第一章 灰色の世界と金色の訪問者
僕、水島湊の世界は、くすんだ色でできていた。古書のインクの匂いと、静寂だけが満ちるこの「みずしま古書店」が、僕の世界のすべてだった。本棚の隙間から差し込む光が埃をきらめかせる様を眺めるのが、数少ない心安らぐ時間だった。
僕には、生まれつき奇妙な共感覚がある。人の「後悔」が、色を帯びた靄として見えるのだ。それは、その人の肩や背中に、まるで疲労のようにまとわりついている。約束を破った男のどす黒い緑。嘘をついた少女の 불안げに揺れる青。そして、何かを諦めた人々の、希望を吸い取ったような重たい灰色。街を歩けば、そんな澱んだ色の洪水に気分が悪くなる。だから僕は、この古書店の静寂の中に逃げ込んだ。人々が置いていった物語の残骸は、少なくとも色を持たなかったからだ。
その日も、僕はカウンターの奥で、値札を貼り替える単調な作業に没頭していた。カラン、とドアベルが乾いた音を立てる。入ってきたのは、小柄な老婆だった。銀色の髪を品良くまとめ、背筋をしゃんと伸ばしている。しかし、僕の目を奪ったのは、彼女の佇まいではなかった。
彼女の周りを、淡い金色の靄が、陽光のように柔らかく包んでいたのだ。
今まで僕が見てきた、どの「後悔」の色とも違っていた。それは淀みも濁りもなく、まるで春の陽だまりから生まれた光の粒子そのものだった。暖かく、穏やかで、どこか懐かしい光。僕は思わず息を呑み、貼りかけの値札を落とした。
老婆は僕の視線に気づくことなく、店内をゆっくりと見回すと、一冊の植物図鑑を手に取った。そして、満足そうに微笑むと、それを抱えてレジへと向かってきた。
「これを、お願いします」
しわがれた、しかし芯のある声だった。僕は我に返り、慌てて本を受け取る。指先が触れ合った瞬間、金色の光がわずかに強くなった気がした。
「……素敵な図鑑ですね」
我ながら、気の利かない言葉しか出てこなかった。人との会話は、いつも僕を緊張させる。相手の後悔の色が、その言葉の裏にある本心ではないかと勘ぐってしまうからだ。
「ええ。昔、主人とよく眺めたものですから」
老婆はそう言って、目を細めた。その表情は、幸福そのものに見えた。なのに、なぜ。こんなにも美しい光が、彼女の「後悔」だというのだろうか。僕の頭は混乱していた。会計を済ませ、老婆が店を出ていくと、ドアベルが再び鳴った。店内には、金色の残光が、しばし漂っているような錯覚さえ覚えた。
あの日から、僕の灰色の世界に、一つの謎が生まれた。あの金色の光は、一体何を意味するのだろうか。僕は、その答えを知りたくてたまらなくなった。
第二章 ベンチの上の陽だまり
翌日も、その次の日も、老婆は店の前を通り過ぎていった。彼女はいつも、店の向かいにある小さな公園の、一番日当たりの良いベンチに座っていた。ただ静かに、空を見上げたり、行き交う人々を眺めたりしている。そして彼女の周りには、いつもあの金色の靄が、優しく漂っているのだった。
僕は、カウンターの中から、彼女の姿を盗み見るようになった。それは、僕にとって初めての経験だった。僕はこれまで、人の「色」から目を逸らし、関わり合いになることを徹底的に避けてきた。しかし、彼女の金色だけは、なぜかずっと見ていたかった。その光は、僕が忌み嫌ってきた他の色とは違い、僕の心をざわめかせず、むしろ穏やかにしてくれた。
数日が過ぎたある午後、僕は意を決して店を出た。心臓が早鐘を打つ。他人に自分から近づくなんて、何年ぶりのことだろう。公園のベンチに座る老婆――千代さんと名乗ったのは、その数分後のことだった――の隣に、僕は恐る恐る腰を下ろした。
「……こんにちは」
「あら、古本屋さん」
千代さんは驚いた様子もなく、にこりと微笑んだ。その笑顔は、彼女を包む光と同じくらい温かかった。
「いつも、ここにおられるのですね」
「ええ。ここはね、主人との待ち合わせ場所だったんです。もう、五十年も昔の話ですけど」
千代さんは、懐かしむように公園の景色に目をやった。亡き夫との思い出を語る彼女の声は、慈しみに満ちていた。若い頃のデートの話、喧嘩した話、プロポーズの言葉。そのどれもが、色鮮やかな情景として僕の頭に浮かんだ。彼女は本当に幸せだったのだと、話を聞いているだけで伝わってくる。
だが、金色の靄は消えなかった。むしろ、彼女が夫の話をするたびに、その輝きは増していくように見えた。僕の混乱は深まるばかりだった。これほどの愛情に満ちた思い出を持つ彼女が、一体何を後悔しているというのか。
「あなたの周りには、いつも綺麗な光がありますね」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。言ってしまってから、しまった、と後悔したが、もう遅い。
千代さんはきょとんと目を丸くしたが、すぐに悪戯っぽく笑った。「あら、嬉しいことを言ってくださる。あなたには、そう見えるのかしら」彼女は僕の能力を不思議がるでもなく、ただその言葉を素直に受け止めてくれた。その反応に、僕は少しだけ救われた気がした。
それから、千代さんとベンチで話すのが僕のささやかな日課になった。彼女は僕の拙い相槌に耳を傾け、古書の話を興味深そうに聞いてくれた。彼女と過ごす時間だけは、僕の世界から灰色が消え、温かい金色に満たされるようだった。人付き合いを呪いのように感じていた僕の心が、少しずつ、本当に少しずつ、解きほぐされていくのを感じていた。
