第一章 灰色の遺産
父が死んだ。
肺を病み、長く静かな闘病の末の、あまりにもあっけない幕切れだった。通夜も告別式も、事務手続きのように滞りなく進み、俺、宮沢涼介の心には、不思議なほど何の波も立たなかった。悲しみというにはあまりに希薄で、解放感というには少しだけ後ろめたい、そんな灰色の感情だけが漂っていた。
父は、物心ついた頃からずっと「無」の男だった。笑わず、怒らず、そしておそらく、愛しもしなかった。母が早くに亡くなってから、父と俺の間の会話は、日に日にその色彩を失っていった。食卓に響くのは食器の音だけ。壁に飾られた、若く美しい母の写真だけが、この家に感情というものが存在した時代の名残だった。
だから、遺品整理もただの作業になるはずだった。埃っぽい書斎の棚を片付けていた、その時だ。本棚の裏、壁との隙間に、桐の小箱が落ちているのを見つけた。手のひらに収まるほどの、古びた箱。蓋を開けた瞬間、俺は息を呑んだ。
中には、ガラス細工のような塊が一つ、柔らかい布に包まれて鎮座していた。
「感情結晶」だ。
この世界では、人が死ぬと、その生涯で最も強く抱いた感情が、物質化して遺されることがある。愛情深い者はルビーのように赤く、深い悲しみを抱えた者はサファイアのように青い結晶を。俺の知る父は、感情の振れ幅が極端に少ない人間だった。もし結晶が遺されるとしても、それはきっと曇りガラスのような、無色で鈍い塊だろうと、そう思っていた。
だが、目の前にあるのは、そんな予想を根底から覆すものだった。
それは、虹色だった。
一つの色ではない。赤、青、緑、黄、紫……無数の色彩が複雑に絡み合い、内部で乱反射して、まるで小さな銀河を閉じ込めたようにきらめいていた。光の角度を変えるたびに、その表情を万華鏡のように変える。こんな結晶は、見たことも聞いたこともなかった。
無感動な男が遺した、あまりにも饒舌な虹色の結晶。
それは、父が俺に残した、最初で最後の謎かけだった。俺の知らない父の人生が、その小さな輝きの中に凝縮されている。灰色の心に、初めて小さな問いの色が灯った瞬間だった。
第二章 無音の肖像
虹色の結晶の謎を解くため、俺は父の過去をたどることにした。手始めに訪ねたのは、父の唯一の友人だったという、遠縁の叔父の家だ。叔父は、書斎の父の写真を見て、懐かしそうに目を細めた。
「ああ、義兄さんか。あいつは、昔はあんな仏頂面じゃなかったんだよ」
叔父が語る父の姿は、俺の記憶とはまるで別人だった。若い頃の父は、よく笑い、情熱的に絵を描き、そして、俺の母となる女性を、身を焦がすほどに愛していたという。
「涼介くんが生まれた時なんか、すごかったぞ。病院の廊下で赤ん坊みたいに泣きじゃくって、『俺は世界一の幸せ者だ』って叫んでたんだ。あんなに感情豊かなやつを、俺は他に知らない」
信じられなかった。俺の知る父は、俺の誕生日を祝ってくれたことすらない。プレゼントどころか、「おめでとう」の一言も聞いた記憶がなかった。俺が持ち帰った賞状を無言で受け取り、ただ机の引き出しに仕舞うだけ。そんな男だった。
「でも、奥さんが亡くなってからかな。……あいつは、まるで心に分厚い扉をつけて、鍵をかけてしまったようだった」
叔父は遠い目をして言った。
次に、感情結晶を専門に扱う鑑定士のもとを訪ねた。老鑑定士は、俺が差し出した虹色の結晶をルーペ越しに覗き込み、何度も首を傾げた。
「……これは、一体……」
彼の顔には、長年の経験をもってしても解読できないという、深い困惑が浮かんでいた。
「通常、結晶は最も強い『単一』の感情を核として形成されます。愛、憎悪、悲嘆、歓喜……。しかし、この結晶には、無数の感情が、互いに打ち消し合うことなく、奇跡的なバランスで共存している。まるで、巨大な交響曲を一つの音符に押し込めたかのようです。こんなものは、前代未聞です」
帰り道、俺は混乱していた。父は、感情豊かだった? 俺が生まれた時、心から喜んでくれた? では、なぜ。なぜ、俺の前では、あの氷のような無表情を貫いたのか。俺は、父に愛されていなかったのではなかったのか。
父の肖像は、知れば知るほど輪郭がぼやけていく。無音だったはずの父の人生から、かすかな音が聞こえ始めていた。だが、それがどんな旋律なのか、俺にはまだ分からなかった。
