忘れ音の蒐集家

忘れ音の蒐集家

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第一章 無色の依頼人

リツの仕事場は、静寂と硝子の匂いに満ちていた。壁一面を埋め尽くす棚には、大きさも形も様々なガラス瓶が整然と並び、その一つ一つに、色とりどりの結晶が封じ込められている。あるものは淡い桜色に煌めき、あるものは深海の藍を宿し、またあるものは怒りの炎のように赤黒く淀んでいた。これらは「忘れ音(わすれね)」と呼ばれる、人が抱える後悔の結晶だ。リツは、この忘れ音を人々から抽出し、対価と引き換えに破壊する――すなわち、後悔そのものを消し去ることを生業としていた。

彼の仕事は常に機械的で、感情の介在する余地はない。特殊な音叉を依頼人のこめかみに当て、心の澱を共鳴させて音の結晶として取り出す。そして、それを防音室に持ち込み、専用の槌で砕く。砕かれた瞬間、忘れ音はその名のとおり、後悔の記憶が凝縮された「音」となって弾け、そして永遠に消え去る。リツは、その音を聞く。かつては耳を塞いでいたが、今では何の感慨も抱かない。他人の痛みや悲しみは、彼にとってただのノイズに過ぎなかった。

その日、やってきた依頼人は、ひどく印象の薄い老婆だった。顔の皺の数も、白髪の光沢も、着ている服の色さえも、記憶に残らない。まるで、世界からその存在が拒絶されているかのように、輪郭が曖昧だった。

「私の……私の後悔を、すべて消していただきたいのです」

か細いが、芯のある声だった。

「すべて、ですか」リツは無感動に問い返す。「それは通常、お受けできません。後悔は人の精神を形作る柱の一つ。すべてを失えば、あなたという存在そのものが……」

「構いません」老婆は静かに遮った。「むしろ、それを望んでおります。私の人生における、すべての後悔を。一つ残らず、です」

老婆はテーブルの上に、ずしりと重い革袋を置いた。中からは、目算を遥かに超える金貨が鈍い光を放つ。リツの眉が微かに動いた。これほどの依頼は前代未聞だ。

「条件が、一つだけございます」老婆は続けた。「私の後悔は、おそらく数え切れぬほどございましょう。毎日、一つずつ、あなた様にお届けいたします。それを、ただ、一つずつ消していってください。決して、後悔の連なりを追おうなどとなさらないで。これは、独立した、個々の痛みなのです。そう、約束していただけますか?」

奇妙な条件だった。後悔とは本来、過去の出来事と複雑に絡み合い、一つの物語を形成するものだ。それを断片として扱え、という。リツは老婆の顔を見ようとしたが、やはりその表情は霞がかかったように読み取れなかった。彼はただ、金貨の重みと、自身の心の空虚さを天秤にかけ、静かに頷いた。

「承知いたしました」

その日から、リツの元に毎日、小さな桐の箱が届けられるようになった。中には、老婆から抽出されたであろう、小さな忘れ音が入っていた。リツは約束通り、それを機械的に、一つ、また一つと砕き始めた。

第二章 奏でられる記憶の断片

最初の忘れ音は、涙の滴のような形をした、透明な結晶だった。リツがそれを砕くと、澄んだピアノのアルペジオと共に、「ごめんなさい」という少女のような囁きが響いて消えた。次の日は、歪んだ琥珀色の結晶。砕けば、割れたガラスの音と、「どうして分かってくれないの」という悲痛な声がした。

「もっと優しくすればよかった」――すすり泣くようなヴァイオリンの旋律。

「あの時、ありがとうと言えなかった」――錆びた鉄琴の、寂しげな響き。

「なぜ、信じてあげられなかったのだろう」――遠くで鳴る教会の鐘の音。

リツは、感情を排し、淡々と作業を続けた。しかし、何十日と経つうちに、彼は奇妙な感覚に囚われ始めた。一つ一つは独立しているはずの忘れ音。それらが奏でる音の断片が、彼の頭の中で繋がり始めているような気がしたのだ。まるで、一つの壮大な楽曲の、異なるパートを毎日少しずつ聞かされているかのように。