第三章 解き明かされる色の意味
その日、千代さんは公園に現れなかった。いつもの時間が過ぎても、ベンチは空いたままだ。胸に言いようのない不安が広がる。翌日も、彼女の姿はなかった。僕の心は、再び重たい灰色に沈みかけていた。
三日目の午後、店のドアベルが鳴った。そこに立っていたのは、見知らぬ若い女性だった。彼女は僕を見ると、深々と頭を下げた。
「祖母が、いつもお世話になっております。千代の孫です」
彼女の言葉に、僕はすべてを察した。彼女の肩には、深い悲しみを示す濃紺の靄が漂っていた。
病院の白い廊下を、僕は千代さんの孫に連れられて歩いていた。彼女の話によると、千代さんは公園で倒れ、そのまま入院したのだという。病状は、芳しくないらしかった。
「祖母、公園で倒れる前に、あなたの古本屋さんに寄りたがっていたみたいなんです。『あそこの若いご主人に、お礼が言いたい』って」
「お礼……?」
「はい。あなたと話すようになってから、祖母、とても楽しそうでしたから。……実は、祖父が亡くなってから、ずっと塞ぎ込んでいたんです」
孫娘は、ぽつりぽつりと語り始めた。千代さんの夫は、昔気質の、非常に無口な人だったそうだ。愛情表現などほとんどせず、感謝の言葉もめったに口にしなかった。千代さん自身も、そんな夫に合わせてか、照れくさくて素直な気持ちを言葉にすることが、あまりできなかったらしい。
「『もっと、ありがとうって言っておけばよかった。大好きだって、毎日伝えてあげればよかった』。それが、祖母の口癖でした。きっと、それが唯一の心残りだったんだと思います」
その言葉が、雷のように僕の脳天を貫いた。
心残り。後悔。
そうだ、僕が見ていたのは「後悔」の色だ。しかし、それは一つの側面でしかなかったのだ。千代さんの金色の靄。それは、夫への伝えられなかった膨大な「感謝」と「愛情」が、形になったものだったのだ。
僕が見ていた「色」は、単なるネガティブな後悔ではなかった。それは、伝えられなかった想い、届けたかった言葉、そのものだったのだ。約束を破った後悔は、「ごめんなさい」という言葉の色。嘘をついた後悔は、「本当は」という言葉の色。そして、千代さんの金色は、数え切れないほどの「ありがとう」と「愛している」という言葉の色だったのだ。
僕の世界が、根底から覆った。僕が今まで呪わしいと目を背けてきた街の色の洪水は、人々の声にならない想いの奔流だったのだ。なんと僕は、愚かだったのだろう。僕は、世界で最も美しいものから、ずっと逃げ続けていたのだ。
病室のドアの前で立ち尽くす僕の頬を、熱いものが伝っていった。
第四章 声にならなかった言葉たち
僕は古書店に駆け戻ると、本棚の間を夢中で探し回った。千代さんが夫と出会ったという、五十年前。その頃に出版された一冊の古い詩集を見つけ出した。装丁は擦り切れ、ページは黄ばんでいたが、そこに綴られた言葉は、今も色褪せていなかった。
翌日、僕はその詩集を抱えて、再び千代さんの病室を訪れた。ベッドの上で静かに眠る彼女は、以前よりもずっと小さく見えた。しかし、彼女を包む金色の光は、その命の灯火を燃やすかのように、以前よりも強く、気高く輝いていた。
僕は枕元に椅子を寄せると、震える声で、詩集のページをめくった。
「千代さん。聞こえますか」
ゆっくりと、一編の詩を読み始めた。愛を囁く、素朴で優しい言葉の連なり。読み終える頃、千代さんの瞼が、かすかに動いた。
僕は詩集を閉じ、彼女の手をそっと握った。そして、僕の人生で最も勇気のいる告白をした。
「僕には、人の伝えられなかった想いが、色として見えるんです。馬鹿げた話ですよね。ずっと、それは嫌なものだと思っていました。でも、あなたに出会って、間違いだと気づきました」
僕は、彼女を包む金色の光を見つめた。
「あなたの金色は、僕が見た中で一番美しい色です。それは、ご主人への、たくさんの、たくさんの『ありがとう』の色なんですね。あなたの想いは、ちゃんとここにあります。こんなにも美しく、輝いています」
僕の言葉を聞いて、千代さんの目尻から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。そして、彼女は、本当に穏やかな、満ち足りた微笑みを浮かべた。その瞬間、奇跡が起きた。
彼女を包んでいた金色の靄が、ふわりと宙に舞い上がったのだ。それは無数の光の粒子となって、病室の窓から差し込む午後の光に溶け込み、きらきらと輝きながら消えていった。まるで、長い旅を終えた想いが、ようやくあるべき場所へ還っていくかのように。
数日後、千代さんは、眠るように安らかに旅立った。
あの日から、僕の世界は一変した。僕は古書店のカウンターから出て、再び街を歩くようになった。行き交う人々を包む、様々な色。以前は目を背けていたその光景が、今ではどうしようもなく愛おしい。
あの色は、言えなかった「ごめんね」。この色は、届けたかった「おめでとう」。世界は、声にならない想いの言葉で、こんなにも豊かに彩られていたのだ。
僕の能力は、呪いではなかった。それは、この世界の静かな愛と痛みを、そっと受け止めるための祝福だったのかもしれない。僕は空を見上げる。そこには、千代さんの残していった金色の光にも似た、優しい太陽が輝いていた。僕はその光に向かって、小さく、しかし確かな一歩を踏み出した。