追憶図書館と読まれなかったページ

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第一章 寂静の書架と少女の問い

埃の粒子が午後の光に舞う、静寂に満ちた場所。それが、僕の職場である「追憶図書館」だった。ここでは、世界中のあらゆる書物ではなく、ただ一つの種類の本だけが収められている。それは、人の一生を綴った本だ。人がその生を終えると、その魂は一冊の本となり、この図書館の書架にひっそりと収められる。喜怒哀楽、出会いと別れ、人が経験したすべてが、インクの染みとなってページに刻まれるのだ。

僕、リヒトの仕事は、この図書館の司書。遺された人々が、愛する者の本を読みに訪れる際の手助けをすることだ。分厚い革の表紙を撫でながら涙する老婆、若くして逝った友人のページをめくり、笑いながら泣く青年。僕はそんな彼らの傍らで、ただ静かに佇む。他人の人生の断片に触れる毎日。それは、僕自身の空虚さを埋めるための、一種の儀式でもあった。僕には、どうしても開くことのできない本が二冊あったからだ。

その日、図書館の重い扉が軋み、一人の少女が入ってきた。歳は十五か十六くらいだろうか。陽光を弾くような明るい栗色の髪に、少し色素の薄い瞳。しかし、その快活そうな見た目とは裏腹に、彼女の肌は陶器のように白く、どこか儚げな雰囲気を纏っていた。

「こんにちは。司書さん」

鈴を転がすような声だった。僕はいつものように無表情を装い、静かに会釈する。

「どなたかの本をお探しですか」

「ううん、違うの」少女は首を横に振った。「探しに来たんじゃなくて、質問しに来たの」

彼女は真っ直ぐに僕の目を見て、悪戯っぽく微笑んだ。

「ねえ、司書さん。私の本って、将来どんな風になるのかな。やっぱり、すごく薄っぺらいのかな?」

予期せぬ質問に、僕は言葉を失った。ここは死者のための場所だ。生者が自らの本の未来を尋ねに来ることなど、前代未聞だった。彼女の瞳の奥に、自分の運命を知る者の、諦めと好奇が入り混じったような複雑な光が揺らめいているのが見えた。

「……本の厚さは、生きた時間の長さに比例します。ですが、その価値は厚さでは測れません」

我ながら、教科書のようなつまらない答えだと思った。だが、少女は満足そうに頷いた。

「そっか。よかった」

彼女はエララと名乗った。それからというもの、エララは頻繁に図書館を訪れるようになった。彼女は誰かの本を借りに来るわけではなく、ただそこにいることを楽しんでいるようだった。高い天井まで続く書架を見上げたり、窓際の椅子に座って、本を読む人々の姿をぼんやりと眺めたり。そして時折、僕に話しかけてくるのだ。彼女の存在は、静止していた僕の時間に、小さなさざ波を立て始めていた。

第二章 閉ざされたページと雨の記憶

エララとの奇妙な交流が始まって、数ヶ月が経った。彼女は僕が決して足を踏み入れない、図書館の北棟にある書架に興味を示した。そこには、事故や災害で亡くなった人々の本が収められている。僕の両親の本も、そこにあるはずだった。

「リヒトさんは、どうして自分のご両親の本を読まないの?」

ある日、カウンターで本の整理をしている僕に、エララが屈託なく尋ねた。その言葉は、鋭い針のように僕の胸を刺した。

「……読む必要がないからです。僕は、彼らのことをよく知っていますから」

嘘だった。僕が覚えている両親の記憶は、十歳のあの日で止まっている。土砂降りの雨の中、家族で出かけた帰り道。濡れたアスファルトの匂い、ワイパーの単調なリズム、そして、甲高いブレーキ音と衝撃。僕を庇うように覆いかぶさってきた父の背中の温もりと、母の悲鳴。それが、僕の持つ最後の記憶だった。

僕は、あの日の真実を知るのが怖かった。両親が最後に何を思い、どんな苦痛を感じたのか。そのすべてが記されたページをめくる勇気が、僕にはなかった。僕だけが生き残ってしまったという罪悪感が、鉛のように心に沈殿していた。他人の人生を淡々と処理することで、僕は自分の過去から目を逸らし続けてきたのだ。

「ふーん」エララは僕の嘘を見抜いているのかいないのか、曖昧に微笑んだ。「でも、知ってることと、読むことは違うと思うな。本には、その人が誰にも言わなかった秘密の気持ちも書いてあるんでしょ?」

彼女は一冊の本を手に取った。それは、若くして病で亡くなった音楽家の本だった。

「この人、最期まで諦めずに、病室で曲を書いてたんだって。誰も聴くことのない曲をね。でも、その曲は確かにこの本の中に鳴ってる。……素敵だと思わない?」

エララの指が、本の背表紙を優しくなぞる。その横顔を見ていると、僕の心の硬い殻が、少しだけ軋むような気がした。彼女は、本の厚さではない価値を、誰よりも理解しているようだった。彼女自身の人生が、それを証明しているかのように。

その日を境に、僕の中で何かが変わり始めた。エララと話す時間は、色のない僕の日々に、淡い光を灯すようになっていた。彼女がいない日は、図書館の静寂がやけに重く感じられた。僕は無意識のうちに、彼女が扉を開けて入ってくるのを、心待ちにするようになっていたのだ。

第三章 告白と砕け散る世界

季節が移ろい、冷たい風が吹くようになった頃、エララの足は図書館からぱたりと遠のいた。最初は気まぐれかと思ったが、一週間、二週間と経つうちに、言いようのない不安が僕の胸を締め付けた。彼女の儚げな姿が、悪い予感を呼び起こす。

