第一章 ファインダー越しの残像
僕、水瀬湊にとって、この丘の上にある霧ヶ峰学園は巨大なガラスケースのようなものだった。誰もが刹那的な輝きを放ち、そしていずれは忘れ去られていく蝶の標本。だから僕は、誰とも深く関わろうとしなかった。冷笑的だったわけじゃない。ただ、どうしようもなく臆病なだけだ。
写真部に所属しているのも、それが理由だった。ファインダーという四角い窓を通せば、喧騒も、熱気も、他人の感情も、どこか遠い世界の出来事のように感じられる。僕は被写体との間に一枚のレンズという壁を置くことで、世界との安全な距離を保っていた。
その日も、僕は放課後の校舎の屋上から、グラウンドの喧騒を切り取っていた。カシャリ、と乾いたシャッター音が響く。夕陽が長く伸ばした影が、生徒たちの輪郭をドラマチックに縁取っていく。そんなありふれた光景の中に、ふと、違和感が紛れ込んだ。
ファインダーの隅、普段は誰もいない旧校舎の渡り廊下に、誰かが佇んでいる。レンズをズームさせると、それが写真部の部長、橘詩織先輩だとわかった。三年生の彼女は、僕をこの部に引きずり込んだ張本人だ。いつも太陽みたいに笑って、その屈託のなさが、僕のような日陰の人間には少しだけ眩しすぎた。
だが、ファインダー越しの彼女は笑っていなかった。夕陽を浴びて煌めく長い髪を風になびかせ、じっと校庭を見下ろしている。その横顔に、一筋の光が流れた。涙だった。彼女が泣いている。僕が知る限り、初めて見る彼女の涙だった。
なぜ、泣いているんだろう。シャッターを切る指が止まる。その瞬間、背後から声をかけられた。
「撮らないのか? 今の先輩、すごく綺麗だぞ」
同じく二年生の、友人と呼ぶには少し距離のあるクラスメイトだった。
「……別に」
僕は素っ気なく答えてカメラを下ろした。彼は僕の隣に立つと、どこか諦めたような声で呟いた。
「まあ、もうすぐだからな。先輩たちも、感傷的になる時期なんだろ」
「もうすぐ?」
「卒業式だよ。知らないのか? この学園の『忘却の儀式』」
彼の口から出た言葉は、僕がこの学園に入学してから何度も耳にしてきた、まるで都市伝説のような噂だった。卒業式が終わると、在校生は卒業生に関する記憶を一切失うのだ、と。
「先輩たちの顔も、名前も、交わした言葉も、全部消える。だから、別れは悲しくない。だって、忘れてしまうんだから」
彼はそう言って笑った。それがこの学園の優しさなのだとでも言うように。僕は何も言えなかった。ただ、さっきまでファインダー越しに見ていた、涙に濡れた先輩の横顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。忘れられるから、悲しくない? 本当に、そうなのだろうか。
第二章 積み重なる光の粒
あの日以来、僕は無意識に詩織先輩の姿をレンズで追うようになった。彼女はすぐにいつもの太陽のような笑顔を取り戻し、後輩の僕たちを指導したり、卒業制作の準備に追われたりしていた。けれど、時折見せる遠い目や、ふとした瞬間の憂いを帯びた表情を、僕のレンズは見逃さなかった。
「湊くんは、どうして写真を撮るの?」
ある日の放課後、暗室で作業をしていると、赤いセーフライトの光の中で先輩が不意に尋ねてきた。現像液の甘ったるい匂いが鼻をつく。
「……記録するため、ですかね。そこにあった、という証拠を残すために」
我ながら、つまらない答えだと思った。だが、先輩は意外そうに目を丸くした。
「証拠? ふふ、湊くんらしいね。私はね、忘れないために撮るんだよ」
「忘れないため……」
「そう。楽しかったことも、悲しかったことも、いつかは記憶の中で色褪せていっちゃうでしょ? でも、写真があれば、その一瞬の感情を何度でも思い出せる。光の粒をフィルムに焼き付けて、未来の自分に届ける手紙みたいなものかな」
セーフライトの赤い光が、彼女の横顔を幻想的に照らし出す。その言葉は、僕の心の奥深くに、静かに染み込んでいった。
それから僕たちは、二人で写真を撮りに行く時間が増えた。校舎裏の猫だまり、夕暮れの図書室、誰もいない音楽室のピアノ。先輩は、ありふれた学園の風景に隠された美しい一瞬を見つけ出す天才だった。彼女の隣でシャッターを切る時間は、僕にとって今まで感じたことのない種類の幸福感に満ちていた。
「この光、綺麗だね」「あ、今の表情、すごくいいよ!」
彼女が僕に向ける笑顔、僕を呼ぶ声、風に揺れる髪の匂い。五感の全てが、彼女という存在を記憶に刻みつけようとしているのがわかった。
忘却の儀式なんて、ただの噂だと思いたかった。こんなにも鮮やかな感情が、温かい時間が、跡形もなく消えてしまうなんて信じられるはずがなかった。けれど、卒業式の日が一日、また一日と近づくにつれて、僕の胸を締め付ける不安は現実味を帯びていく。
もし本当に記憶が消えるなら、この気持ちはどうなるんだ? 詩織先輩を大切に思うこの心も、一緒に過ごした時間も、全てが「なかったこと」になるのか?
