筆は眩い光を放ち、私の身体は無数の光の粒子となって霧散した。記憶も、意識も、過去の私と融合し、時間の中に溶けていく。
都に、風が吹いた。
それは、ただの風ではなかった。
市場では、子供たちの歓声が光の波紋となって広がる。恋人たちは、陽だまりのような温かい揺らぎの中で見つめ合う。路地裏では、誰かが流す悔し涙が、冷たい霧となって石畳を濡らした。
怒りも、悲しみも、憎しみさえも、世界に還ってきた。だが、それと同じだけ、あるいはそれ以上に、喜びと、希望と、そして愛が溢れていた。
人々は、感情を取り戻した。灰色の都は、一夜にして色鮮やかな世界へと生まれ変わった。
「綴」という名の男がいたことなど、誰も覚えてはいない。
ただ、時折、人々は空を舞う光の波紋に、言いようのない懐かしさを感じたり、雨上がりの霧に、誰かの優しい気配を感じたりすることがあったという。
世界に還った無数の感情の揺らぎの中に、一人の男が遺した愛の残響が、永遠に響き続けている。