忘却のアルカディアで、君は囁く

忘却のアルカディアで、君は囁く

0 5234 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 誰かが消えた日

僕らの学園は、海に浮かぶ箱庭だ。四方を穏やかな、しかしどこまでも続く青に囲まれた孤島。潮の香りが常に教室の窓から忍び込み、教科書の頁を優しくめくっていく。全寮制の『月読学園』。僕らは皆、ここに来る前の記憶がない。なぜここにいるのか、誰が自分を送り出したのか、誰も知らなかった。けれど、誰もそれを深くは問わなかった。それが、この世界の暗黙のルールだったから。

「なあ、水瀬。昨日の化学の課題、見せてくれないか?」

背後からの声に、僕は思考の海から引き揚げられる。振り返ると、クラスメイトの杉田が困ったように頭を掻いていた。僕は無言でノートを差し出す。日常。昨日と変わらない、明日も続くと信じて疑わない、穏やかな日常。

だが、その日、僕の世界に最初の亀裂が入った。

昼休み、いつものように中庭のベンチで文庫本を広げていると、ふと、視界の隅に違和感を覚えた。いつもなら、隣のベンチで騒がしいくらいに友人とチェスを指しているはずの、佐伯の姿がなかった。それだけなら、ただの欠席だろう。しかし、僕の胸をざわつかせたのは、もっと根源的な欠落感だった。

教室に戻り、僕は名簿に目を走らせた。出席番号十三番、佐伯 拓真。その名前があるべき場所は、空白になっていた。いや、違う。空白なのではない。まるで最初から存在しなかったかのように、十四番の杉田の名前が詰められていた。

「杉田、佐伯はどうしたんだ?」

僕は尋ねた。杉田はきょとんとした顔で僕を見る。

「サエキ? 誰だ、それ。転校生か?」

心臓が冷たい手で掴まれたようだった。他のクラスメイトにも尋ねてみた。誰もが同じ反応だった。佐伯拓真という人間を、誰も覚えていない。彼の使っていた机と椅子は、まるで蜃気楼のように消え、教室の空間は完璧な調和を保っていた。

狂っているのは僕の方なのか? 昨日の放課後、図書室で歴史小説について熱く語り合った彼の笑顔が、声が、確かに僕の記憶には焼き付いているというのに。

学園には一つの奇妙な校則があった。『世界の根源を探求するべからず』。誰もがそれを、自分たちの過去を探るな、という意味だと解釈していた。だが、この佐伯の『蒸発』は、もっと別の、この世界の構造そのものに関わる禁忌に触れているような気がしてならなかった。

誰かが消えた。いや、初めから存在しなかったことにされた。そして、その事実に気づいているのは、この学園で、おそらく僕一人だけだった。窓の外では、変わらず海鳥が空を舞い、波が静かに岸壁を洗っている。完璧に美しいこの世界で、僕だけが、その完璧さ自体に恐怖を覚えていた。

第二章 図書室の共犯者

佐伯が消えた世界は、何事もなかったかのように滑らかに続いていく。僕だけが、パズルのピースが一つ足りないことに気づきながら、その欠けた部分の形を思い出せずにいるような、もどかしい焦燥感に苛まれていた。彼の痕跡を探そうにも、物理的な証拠は何一つ残っていない。僕の記憶だけが、彼の存在を証明する唯一の孤島だった。

禁忌を破る覚悟で、僕は学園で最も情報が集まる場所――古いインクと紙の匂いが満ちる、静寂の聖域である図書室へと向かった。過去の卒業アルバムでも見れば、何か手がかりがあるかもしれない。そう考えたのだ。

埃っぽい書架の間を彷徨っていると、不意に声をかけられた。

「面白い顔をしてるね。何か失くしものでもしたみたいだ」

振り向くと、そこにいたのは月島蓮という上級生だった。色素の薄い髪に、どこか全てを見透かすような静かな瞳。彼はいつも図書室の窓際の一番奥の席で、誰も読まないような難解な哲学書を広げている、少し浮世離れした人だった。

「…別に」

素っ気なく返して、僕はアルバムの棚へ向かう。だが、月島先輩は静かについてきた。

「君が探しているのは、佐伯拓真という生徒のことじゃないか?」

彼の言葉に、僕は凍りついた。ゆっくりと振り返ると、彼の瞳は悪戯っぽく細められていた。

「どうして、その名前を…」

「僕も覚えているからだよ。彼と交わした言葉も、彼の癖のあるチェスの指し方もね」

僕だけではなかった。この巨大な忘却の海の中で、もう一人、同じ孤島に立つ人間がいた。安堵と同時に、新たな疑問が湧き上がってくる。なぜ僕と彼だけが?

