星を紡ぐ鳥と破れたページ

星を紡ぐ鳥と破れたページ

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第一章 不思議な少女と最後の頁

古書店「時雨堂」の空気は、いつもインクと古い紙の匂いがした。埃っぽい、という客もいるが、店主の桐島蒼にとっては、それが世界の他のどんな場所よりも落ち着く香りだった。祖父からこの店を引き継いで三年。蒼は本の壁に囲まれ、現実から隔絶された静かな城で、ただ時間をやり過ごしていた。

その少女が初めて店に現れたのは、窓ガラスを灰色の涙が叩く、しとしとと雨の降る午後だった。年の頃は十歳くらいだろうか。水色のレインコートのフードを深く被り、その顔立ちはよく見えない。ただ、大きな瞳だけが、薄暗い店内で不思議な光を宿しているように思えた。

少女は何も言わず、カウンターに小さなメモ帳を置いた。そこには、子供らしい、少し拙い文字でこう書かれていた。

『星を紡ぐ鳥』

「絵本か?悪いが、そんなタイトルの本は扱っていない」

蒼は素っ気なく答えた。少女は小さく首を横に振ると、またその瞳でじっと蒼を見つめた。まるで、言葉ではない何かで訴えかけているかのようだ。面倒だな、と蒼は思った。人との深い関わりは、いつも予測不能な感情を運んでくる。それは蒼が最も苦手とするものだった。

しかし、少女は諦めなかった。翌日も、その次の日も、雨が降ると決まって店にやって来た。そして、ただ静かに、蒼が『星を紡ぐ鳥』を見つけ出してくれるのを待っているかのように、店内の隅にある小さな椅子に座っているのだった。

そんな奇妙な交流が五日続いた嵐の夜。客も帰り、店じまいをしようとした蒼は、ふと店の奥にある、祖父の遺品を仕舞ったままの開かずの書庫が気になった。何かに導かれるように足を踏み入れると、ひときわ古びた木箱が目に留まった。ぎしり、と軋む蓋を開けた瞬間、蒼は息を呑んだ。

箱の底に、一冊の絵本が横たわっていた。藍色の表紙には、銀色の箔押しで鳥の姿と、『星を紡ぐ鳥』という題名が記されている。

「……あったのか」

驚きと共にページをめくる。インクのにじむような、柔らかく繊細なタッチで描かれた物語。夜空の星が消えてしまった世界で、一羽の鳥が、自分の羽根を星に変えて、ひとつ、またひとつと空に光を灯していく。その自己犠牲的な物語に、蒼は不覚にも胸を打たれた。

物語は佳境に入り、鳥の羽根はあと一枚を残すのみとなる。最後の星を灯せば、鳥はもう飛ぶことができなくなるだろう。蒼は唾を飲み込み、最後のページをめくろうとした。だが、そのページは、綺麗に破り取られていた。物語の結末だけが、ごっそりと失われていたのだ。なぜ祖父はこんなものを? そして、なぜ最後のページだけが、存在しないのだろうか? 謎は、時雨堂の静寂の中で、深く、濃くなっていくばかりだった。

第二章 祖父の日記と母の影

翌日、蒼は開店と同時にやって来た少女に、その絵本を見せた。少女の大きな瞳が、これ以上ないほどに見開かれる。小さな手が恐る恐る絵本に伸び、その藍色の表紙を優しく撫でた。喜びが、その全身から発光するように伝わってくる。

「見つかったぞ。ただし……」

蒼が言いよどみながら最後のページがないことを告げると、少女の顔からさっと光が消えた。喜びの頂点から突き落とされたような、深い悲しみがその瞳に影を落とす。言葉を発しない彼女の失望は、どんな慟哭よりも雄弁に蒼の胸を締め付けた。

「……探してみる。破れたページを」

自分でも信じられない言葉が口から滑り出た。面倒はごめんだと思っていたはずなのに。少女の悲しげな瞳が、蒼の心の固い扉をこじ開けてしまったようだった。

それから蒼の探索が始まった。祖父が懇意にしていた出版関係者に連絡を取ってみるが、『星を紡ぐ鳥』も、作者として記されていた「月村雫」という名も、誰も知らなかった。まるで、この世に存在しない本を探しているような徒労感だけが募っていく。

それでも蒼は諦めなかった。それは、毎日店に通ってくる少女の存在があったからだ。彼女は相変わらず話さない。だが、蒼が書庫で資料を漁っていると、隣で静かに本を読んだり、時折、蒼の淹れたココアを小さな手で温めるように持って、こくりと飲んだりした。その静かな共犯関係のような時間が、蒼の中で凍っていた何かを、ゆっくりと溶かしていくのを感じていた。

手詰まりになった蒼は、再び祖父の書斎に籠った。何か手がかりはないか。本棚の奥、祖父が大切にしていた万年筆の箱の中に、鍵のかかった一冊の日記を見つけた。鍵はすぐに見つかった。机の引き出しの、一番奥。まるで、いつか誰かが開けることを知っていたかのように。