第三章 告白の日記
手掛かりが途絶え、途方に暮れていた俺は、もう一度、父の書斎を徹底的に調べることにした。あきらめかけたその時、古い画材箱の底に、革張りの手帳が隠されているのを見つけた。父の日記だった。
インクの掠れた文字が、俺の知らない父の半生を、静かに、しかし克明に語り始めた。そこには、母への尽きせぬ愛、俺が生まれた日の爆発するような喜びが、瑞々しい筆致で綴られていた。ページをめくる手が、震える。
そして、運命の日。母が事故で亡くなった日の記述に、俺は息を止めた。悲しみに砕け散った父の心が、そこにはあった。だが、その絶望の底で、父はある出来事に気づく。
『涼介が、倒れた。医者は心労だと言うが、違う。あの子は、私の悲しみに耐えられなかったのだ。私が泣けば、涼介は熱を出し、私が絶望すれば、涼介は呼吸が浅くなる。あの子は、私の感情を、まるで自分のことのように受け取ってしまう』
衝撃が、脳を殴りつけた。
日記は続く。父は専門家を訪ね、俺が極めて稀な「共感過敏症」であることを知ったのだという。他者の強い感情を無防備に受信し、心身に深刻なダメージを負ってしまう体質。特に、近親者の感情には強く同調してしまうのだと。
『涼介を守らなければ。私のこの悲しみが、この苦しみが、あの子を壊してしまう。ならば、方法は一つしかない』
次のページに書かれていた言葉に、俺は声を上げて泣いていた。
『今日から、私は感情に蓋をする。喜ばない。悲しまない。怒らない。愛さない。涼介、お前を守るためなら、私は喜んで『無』になろう。心を石に変えよう。お前が、ただ健やかに、平穏に育ってくれること。それが、今の私の、たった一つの、そして生涯で最も強く、揺るぎない感情だ』
そういうことだったのか。
俺を無視しているように見えた、あの冷たい態度。誕生日を祝わなかったのも、賞状を褒めなかったのも、全て。全ては、父の強すぎる感情が俺に流れ込み、俺を傷つけないようにするための、必死の防御策だったのだ。
無表情の仮面の下で、父はたった一人、途方もない愛情と悲しみの嵐に耐え続けていた。俺に向けたいありったけの感情を、全て自分の心の中に押し殺して。
あの虹色の結晶は、父が押し殺した全ての感情の集合体だったのだ。息子への愛、妻を失った悲しみ、未来への希望、一人で育てる不安、そして、それら全てを呑み込んで息子を守り抜くという、鋼の決意。単一の色に染まることを許されなかった、無数の感情が織りなす、父の愛そのものだった。
無感動に見えた父の沈黙は、世界で最も雄弁な、愛の言葉だったのだ。
第四章 心に灯る色
翌日、俺は虹色の結晶を手に、母と父が眠る墓地へ向かった。冷たい墓石に、そっと結晶を置く。朝の光を受けて、結晶は墓石の上に小さな虹の橋を架けた。
「父さん」
初めて、父をそう呼んだ気がした。
「……遅くなって、ごめん」
声が震え、涙が溢れて止まらなかった。それは、後悔の涙ではなかった。悲しみの涙でもない。胸の奥深く、灰色の世界に閉ざされていた場所に、温かい光が差し込むような、そんな涙だった。
結晶を握りしめると、父の手の温もりが伝わってくるような錯覚に陥った。父が、その無表情の裏で、どれほどの想いを俺に注いでくれていたか。俺が当たり前のように享受してきた平穏な日々は、父の壮絶な自己犠牲の上に成り立っていたのだ。父は、俺を守るために、自分の心を殺した。その痛みを、苦しみを、俺は何も知らずに生きてきた。
「ありがとう、父さん」
風が、俺の頬を撫でた。それはまるで、天国の父からの返事のようだった。
これからは、もう大丈夫だ。父が守ってくれたこの心で、俺は自分の感情と向き合っていける。人を愛し、傷つき、それでもまた立ち上がって、生きていける。
俺は空を見上げた。どこまでも青い、澄み切った空。
父が遺してくれた虹色の結晶は、俺の人生の道標になった。それは、見えない愛の存在を教え、沈黙の裏にある真実を信じる力を与えてくれた。
いつか、俺の命が尽きる時、どんな色の結晶が遺るだろう。今はまだ分からない。けれど、きっとそれは、父さんからもらった虹の光を、ひとかけら宿した色になるだろう。
俺は父の墓に深く一礼し、踵を返した。足取りは、驚くほど軽かった。
心の中に、確かに灯った温かい光と共に。俺の物語は、今、始まったのだ。