僕は、館長に事情を話し、彼女の住所を教えてもらった。司書が利用者の個人情報に干渉するなど、本来許されることではない。だが、館長は何も言わず、古びた住所録から一枚のメモを差し出してくれた。その物言いたげな瞳の意味を、僕はまだ知る由もなかった。

訪ねた家は、古いが手入れの行き届いた小さな一軒家だった。ドアを開けてくれたのは、憔悴した様子の女性、エララの母親だろう。僕が図書館の者だと告げると、彼女は驚いたように目を見開き、そして静かに招き入れてくれた。

通された部屋のベッドに、エララは横たわっていた。数週間会わないうちに、彼女は驚くほど痩せてしまっていた。陶器のようだった肌は、今は透き通るように白い。僕の姿を認めると、彼女は弱々しく、しかし嬉しそうに微笑んだ。

「……来てくれたんだ。リヒトさん」

「君が来ないから、心配になって」

僕らはしばらく、途切れ途切れに言葉を交わした。図書館のこと、新しく入った本のこと。だが、会話が途切れた時、エララは決心したように口を開いた。その瞳には、今まで見たことのない深い悲しみの色が湛えられていた。

「リヒトさん……ごめんなさい」

唐突な謝罪に、僕は戸惑った。

「謝ることなんて何もないよ」

「ううん、あるの」彼女はか細い声で続けた。「ずっと、言わなきゃって思ってた。……十年前の、あの雨の日の事故。あなたの両親が亡くなった事故のこと」

心臓が氷の塊になったように冷たくなった。なぜ、彼女がその事故を知っている?

「あの事故は……私の両親が起こしたものなの」

時が止まった。窓の外で揺れる木々の葉も、部屋の中を漂う埃の動きも、すべてが停止したように感じられた。エララの言葉が、音となって僕の耳に届きながら、その意味を脳が理解するのを拒絶していた。

彼女の両親が運転する車が、雨でスリップし、僕たちの車に衝突した。彼女の両親も、その事故で亡くなったのだという。彼女はずっと、その十字架を背負って生きてきた。僕に会うために、謝罪するために、この図書館に通っていたのだと。

「あなたの……ご両親の本を、読みたかった。どんな人だったのか、知りたくて……。でも、私には、その資格なんてないから……」

涙がエララの頬を伝った。僕の世界が、音を立てて砕け散っていく。僕が抱えてきた罪悪感、悲しみ、怒り。その感情の行き場が、今、目の前の衰弱した少女へと向かおうとしていた。僕の人生を根底から覆した事故。その原因が、この少女の家族だったというのか。僕の足元が、ぐらりと揺らいだ。

第四章 君と両親の物語

僕はエララの家を飛び出し、雨の中を無我夢中で走った。冷たい雨が、頬を伝うのが涙なのか雨粒なのか、もう分からなかった。たどり着いたのは、追憶図書館だった。びしょ濡れのまま、僕は吸い寄せられるように北棟の書架へと向かった。今まで、あれほど避けてきた場所へ。

『アーロン・シュミット』

『エリザ・シュミット』

埃をかぶった二冊の本。父と母の名前が刻まれた背表紙を、震える指でなぞる。僕は床に座り込み、意を決して父の本を開いた。

ページをめくるたび、僕の知らなかった父の人生が流れ込んできた。悪戯好きだった少年時代、母と出会った時の不器用な恋、僕が生まれた日の歓喜。そして、事故の日の記述。そこには、僕が恐れていたような苦痛や後悔だけではなかった。

『対向車がコントロールを失っている。避けられない。エリザ、リヒトを頼む』

『リヒト、強く生きるんだ。お前は、私たちの希望だ』

それは、絶望の中にあっても、僕への愛に満ちた言葉だった。母の本にも、同じ想いが綴られていた。彼らは、相手の運転手を責めてなどいなかった。ただひたすらに、遺していく息子の未来を案じていたのだ。僕が抱えていた罪悪感は、彼らの深い愛の前では、あまりにも矮小なものに思えた。僕は、二人の人生に包まれるように、声を上げて泣いた。

数日後、エララが亡くなったという知らせが届いた。彼女は、一冊の本になった。僕は、彼女の母親からその本を預かった。それは、僕がこれまで見てきたどの本よりも薄かった。でも、ページをめくると、そこには短い生涯を懸命に生き抜いた、眩しいほどの光が満ちていた。病と闘いながらも、絵を描くことを愛し、小さなことに喜びを見出し、そして、ずっと罪の意識に苛まれながらも、誰かの幸せを願い続けた少女の物語。

僕は、エララの本と、彼女の両親の本を図書館に持ち帰った。そして、僕の両親の本が収められていた棚へ向かう。父の本と母の本の間に、僕はそっと三冊の本を差し込んだ。エララの両親の本、そして、エララ自身の本を。

これでよかったのか、正解は分からない。だが、書架に並んだ五冊の本は、まるで一つの家族のように見えた。悲しい事故で引き裂かれた魂が、十年の時を経て、この静かな場所でようやく一つになったような気がした。

僕は今も、追憶図書館の司書を続けている。訪れる人々の悲しみに寄り添いながら、一冊一冊の本が持つ、かけがえのない物語を大切に守っている。

エララが教えてくれた。人生の価値は、その長さではない。いかに生きたか、だ。

窓から差し込む柔らかな光が、静かに書架を照らしている。そこに並ぶ無数の物語は、これからも誰かの心の中で生き続けるだろう。僕の両親の物語も、エララの物語も、そして、いつか本になる僕自身の物語も。

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