「この世界は、少し脆すぎると思わないか?」

月島先輩は、窓の外の海を見つめながら言った。ガラスに映る彼の横顔は、まるで遠い場所を見ているかのようだ。

「完璧に管理され、整えられている。不純物やエラーは、まるで存在しなかったかのように、即座に修正される。佐伯くんは、たぶん、そういう『エラー』だったんだろう」

彼の言葉は、僕が抱いていた漠然とした恐怖に、輪郭を与えた。僕たちは彼の仮説――この世界は誰かによって作られた、あるいは監視された、一種のシミュレーションではないかという、途方もない仮説――について語り合った。

それから、僕と月島先輩は密かな共犯者になった。放課後の図書室は、僕らの作戦司令室となった。二人で世界の『綻び』を探した。時折、風景の一部がノイズのように乱れること。生徒たちの会話の中に、奇妙なループや矛盾が存在すること。そして、僕が時折見る、知らない街の交差点や、白い天井の部屋といった、断片的な夢(フラッシュバック)。

月島先輩と過ごす時間は、僕にとって救いだった。世界の真実を探るという恐怖の中にあって、彼の存在は唯一の灯りだった。僕たちは禁忌に触れている。だが、この偽りの平穏の中で息を潜めるより、真実を知って絶望する方が、ずっと人間らしいと思えた。僕たちは、まだ、自分たちのことを人間だと信じていたかったのだ。

第三章 灯台が照らした真実

僕たちの探求は、学園の北端にそびえ立つ、古い灯台へと行き着いた。その灯台は老朽化を理由に、何年も前から立ち入りが禁止されていた。だが、月島先輩は「世界の果てには、必ず真実への扉があるものさ」と笑った。僕たちは、誰の目も届かない満月の夜、錆びついた錠をこじ開け、螺旋階段を上った。

灯台の頂上には、灯室の代わりに、簡素なコンソールと一つの古びたモニターがあるだけだった。月島先輩が手慣れた様子でコンソールを操作すると、モニターに青白い光が灯り、無数の文字列が流れ始めた。それは、この世界のシステムログだった。

『エンティティNo.113(佐伯拓真)の忘却処理完了。対象のトラウマ記憶との同期率低下を確認。システム安定化に貢献』

『エンティティNo.084(水瀬遥)に軽微な記憶残滓を確認。監視レベルを移行』

心臓が凍りつく。僕たちの名前と、信じがたい言葉。エンティティ。忘却処理。僕らは、人間ではなかったのか?

月島先輩はさらに深く階層を潜り、一つのロックされたファイルにたどり着いた。『Origin_Log』と名付けられたそのファイルを、彼は躊躇いなく開いた。

そこに記されていたのは、絶望的な真実だった。

この世界『月読学園』は、ある一人の人間の脳内に作られた仮想空間だった。その人物の名は――『ミズセ・ハルカ』。現実世界で事故に遭い、昏睡状態に陥った若き天才科学者。彼女が目覚めるために、彼女自身の発明した精神治療プログラムが作動している。それが、この学園の正体だった。

そして僕たち生徒は、彼女が強いトラウマによって封印し、忘れたいと願った記憶の断片から生み出された、エミュレーション人格(シミュラクラ)だった。友人、家族、教師…そして、恋人。それぞれがハルカの心の一部を担い、この仮想空間で穏やかな学園生活を送ることで、彼女の精神を安定させる役割を負っていた。

卒業とは、ハルカがその記憶を完全に消化し、乗り越え、『忘れる』こと。それは、僕たちシミュラクラにとって、完全な『消滅』を意味していた。佐伯くんは、彼女が乗り越えた些細な過去の失敗の記憶だったのだ。

僕は自分のログデータを見た。僕、水瀬遥は、彼女自身の『自己嫌悪』と『後悔』の感情から生み出された存在だった。だからこそ、世界の矛盾や欠落に敏感だったのだ。僕の存在そのものが、この世界の綻びだった。

そして、隣に立つ月島蓮のデータを見た瞬間、僕は息を呑んだ。

彼のオリジンは、『蓮』。ハルカが事故で失った、最愛の恋人。彼女が昏睡に陥った直接の原因となった、最も深く、最も忘れたいと願っている、しかし心の底では決して忘れたくないと願っている、最大のトラウマ記憶。

