第一章 完璧な世界の不協和音
水島湊(みなしまみなと)の朝は、完璧な調和から始まる。磨き上げられた革靴、寸分の狂いもなく結ばれたネクタイ、誰に対しても用意された、非の打ち所のない笑顔。影見ヶ丘学園において、彼は模範的な生徒そのものだった。成績は常にトップクラス、運動神経も抜群、生徒会の役員も務め、その人当たりの良さから彼を慕う者は後を絶たない。湊自身、その完璧な自分を演じることに、一種の陶酔すら覚えていた。
だが、この学園には、すべての生徒に課せられた奇妙な日課が存在する。一日の終わり、夕陽が教室を茜色に染め上げる頃に訪れる「影見(かげみ)」の時間。生徒たちは皆、自らの足元に伸びる影と、静かに対話することが義務付けられているのだ。それは、多感な時期の自己と向き合い、精神の安定を図るための教育プログラムだと説明されていた。
湊にとって、この時間だけは耐えがたい苦痛だった。
「よぉ、今日も一日、ご立派な偽善者様だったな」
床に長く伸びた、輪郭のぼやけた人型の影が、嘲るような声で囁きかける。それは湊自身の声でありながら、彼が心の奥底に沈殿させている皮肉と冷笑を煮詰めたような、不快な響きを持っていた。
「黙れ。お前は俺の一部なんかじゃない」湊は誰にも聞こえない声で、心の中で応じる。
「一部さ。それも、お前が必死で隠してる、一番正直な部分だ。本当は誰も信じてないくせに。本当は孤独でたまらないくせに」
影の言葉は、鋭利な刃物のように湊の心を抉る。だから彼は、影の言葉に耳を貸さないよう、思考に分厚い壁を築いていた。完璧な水島湊を維持するためには、この饒舌で忌まわしい影は、存在しないものとして扱うしかなかった。
その日も、湊は影の独白を無視し、無事に「影見」の時間をやり過ごせるはずだった。しかし、事件は前触れもなく起きた。
教室の後ろの席で、いつも本の世界に閉じこもっている少女、天野陽菜(あまのひな)。彼女の足元から伸びる影が、突如として脈動を始めたのだ。それはまるで、墨汁を撒き散らしたように黒さを増し、不定形に膨張していく。教室の空気が、シンと冷たく張り詰めた。生徒たちの視線が、その異様な光景に釘付けになる。
陽菜の影は、意思を持った生き物のように蠢き、床から壁へと這い上がった。そして、白い壁紙に、べったりと黒い染みを残した。それは、物理的な干渉。影が、現実世界に形ある痕跡を残すなど、前代未聞の出来事だった。
「きゃっ!」
誰かの悲鳴を合図に、教室はパニックに陥った。教師が駆けつけ、呆然と立ち尽くす陽菜を保健室へと連れて行く。壁に残された黒い染みは、まるで巨大な口を開けた、声なき叫びのようにも見えた。
その日から、天野陽菜は学校に来なくなった。そして湊の影は、いつもより少しだけ暗い声で、彼にこう問いかけるようになった。
「なあ、湊。あれは、お前の未来の姿かもしれないぞ」
第二章 残された黒い言葉
天野陽菜が消えてから一週間が過ぎた。学園は表向きの平穏を取り戻したが、あの日の出来事は、生徒たちの心に黒い染みのように残り続けていた。特に湊は、壁に残された陽菜の影の痕跡を見るたび、胸の奥がざわつくのを感じていた。
「どうせお前も、あの女のことなんてどうでもいいんだろ? お前の完璧な日常を乱した、ただのノイズだ」
放課後の「影見」の時間、湊の影は相変わらずだった。
「……うるさい」湊は初めて、影に小さな反論を返した。
陽菜のことが、なぜか頭から離れない。彼女はいつも一人で、分厚い本を読んでいた。誰と話すでもなく、ただ静かに世界の片隅にいるような少女。彼女の瞳には、いつも深い森のような、底知れない静寂が広がっていた。
湊は、まるで何かに導かれるように、放課後の旧図書館へ足を運んだ。陽菜がよく利用していたと、クラスメイトから聞いた場所だ。夕陽がステンドグラスを通して、埃っぽい室内に虹色の光の筋を落としている。古書の黴びた匂いが、鼻腔をくすぐった。
