星屑のレコーダー

星屑のレコーダー

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第一章 亡き母からの手紙

高木健太の日常は、限りなく無機質だった。液晶画面に並ぶコードの羅列、規則的なキーボードの打鍵音、そして空調が吐き出す一定温度の空気。システムエンジニアとして都心の高層ビルで働く彼にとって、世界はロジックで構築され、効率で評価されるべきものだった。感傷や非合理的な奇跡など、バグ以外の何物でもない。

そんな彼の世界に、あり得ないはずのバグが紛れ込んだのは、梅雨入りを間近に控えた湿度の高い金曜日の夜だった。疲れ切って帰宅し、雑に郵便受けを開けると、見慣れない一通の封筒が滑り落ちた。淡い桜色の和紙でできた、手触りの優しい封筒。宛名には、インクが滲んだような、懐かしい丸文字で『高木健太様』と書かれている。そして、差出人の名前に、健太は息を呑んだ。

『高木小百合』。

五年前に、病でこの世を去った母の名前だった。

悪趣味な悪戯か。健太は冷めた思考で封筒を裏返すが、切手も消印もない。誰かが直接投函したのだ。心臓が嫌な音を立てるのを無視し、彼は封筒を開けた。中には、一枚だけ便箋が入っていた。

『健太へ

お元気ですか? ポストを開けてごらん、といつも言っていたのを覚えているかしら。

あなたに、渡したいものがあります。

子供の頃、あなたが大切にしていた宝物を埋めた、あの大きな桜の木。

思い出せる? あの木の下に、私の最後の宝物も一緒に眠っています。

母より』

鳥肌が立った。文面も、インクの掠れ具合も、記憶の中の母の筆跡そのものだった。合理主義者の健太の頭脳が、幽霊、奇跡、タイムパラドックスといった非科学的な単語を弾き出そうとして警報を鳴らす。だが、それ以上に強く、心の奥底で忘れかけていた温かい何かが揺さぶられるのを感じていた。

翌日、健太は衝動的に新幹線のチケットを取り、疎遠になっていた故郷行きのそれに飛び乗った。父とは母の死後、ろくに話もしていない。無口で不器用な父と、合理主義で理屈っぽい息子。二人の間には、いつも気まずい沈黙が流れていた。だが、今はそんなことよりも、確かめなければならないことがある。あの手紙は、一体何なのか。そして、母の『最後の宝物』とは。

錆びついた実家の門を抜け、庭の隅に立つ、ひときわ大きな桜の木を見上げた。初夏の強い日差しを浴びて、葉桜が生命力に満ちた影を地面に落としている。健太は物置からスコップを持ち出し、記憶を頼りに根元を掘り始めた。額に汗が滲み、土の匂いが肺を満たす。やがて、スコップの先端が硬いものに当たった。

それは、ブリキの菓子缶だった。錆びつき、へこんだその箱を開けると、中にはビー玉や古びたヒーローのフィギュアと共に、一台のポータブルカセットプレーヤーと、数本のカセットテープが丁寧に布に包まれて入っていた。

第二章 カセットテープの記憶

その夜、健太は自室だった二階の和室で、一人、菓子缶の中身と向き合っていた。窓の外では、蛙の合唱が響いている。都会の人工音とは違う、不規則で、それでいて心地よい生命の音。階下では、父がテレビを見ているのだろう、微かに音が漏れ聞こえてくる。父は健太の突然の帰省に驚いたようだったが、理由を尋ねるでもなく、ただ「そうか」とだけ呟いた。

健太は、カセットプレーヤーにそっと電池を入れた。幸いにもまだ動くようだ。彼はテープの中から、『健太、五歳の誕生日』と母の字で書かれた一本を選び、再生ボタンを押し込んだ。

ジー、というノイズの後、聞こえてきたのは、紛れもなく母の明るい声だった。

『健太、こっち向いて。ほら、ケーキすごいでしょう? ロウソクの火、吹き消せるかな?』

続いて、甲高い子供の声が響く。幼い自分の声だ。

『ふーってする! ふーっ!』

『上手、上手! おめでとう、健太』

健太は思わず目を閉じた。瞼の裏に、ぼんやりとした光景が蘇る。クリームでべとべとになった自分の手。それを優しく拭ってくれる母の温かい指先。食卓を照らす裸電球の、オレンジ色の光。忘れていたはずの記憶の断片が、音をきっかけに鮮やかに蘇り、胸の奥を締め付けた。それは、痛みというよりは、温かい疼きに近かった。

テープは他にも何本もあった。『初めての自転車』『星空の約束』『運動会のかけっこ』。健太は毎晩、ベッドに潜り込み、イヤホンを耳に当てて、一本ずつテープを聴いた。そこには、健太自身も忘れてしまっていた、母と過ごした他愛ない日々の記録が、色褪せることなく保存されていた。

母は、よく歌を歌ってくれた。少し音程の外れた子守唄。健太が駄々をこねると、決まって困ったように笑った。そして、どんな些細なことでも、「すごいね、健太は」と褒めてくれた。テープを聴く時間は、まるで母との対話のようだった。合理性と効率だけを追い求めて乾ききっていた健太の心に、母の声は優しい雨のように染み渡っていく。

なぜ母は、こんなものを遺したのか。ただの思い出の記録か。いや、あの不思議な手紙といい、何か特別な意味があるに違いない。健太は、母がどんな想いでこのテープを録音し、ここに隠したのかを想像した。日に日に、母への思慕と、この奇妙な現象への謎は深まっていく。そして、ついに最後の一本を手に取った。そこには、こう書かれていた。