日記を読み進めるうちに、蒼の心臓は嫌な音を立て始めた。そこには、月村雫という女性との交流が、瑞々しい筆致で綴られていた。祖父は、彼女の類まれなる才能に惚れ込み、どうにか世に出せないかと奔走していたらしい。

『彼女の描く世界は、あまりに純粋で、そして哀しい。まるで、己の命を削って光を灯しているかのようだ』

日記は、彼女が重い病を患っていたこと、そして、若くしてこの世を去ったことを告げていた。蒼の胸に、ちり、と小さな痛みが走る。そして、日記の最後の方で、蒼は信じられない一文に突き当たった。

『雫が、私に最後の子を託していった。あの子の名は、蒼。私の、たった一人の孫だ』

第三章 明かされる真実

世界から、音が消えた。時雨堂の柱時計が刻む音も、窓の外の喧騒も、何も聞こえない。蒼は、日記を持つ手が震えていることに気づいた。

月村雫は、自分の母親だった。

幼い頃、事故で両親を一度に亡くしたと、祖父から聞かされて育った。それが疑う余地のない真実だと信じてきた。だが、それは蒼を傷つけまいとした祖父の、優しい嘘だったのだ。父は蒼が生まれてすぐに家を出て、母・雫は病と闘いながら蒼を産み、祖父に託して、静かに息を引き取った。

『星を紡ぐ鳥』は、作者不明の絵本などではなかった。それは、母が、腕に抱くことの叶わなかった我が子――蒼のために描いた、たった一冊の、愛の物語だった。

では、なぜ祖父は結末を破り取ったのか。蒼は、涙で滲む視界で、必死に日記の続きを読む。

『雫は、この物語の結末を、白紙のまま私に渡した。そして言ったのだ。「あの子が、本当に人を愛することを知り、自分自身の物語を紡ぎたいと願った時、本当の結末を見せてあげてほしい」と。だから私は、雫が最後に描いたページを隠すことにした。蒼が、その意味を理解できる日が来るまで』

涙が、日記のインクを滲ませた。祖父の愛情、そして会ったこともない母の愛情が、三十年近い時を超えて、奔流のように蒼の心に流れ込んでくる。孤独だと思っていた。誰にも理解されず、愛されずに生きてきたと、心のどこかで世界を呪っていた。だが、自分は、これほどまでに深い愛の中にいたのだ。

日記には、最後のページの隠し場所も記されていた。

『店の柱時計の中だ。あの子が生まれた時に、私が買った、あの時計の中に』

蒼は、よろよろと立ち上がり、店の壁際で変わらず時を刻み続ける古い柱時計に向かった。震える指で裏蓋を開ける。歯車の隙間に、丁寧に折り畳まれた一枚の紙が挟まっていた。黄ばみ、角が丸くなったその紙片を、蒼は祈るように開いた。

第四章 星が紡いだもの

そこに描かれていたのは、夜明けだった。

自分の羽根をすべて使い果たし、飛べなくなった親鳥。その傍らで、夜空に満ちた星々の光を一身に浴び、キラキラと輝く一羽の小さな雛鳥が、親鳥にそっと寄り添っていた。絵の下には、母の筆跡であろう、優美な文字が添えられていた。

『わたしのたからものへ。あなたの空が、やさしい光で満たされますように』

それは、母から蒼への、最初で最後の手紙だった。蒼は、その場に崩れ落ちた。声を殺して泣いた。失われたと思っていた結末は、喪失の物語ではなかった。それは、愛の継承と、未来への希望を告げる、あまりにも温かい再生の物語だったのだ。

翌日の午後、いつものように少女が店にやって来た。蒼は、深呼吸を一つすると、彼女をカウンターの前に招き入れた。そして、初めて自分の言葉で、この物語を語り始めた。星を失った世界の悲しみ、一羽の鳥の献身、そして、その鳥が本当に灯したかったものが何だったのかを。

蒼は、修復した絵本を開き、少女に読み聞かせた。一ページ、一ページ、母の愛を確かめるように。そして、最後のページを読み終えた時、ずっと沈黙を守っていた少女が、透き通るような声で、はっきりとこう言った。

「……ありがとう」

その一言だけを残し、少女は深くお辞儀をすると、店の外で待っていた一台の車に乗り込み、去っていった。彼女は一体誰だったのか。もう知る由もない。だが、蒼には分かっていた。彼女は、母が、あるいは祖父が、蒼の心の扉を開けるために遣わしてくれた、星の使者だったのかもしれないと。

あの日から、時雨堂の空気は少しだけ変わった。古い紙とインクの匂いに、どこか温かい光の匂いが混じるようになった。

蒼は、カウンターの奥で、新しい万年筆を手にしていた。白紙のノートを開き、彼は物語を書き始める。それは『星を紡ぐ鳥』の続編ではない。彼がこれから生きていく、彼自身の物語だ。窓から差し込む夕陽が、彼の横顔を優しく照らしていた。

母が紡いだ星の光は、決して消えはしない。それは今、息子の心の中で、新しい夜明けを照らすための、確かな光となって輝き始めていた。

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