図書館の奥、一番陽の当たらない書架の隅に、湊はそれを見つけた。床や壁に、いくつもの小さな黒い染みが点在している。それは間違いなく、陽菜の影が残した痕跡だった。教室で見たものよりもずっと小さく、まるで涙の跡のようにも見える。
湊はそっと指で触れてみた。ひんやりとしていて、物質的な感触はない。だが、指先に、言葉にならない感情の残滓が伝わってくるような気がした。悲しみ、寂しさ、そして、誰にも届かない「助けて」という微かな声。
「可哀想な女。誰にも本音を言えず、影に心を喰わせるしかなかったんだ」
いつの間にか、湊の足元に伸びた影が、同情するでもなく、ただ事実を告げるように言った。
「心を喰わせる?」
「ああ。言葉にできない感情は、行き場を失って影に流れ込む。影はそれを養分にして、どんどん濃く、大きくなる。あの女の影は、もう限界だったんだ」
湊は息を呑んだ。陽菜がいつも抱えていた大きな本。それは、自分の感情を言葉にする代わりに、物語の世界へ逃げ込むためのシェルターだったのかもしれない。そして、言葉にできなかった想いが、彼女の影を蝕んでいたのだとしたら。
「お前も同じだ」影が静かに続けた。「その完璧な仮面の下で、どれだけの言葉を殺してきた? お前の影が、まだお喋りなだけで済んでいることに感謝するんだな」
影の言葉が、今度ばかりはただの皮肉に聞こえなかった。それは、紛れもない警告だった。湊は、自分の足元に広がる、頼りなげな影を見つめた。この黒い輪郭の内側に、自分自身が殺してきた無数の感情が、息を潜めて蠢いている。その事実に、湊は初めて恐怖を覚えた。
第三章 影喰いの真実
翌日、湊は意を決して、学園のカウンセラーであり、「影見」の指導教官でもある初老の教師、白石の元を訪ねた。陽菜のこと、そして影が現実世界に干渉したことについて、真実を知りたかった。
白石は、湊の話を静かに聞いた後、重い口を開いた。
「水島君、君がそれに気づいたのなら、話さねばなるまい。これは、この学園が隠してきた、もう一つの顔だ」
白石の話は、湊の想像を絶するものだった。
影が濃くなり、暴走するのは、自己の抑圧が限界に達した証。そして、暴走した影は、やがて本体である人間から完全に分離し、その魂を喰らい始めるのだという。その現象を、学園では密かに「影喰い」と呼んでいた。
「天野さんは今、自らの影に喰われかけている。我々も手は尽くしているが、彼女自身の心が、影との繋がりを拒絶している限り、助けることは難しい」
白石の言葉は、冷たい鉄のように湊の胸に突き刺さった。陽菜は、ただ学校を休んでいるのではなかった。彼女は、自分自身の内なる闇と、たった一人で戦っているのだ。
「なぜ、そんな危険な教育を…」湊は声を絞り出した。
「危険だからこそだ」白石は、窓の外に広がる夕暮れの空を見つめながら言った。「誰もが心に影を飼っている。それを見ないふりをして生きれば、いつか必ず影に喰われる。大人になる前に、自分の影と対話し、受け入れる術を学ぶこと。それこそが、この『影見』の本当の目的なんだよ」
そして、白石は真っ直ぐに湊の目を見据えた。
「水島君。君は、誰よりも危険な状態にある」
「……え?」
「君は、完璧な自分を演じることで、影との対話を完全に拒絶している。君の影が饒舌なのは、かろうじて自己との繋がりを保とうと、必死に君に呼びかけているからだ。だが、それも長くは続かない。このままでは君も、天野さんと同じ道を辿ることになる」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。これまで忌み嫌い、無視し続けてきたあの影こそが、自分を救おうとしていた命綱だったというのか。完璧な自分を演じることが、自分自身を殺す行為に他ならなかったのだと、湊は痛いほど理解した。足元がおぼつかなくなり、世界がぐらりと揺らぐ。守り続けてきたはずの完璧な世界が、音を立てて崩壊していく。
「どうすれば…」
「君の影と向き合うんだ。君が殺してきた、本当の君自身と」
その日の「影見」の時間、湊は初めて、自ら影に語りかけた。
「俺は、どうすればよかったんだ」