ある忘れ音は、喜びの頂点から突き落とされるような不協和音を立てた。またある忘れ音は、寄せては返す波のように、穏やかで切ないメロディを奏でた。それらは、一人の女性が経験したであろう、愛と、裏切りと、喜びと、そして深い悲しみの物語を暗示していた。

「連なりを追うな」

老婆の言葉が、亡霊のようにリツの思考を掠める。だが、彼の乾ききった心に、いつしか「好奇心」という名の小さな芽が吹いていた。この無数の後悔の果てに、何があるのだろう。この旋律が完成した時、一体どんな曲になるのだろう。

彼は初めて、仕事に「興味」を抱いた。棚に並ぶ、老婆から届けられた忘れ音の空き瓶を眺める。それはまるで、演奏を待つ楽譜のようだった。リツは無意識のうちに、指で棚をなぞっていた。冷たいガラスの感触が、彼の皮膚から微かな熱を奪っていく。それは、忘れかけていた人間らしい感覚の兆しだったのかもしれない。

そして、依頼が始まってから半年が過ぎた頃。届けられた桐の箱は、これまでとは比べ物にならないほど重かった。箱を開けたリツは息を呑む。中に入っていたのは、赤と黒が禍々しく混じり合った、握り拳ほどの大きさの忘れ音だった。それは不規則な鼓動のように、鈍い光を明滅させていた。

これが、老婆の人生の核心に触れる後悔なのだと、リツは直感した。そして同時に、抗いがたい衝動に駆られた。

この音を、聴かなければならない。この旋律の、終着点を知らなければならない。

第三章 禁じられた和音

リツは、震える手でその巨大な忘れ音を掴んだ。約束を破る罪悪感よりも、真実を知りたいという渇望が勝っていた。彼は防音室へは向かわず、仕事場の真ん中に立った。そして、棚からこれまでに集めた老婆の忘れ音――そのすべてを、床に円を描くように並べ始めた。

桜色の結晶、藍色の結晶、琥珀色の結晶。数百にも及ぶ後悔の欠片が、蝋燭の光を浴びて、さながら銀河のように煌めく。リツはその中心に立ち、深く息を吸った。

彼は、これまで自分が知り得た音の記憶を頼りに、忘れ音を時系列順に並べ替えた。少女の囁きから始まり、恋の喜び、結婚の誓い、子の誕生を思わせる祝福の鐘の音。そして、次第に不穏な影が差し、悲しみと絶望の音が続く。まるで一人の女性の人生を綴った交響曲だ。

リツは、禁じられた行為に手を染めた。特殊な音叉を床に突き立て、すべての忘れ音を同時に共鳴させたのだ。

その瞬間、世界から音が消えた。そして次の刹那、無数の後悔が、一つの「和音」となって爆発した。

ヴァイオリンの慟哭、ガラスの悲鳴、鉄琴の寂寥、教会の鐘の懺悔――。あらゆる音が洪水となってリツに襲いかかる。それは、ただの不協和音ではなかった。あまりにも悲しく、あまりにも美しく、あまりにも愛に満ちた、魂の叫びそのものだった。

リツは耳を塞ぎ、その場に崩れ落ちた。だが、音は彼の内側から直接鳴り響く。そして、その壮絶な和音の中心で、彼は聴いた。忘れるはずのない、しかし完全に記憶から消え去っていた音を。

―――幼い自分が、必死に鍵盤を叩くピアノの音。

そうだ。自分は、ピアニストだった母を持つ子供だった。母は天才だった。自分も母のようになりたかった。だが、才能は残酷なまでに違っていた。コンクールの日、嫉妬に狂った幼いリツは、母が弾くはずだった協奏曲の楽譜を、本番直前に隠してしまったのだ。