僕は初めて、失うことを恐れていた。ガラスケースの向こう側から、ただ眺めているだけではいられなくなっていた。
第三章 忘却のレクイエム
卒業式前日。最後の部活動を終え、誰もいなくなった部室で、僕は詩織先輩と二人きりになった。壁には、僕たちが撮った写真がたくさん貼られている。その一枚一枚が、かけがえのない時間の証明だった。
「先輩」
僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「僕は、先輩のことを忘れたくありません」
絞り出した言葉は、決意であり、祈りだった。この理不尽な校則に対する、僕なりの精一杯の抵抗。先輩は驚いたように僕を見つめ、それから、とても悲しそうに微笑んだ。
「……ありがとう、湊くん。そう言ってもらえて、すごく嬉しい」
彼女のその表情に、僕は嫌な予感を覚えた。
「でもね、ダメなんだ」
「どうしてですか! ただの噂じゃないですか! みんなが信じてるだけの、馬鹿げた……」
「噂じゃないよ」
先輩は静かに僕の言葉を遮った。
「それにね、湊くんは勘違いしてる。忘れるのは、在校生だけじゃないんだ」
「……え?」
予期せぬ言葉に、思考が停止する。先輩は、窓の外に広がる夕暮れの空を見つめながら、静かに語り始めた。
「卒業生も、この学園での三年間に関する全ての記憶を失うの。友達のことも、先生のことも、楽しかった文化祭も、辛かった試験も……全部。真っ白になって、ここから巣立っていく」
それが、この霧ヶ峰学園の創設者が、愛する人を失った深い悲しみから定めた、呪いであり、そして祝福なのだと。過去の苦しみに縛られず、誰もが新しい未来へ歩き出せるように。在校生が卒業生を忘れるのは、旅立つ者が後ろ髪を引かれないようにするための、学園全体で行う、最大の「優しさ」だったのだ。
「だからね、湊くんが『忘れたくない』って言ってくれるのは、私をこの場所に縛り付けることになっちゃうんだよ」
先輩は、泣きそうな顔で笑った。
「ごめんね。残酷なことを言って」
全身の力が抜けていくようだった。僕の願いは、ただの自己満足だったのか。彼女のためを思うなら、僕は静かに彼女を忘れ、そして彼女に忘れられるべきなのだ。僕が必死で残そうとしていた「証拠」は、彼女が未来へ羽ばたくための足枷でしかなかった。
絶望が、冷たい水のように心を満たしていく。どうすればいい。どうすることが、彼女にとっての本当の優しさなんだろう。答えなんて、どこにも見つからなかった。
第四章 名前を忘れた君へ
卒業式の朝は、憎らしいほど穏やかな晴天だった。僕はカメラを首から下げ、式の行われる体育館には向かわず、校門が見える丘の上に立っていた。僕にできることは、もう一つしかない。
式が終わり、在校生と卒業生が入り乱れる喧騒の中、詩織先輩が一人で校門に向かってくるのが見えた。僕は息を殺し、ファインダーを覗く。これが、僕が彼女を認識できる最後の時間だ。
彼女が校門のアーチをくぐる、まさにその瞬間。
別れを惜しむように、一度だけ、ふわりとこちらを振り返った。僕の存在に気づいたのか、それともただの偶然か。わからない。でも、僕には彼女が、僕だけに微笑みかけてくれたように見えた。
カシャッ――。
僕のカメラ人生で、最高のシャッター音だった。
その直後、奇妙な感覚が僕を襲った。頭の中に立ち込めていた濃い霧が、すぅっと晴れていくような。いや、逆だ。今まで鮮明だった何かが、水に溶けたインクのように急速に滲み、薄れていく。
橘詩織。
その名前が、意味をなさなくなっていく。太陽のような笑顔。暗室で交わした言葉。一緒に見た夕焼け。それら全てが、美しい残像となって遠ざかっていく。悲しい、という感情すら、その対象を失って宙に浮いていた。
気づけば、僕は丘の上に一人で立ち尽くしていた。どうしてここにいるんだろう。胸の中に、ぽっかりと穴が空いたような、温かいような、不思議な喪失感だけが漂っている。
ふと、手にしたカメラの液晶画面に目を落とした。
そこに写っていたのは、卒業式の日に、校門の前で振り返って微笑む、知らない少女の姿だった。
彼女が誰なのか、思い出せない。
どんな声で話すのか、知らない。
なぜ僕が彼女の写真を撮ったのかも、わからない。
けれど、その写真を見るたびに、胸の奥が、きゅっと締め付けられるように切なくなり、そして同時に、陽だまりに包まれたような温かい気持ちになることだけは、確かだった。
僕はその写真を一枚だけプリントアウトして、写真部の部室の壁に貼った。誰かが「この子、誰?」と尋ねても、僕は「さあ、知らない」としか答えられないだろう。
記憶は消えた。彼女との時間は、僕の世界から完全に失われた。でも、この一枚の写真と、胸に残る名もなき温もりは、僕が確かに誰かと出会い、心を交わした証拠なのだ。
失うことを恐れて、世界との間に壁を作っていた僕はもういない。たとえ全てが消え去る運命だとしても、その一瞬一瞬を大切に刻みつけたい。忘れてしまう未来のために、今の輝きから目をそらすなんて、もうしない。
ファインダー越しではない、僕自身の目で、新しい世界を見つめよう。いつかまた、この写真の少女のように、僕の心を温めてくれる誰かと出会うために。空っぽになった胸の温もりだけを道しるべに、僕は僕の時間を歩き始めた。