影は、いつもの嘲笑を浮かべていなかった。ただ静かに、床の上で揺れている。やがて、小さな声が返ってきた。
「お前が、お前であればよかったんだ。たった、それだけのことだ」
その声は、どこか寂しげに響いた。湊は、その声の奥に、ずっと一人で叫び続けていた、もう一人の自分の孤独な魂を感じ取った。
第四章 光を編む言葉
湊は陽菜を救うことを決意した。それは、彼女のためであると同時に、自分自身を救うための戦いでもあった。白石から陽菜の居場所を聞き出し、湊は学園の最も古い建物である時計塔の頂上へと向かった。そこは、強い精神エネルギーが渦巻く場所であり、影に喰われかけた生徒を隔離する場所なのだという。
螺旋階段を駆け上がり、たどり着いた最上階の円い部屋。窓から差し込む月光が、床の中央で倒れている人影を照らし出していた。天野陽菜だった。そして、彼女の体を覆い尽くすように、巨大な影の塊が脈動していた。それはもはや人の形をしておらず、ただただ濃密な闇そのものだった。
「……誰?」
陽菜がか細い声で呟く。彼女の瞳は虚ろで、光を失っていた。
「水島だ」湊は一歩、踏み出した。「クラスメイトの、水島湊だ」
陽菜の影が、敵意をむき出しにして蠢いた。闇の中から、無数の苦悶の声が聞こえるようだった。これまでに陽菜が飲み込んできた、言葉にならない感情の奔流だ。湊は恐怖に足が竦みそうになるのを、必死で堪えた。
自分の影に問いかける。
『どうすればいい』
足元の影が、静かに答える。
『本当の言葉を』
本当の言葉。それは、完璧な優等生である水島湊が、最も苦手とすることだった。彼はいつも、相手が求めるであろう正しい言葉を選んできた。だが、今は違う。
湊は深呼吸し、闇に向かって叫んだ。
「俺も、ずっと怖かったんだ!」
それは、飾り気のない、不器用で、ありのままの叫びだった。
「誰にも嫌われたくなくて、完璧なフリをして、ずっと一人だった! 誰かと本当は繋がりたいのに、どうすればいいか分からなくて…! 天野さん、君の気持ち、少しだけ分かる気がするんだ!」
湊の言葉に、彼の足元の影が、ふわりと応えるように輝きを放った。それは淡く、優しい光だった。彼が初めて自分の弱さを受け入れ、本音を語ったことで生まれた、魂の光。
その光は、一条の糸のように伸びていき、陽菜を覆う巨大な闇に触れた。闇がびくりと震え、一瞬だけ動きを止める。
「君は、一人じゃない」
湊は続けた。もう恐怖はなかった。自分の弱さを認め、影を受け入れた今、彼は何よりも強かった。陽菜が旧図書館に残した黒い染み、あの声なき叫びに、今こそ応えるのだ。
湊から放たれる光が、徐々に強さを増していく。それは、陽菜の巨大な影を打ち消すためのものではない。むしろ、冷たく凍てついた闇を、そっと包み込み、溶かしていくような、温かい光だった。やがて、脈動していた闇はゆっくりと収縮していき、元の少女の形の影へと戻っていく。陽菜の瞳に、微かな光が宿った。
数日後、学園には日常が戻っていた。しかし、湊の世界は、以前とは全く違う色をしていた。彼はもう、無理に笑顔を作ることはない。時にはぶっきらぼうに、時には戸惑いながら、自分の言葉で話すようになった。そんな彼を、遠巻きにする生徒もいたが、不思議と、以前よりも深く話せる友人ができた。
隣の席になった陽菜とも、少しずつ言葉を交わすようになった。彼女はまだ口数が多いわけではないが、その表情は以前よりもずっと柔らかい。
放課後、夕陽が差し込む教室で、湊は窓ガラスに映る自分を見つめた。隣には、静かに寄り添う自分の影が映っている。影はもう、皮肉な言葉を投げかけてはこない。ただ、最も信頼できる親友のように、穏やかにそこにいた。
影は、光があるからこそ存在する。そして、光の形そのものを、教えてくれる。闇を抱えていない人間などいない。大切なのは、その闇を見ないふりをするのではなく、共に歩んでいくことなのだ。湊は、自分の影に向かって、心の中でそっと微笑みかけた。それは、彼が生まれて初めて見せた、本当の笑顔だった。