『最後の贈り物』

第三章 最後の贈り物

健太は、ごくりと唾を飲み込んだ。これが、母からの最後のメッセージ。一体、何が記録されているというのか。祈るような気持ちで、再生ボタンを押した。

『健太、大きくなったあなたへ』

優しい母の声が、イヤホンから流れ込んでくる。健太の心臓が大きく脈打った。

『これを聴いている頃、あなたはどんな大人になっているかしら。きっと、昔みたいに優しくて、ちょっと頑固な、素敵な男性になっているんでしょうね。お母さんは、ずっとあなたのことを見ていますよ。空の上から、いつも、いつも…』

その言葉を最後に、プツリ、と音声が途切れた。そして、激しいノイズが耳をつんざく。健太が慌ててプレーヤーを止めようとした瞬間、ノイズの向こうから、別の声が聞こえてきた。それは、母の声ではなかった。低く、しゃがれた、聞き覚えのある声。

『……すまない、健太。母さんの声は、ここまでしか、残ってなかったんだ』

父の声だった。

健太はイヤホンをむしり取るように外し、呆然とプレーヤーを見つめた。何が起きているのか理解できない。混乱する彼の背後で、障子戸が静かに開いた。そこに立っていたのは、バツの悪そうな顔をした父だった。

「…聴いたのか」

父は、小さな声で言った。健太は言葉を発することができない。

「こっちへ来い」

父に促されるまま階下へ降りると、父は埃をかぶった書斎のパソコンを起動させた。画面に表示されたのは、無数の音声ファイルと、複雑な波形編集ソフト。

「お前の母さんはな、亡くなる一年ほど前から、病気のせいで声を失ったんだ」

父は、ポツリ、ポツリと語り始めた。それは、健太が知らなかった事実だった。仕事の忙しさを理由に、母の最期にろくに立ち会えなかった健太は、そのことを知らなかったのだ。

「あいつは、最後までお前のことを心配していた。自分のことを忘れられてしまうんじゃないかって。声だけでも遺したい、大きくなったお前に、メッセージを伝えたいって。でも、間に合わなかった…」

父は、古いテープから母の声を抜き出し、単語や音節ごとに分解し、繋ぎ合わせる作業を、この数年間、一人で続けていたのだという。

「わしには、これくらいしかできんかった。お前が好きそうな、AIとかいうのを使ってな。母さんの声に近い合成音声を作って、あいつが言いたかったであろう言葉を、なんとか…」

あの手紙も、父が母の過去の日記を見ながら、必死に筆跡を真似て書いたものだった。合理主義の息子に、こんな非科学的で、情緒的な贈り物を真正面から渡す勇気がなかった。だから、母からの奇跡の手紙、という形を装ったのだ。

「不器用で、すまんな」

健太の視界が、急速に滲んでいった。

信じなかった奇跡。それは、幽霊でもタイムスリップでもなかった。無口で、不器用で、何を考えているか分からなかった父の、途方もない時間と労力をかけた、海よりも深い愛情の結晶だった。システムエンジニアである自分が最も得意とするはずの、ロジックとテクノロジー。それらを駆使して、父はただひたすらに、妻の想いを息子に届けようとしていた。

健太の価値観が、音を立てて崩れ、そして再構築されていく。世界はロジックだけでは動いていない。効率だけでは測れないものが、確かにある。その温かくて、少し不格好な真実が、健太の心を激しく揺さぶった。

第四章 ポストの中に

「ありがとう、父さん」

健太の口から、掠れた声が漏れた。それは、何年ぶりに父に向けて発した、心からの言葉だった。父は何も言わず、ただ少しだけ目元を緩め、窓の外に視線を向けた。二人の間に流れていた長年の氷が、静かに溶けていく音がした。

翌日、健太はもう一度、あの最後のテープを聴いた。父が作り上げた、少しぎこちなく、僅かに機械的な響きを持つ母の合成音声。

『…健太、あなたの中に私は生きている。だから、前を向いて。あなたの周りの人を、大切にしてね。愛しています』

その声は、もはや本物か偽物かなんて、どうでもよかった。そこに込められた、母の変わらない愛情と、父の不器用な愛情。二つの想いが重なり合って、健太の魂に直接響いてきた。涙が、後から後から頬を伝った。それは、悲しみの涙ではなく、心を洗い流すような、温かい感謝の涙だった。

週末を終え、健太は都会のアパートへ戻った。部屋は相変わらず無機質だったが、彼の目に映る世界は、以前とは少し違って見えた。駅へ向かう道端に咲く名もなき花。隣の席の同僚が淹れてくれた、少しぬるいコーヒー。その一つひとつに、誰かの想いや、ささやかな温もりが宿っているように感じられた。

月曜日の朝、出社する前に、健太は自分のアパートの郵便受けを、そっと開けてみた。もちろん、桜色の封筒は入っていない。入っていたのは、数枚の広告チラシと、公共料金の請求書だけだ。

だが、健太は少しもがっかりしなかった。彼は小さく微笑むと、ポストを閉めた。

母からの手紙は、もう届かないだろう。でも、ポストを開けるたびに、彼は思い出すはずだ。ロジックだけでは測れない、人と人との繋がりの温かさを。そして、いつか自分も、誰かの心に届くような、不器用でも、誠実な「手紙」を渡せる人間になりたい、と。

星屑のように散らばった記憶を集めてくれた、父という名のレコーダー。そのカセットテープが奏でた音色は、健太の心の中で、これからもずっと鳴り響き続けるだろう。乾いたアスファルトの街で、彼は確かな一歩を踏み出した。

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