舞台で立ち尽くし、うなだれる母の姿。聴衆の嘲笑。父の怒声。そのすべてが、後悔の濁流となって蘇る。

母は、その日を境に心を病み、二度とピアノを弾くことはなかった。そしてリツは、耐えきれない罪悪感に蓋をするため、自らの記憶と感情を封じ込めた。他人の後悔を消す「忘れ音の蒐集家」になったのは、自分自身の後悔から逃げるためだったのだ。

和音は、母の後悔の音だった。「息子を才能で追い詰めてしまった後悔」「あの子の心を壊してしまった後悔」「もっと愛していると伝えてあげればよかったという後悔」。そのすべてが、息子であるリツに向けられた、痛切な愛の告白だった。

老婆は、母だったのだ。彼女は、息子を罪悪感から解放するためだけに、自らの人生の記憶そのものである後悔を、一つ残らず差し出したのだった。

「ああ……あぁ……っ!」

リツの目から、何十年ぶりかの涙が熱い奔流となって溢れ出した。それは、乾ききった大地に降り注ぐ、恵みの雨のようだった。

第四章 鳴り響くは、愛の残響

記憶の嵐が過ぎ去った時、リツは狂ったように家を飛び出した。雨が降りしきる街を、息を切らして走る。目指す場所は一つしかなかった。かつて家族で暮らした、今はもう母が一人で静かに時を過ごしているはずの家だ。

ドアを叩き壊さんばかりに開けると、そこに彼女はいた。窓辺の椅子に座り、虚ろな目で外を眺めている。すべての後悔を、記憶の錨を手放した彼女は、ひどく穏やかで、そしてひどく儚げだった。リツの知る母よりもずっと年老いて、小さく見えた。

「お母さん!」

リツは叫び、その足元に崩れ落ちた。しかし、母はゆっくりと彼に視線を向けると、不思議そうに首を傾げた。

「……どなたかしら。でも、なんだか……とても懐かしい音がする方ね……。優しくて、少しだけ、悲しい音……」

後悔と共に、母は息子の記憶さえも手放してしまっていた。リツを救うために、彼女は自分自身を消したのだ。その途方もない愛の深さに、リツは声を上げて泣いた。謝罪の言葉も、感謝の言葉も、嗚咽に掻き消されてうまく出てこない。

彼は、ポケットに入れていた最後の忘れ音――あの赤黒く、禍々しく、そして誰よりも自分を愛してくれた母の、最大の痛みの結晶を、強く握りしめた。これを砕けば、母の後悔は完全に消える。しかし、それは母という人間の最後の欠片を、この世から消し去ることと同義だった。

リツは、泣きながら首を横に振った。そして、その忘れ音を大切に胸に抱いた。

もう、逃げない。消しはしない。

この痛みも、罪も、そしてこの計り知れないほどの愛も。すべて抱えて生きていく。それが、母が命を賭して教えてくれたことなのだから。

リツは立ち上がり、部屋の隅で埃を被っていたピアノの蓋を開けた。そして、震える指で鍵盤に触れる。幼い頃、母がいつも弾いてくれた、優しく穏やかな子守唄。

おぼつかない指で奏でられるメロディは、あまりにも不器用で、何度も途切れた。けれど、その一音一音には、リツのすべての想いが込められていた。後悔、贖罪、そして、決して言葉にはし尽くせない、母への愛が。

その拙いピアノの音色に、虚ろだった母の唇が、ほんの微かに綻んだように見えた。

後悔は消えない。罪が許されることもないだろう。しかし、その痛みの残響の上で、新しい愛のメロディを奏でることはできる。リツが奏でる不器用なピアノの音は、静かな部屋に、そして彼の再生した心に、いつまでも、いつまでも鳴り響いていた。

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