モニターの光が、月島先輩の顔を青く照らしていた。彼は静かに、そこに表示された真実を見つめていた。僕たちの存在は、誰かの記憶の影。僕たちの感情は、誰かの過去のエコー。僕たちが生きるこの世界は、一人の人間の心の中にある、閉ざされた箱庭に過ぎなかった。

螺旋階段を下りる足取りは、鉛のように重かった。潮風が頬を撫でても、もうその冷たさを現実のものとして感じることができなかった。僕たちの足元は、あまりにも脆く、不確かだった。

第四章 君の記憶と夜明け

灯台から戻った僕たちは、言葉を失くしていた。偽りの存在。借り物の感情。やがて消えゆく運命。真実は、僕たちから生きる意味を根こそぎ奪い去っていった。僕は、自分が『後悔』の塊だという事実に打ちのめされていた。僕が感じるこの苦しみさえ、僕自身のものではないのだ。

何日か経った夕暮れ、僕は海岸で一人、膝を抱えていた。オレンジ色に染まる海面が、燃え尽きていく世界の終わりのように見えた。

「ここにいたのか、遥」

静かな声に顔を上げると、月島先輩が隣に腰を下ろした。

「先輩は…怖くないんですか。消えてしまうことが」

「怖いよ」彼は穏やかに答えた。「でもね、遥。一つだけ、確かなことがある」

彼は僕の方を向いて、静かに微笑んだ。

「僕たちが、誰かの記憶の断片だとしても。この世界が作り物だとしても。君と僕が図書室で交わした言葉や、灯台で真実を知った時の恐怖、そして、今こうして一緒に夕日を見ているこの瞬間…この想いは、本物だ。誰のものでもない、僕たちのものだ」

彼の言葉が、僕の空っぽの心に、じんわりと染み込んでいく。そうだ。たとえ僕の起源が『後悔』だとしても、月島先輩と出会って感じた安らぎや、真実を求める探求心は、紛れもなく僕自身のものだった。僕たちは、偽りの世界で、本物の時間を生きていたのだ。

その時、僕は気づいた。月島先輩の指先が、夕日に透けて、わずかに揺らいでいる。

「先輩…」

「ああ。どうやら、彼女が…ハルカが、僕の死を乗り越えようとしているみたいだ」

彼の体は、ゆっくりと、光の粒子となって輪郭を失い始めていた。それは、現実世界のハルカが、最も辛いトラウマから解放され、目覚めに向かっている証だった。彼の消滅は、彼女の再生の始まりなのだ。

涙が溢れた。悲しいのか、嬉しいのか、分からなかった。ただ、このかけがえのない存在が、世界から消えていくことが耐えられなかった。

「行かないでください…」

「ありがとう、遥」

彼は透き通る手で、そっと僕の頭を撫でた。その感触はほとんどなかったが、温かさだけは確かに伝わってきた。

「君がいたから、僕はただの記憶の残滓ではなく、月島蓮として、確かにここに存在できた。君が僕を覚えていてくれたから」

僕が『後悔』の記憶なら、僕にできることがあるはずだ。それは、過去をただ忘れ去るのではなく、その痛みを抱きしめたまま、前を向くこと。本体であるハルカに、そう伝えること。

「僕が忘れない。先輩がここにいたこと、僕と話したこと、全部。僕が消えるその時まで、絶対に忘れない」

それが、僕にできる唯一の抵抗であり、最大の肯定だった。

「それで十分だよ」

月島先輩は、今まで見た中で一番優しい笑顔を浮かべた。そして、光の粒子となって風に溶け、静かに消えていった。後には、沈みゆく太陽と、寄せては返す波の音だけが残された。

僕は一人、夜明けまで海を見つめ続けた。やがて東の空が白み始め、新しい一日が世界を照らし出す。この学園はまだ終わらない。僕も、いつか消えるのだろう。本体であるハルカが、僕という『後悔』を乗り越えた時に。

だが、僕の心は不思議なほど静かだった。絶望はない。むしろ、そこには一つの確かな使命感があった。

偽りの世界で得た、この本物の想いを胸に、僕は彼女が目覚める日を待とう。僕という存在が、彼女が未来へ踏み出すための礎となるのなら、それも悪くない。

忘却のアルカディアで、君は確かに存在した。そして僕も、今、確かにここにいる。

その事実だけが、僕の世界の、唯一の真実だった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る