虚構の栞を君に

虚構の栞を君に

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第一章 嘘のつけない僕と、物語の君

この学園、私立言ノ葉(ことのは)学園の卒業条件は、たった一つ。「最も美しい嘘」を一つ、全校生徒と教職員の前で披露すること。卒業論文と称されるその発表会は、この学園の創立以来続く、最も神聖で残酷な伝統だった。

僕は、水瀬湊(みなせみなと)。嘘が病的なまでにつけない体質だった。作為的な言葉は喉の奥で鉛のように固まり、真実でないことを口にしようとすると、世界が歪んで眩暈がする。そんな僕が、なぜこの学園に進学してしまったのか。それは、入学案内にはそんな奇妙な伝統が一言も書かれていなかったからだ。

卒業を三ヶ月後に控えた晩秋の放課後、僕は真っ白な原稿用紙を前に、図書館の片隅で頭を抱えていた。窓の外では、銀杏の葉が黄金色の涙のようにらはらと舞い落ちている。インクと古い紙の匂いが混じり合った静寂の中で、僕の焦燥だけが音を立てていた。周囲の生徒たちは、皆一様に自分の「嘘」を練り上げ、時折満足げな笑みを浮かべている。彼らのペンは滑らかに走り、虚構の世界を紙の上に築き上げていく。僕のペンだけが、一文字も動かない。

「まだ白紙なの、水瀬くん」

ふわりと、鈴を転がすような声が降ってきた。顔を上げると、そこに柊小夜(ひいらぎさよ)が立っていた。艶やかな黒髪を肩まで伸ばし、色素の薄い瞳が不思議な光を湛えている。彼女こそ、この学園で最も美しい嘘を紡ぐと噂される、物語の天才だった。去年、彼女が二年生ながら上級生の発表会に特別参加して語った『色のない街に虹を売った少年の話』は、聴衆の心を掴んで離さず、伝説として語り継がれている。

「……柊さん」

「そんなに悩むことかしら。世界は物語の種で溢れているのに」

彼女は僕の向かいの席に静かに腰を下ろすと、窓の外に視線を向けた。その横顔は、まるで精巧なガラス細工のように儚く、美しかった。

「僕には、無理なんだ。嘘が、つけない」

絞り出した声は、自分でも情けないほどか細かった。嫉妬と、ほんの少しの憧れ。彼女に対する感情は、いつも複雑に絡み合っていた。

「嘘、ね」

小夜は小さく呟くと、僕の目をじっと見つめた。吸い込まれそうな瞳だった。

「あなたの言う『嘘』と、私が紡ぐ『物語』は、きっと違うものなのよ」

彼女はそう言うと、一冊の古い本を僕の前に滑らせた。表紙にはタイトルもなく、ただ月と星の意匠が描かれているだけだった。

「もし本当に困っているなら、手伝ってあげる。放課後、屋上で待ってる」

それだけ言い残し、彼女は風のように去っていった。残されたのは、古書の微かな黴の匂いと、僕の胸に生まれた小さな、しかし確かな希望の光だった。僕はこの時、彼女が差し伸べた手の先に、自分の運命を根底から揺るがすような秘密が隠されていることなど、知る由もなかった。

第二章 真実のかけらと、願いの混ぜ方

錆びた鉄の扉を開けると、冷たい風が頬を撫でた。夕陽が空を茜色に染め上げ、学園の影を長く地上に伸ばしている。フェンスの向こう側、街の灯りが星のように瞬き始めていた。柊小夜は、フェンスに背を預けて空を見上げていた。

「来たのね」

僕の足音に気づくと、彼女はゆっくりと振り返った。夕陽を背にした彼女のシルエットは、まるで一枚の絵画のようだった。

「どうして、僕を?」

「だって、あなたの瞳はあまりにも正直だから。そんな瞳を持つ人が、どんな物語を紡ぐのか見てみたくなったの」

彼女は悪戯っぽく笑った。僕はどう返していいか分からず、ただ黙って彼女の隣に立った。

「いい、水瀬くん。物語を作るのは、難しくない。まず、世界から『真実のかけら』を一つ拾ってくるの」

小夜はそう言うと、足元に落ちていたカラスの濡れ羽を一枚拾い上げた。光の角度によって、黒一色に見える羽が、緑や紫の虹色に輝く。

「たとえば、この羽。カラスは不吉だと言われる。これは多くの人が信じている『真実のかけら』。でも、見方を変えれば、こんなに美しい色を隠している。夜空の星屑を盗んで、自分の翼に縫い付けたのかもしれない」

「……星屑を?」

「そう。そして、そのかけらに、あなたの『願い』をほんの少しだけ混ぜてあげるの。『あの真っ黒な鳥も、本当は光に憧れているのかもしれない』って。ほら、もう新しい物語の始まりよ」

彼女の言葉は魔法のようだった。僕がただの事実として見ていた世界が、彼女のフィルターを通すと、途端に色鮮やかな物語の舞台に変わっていく。

それから僕たちの奇妙な課外授業が始まった。誰もいない音楽室で、古びたピアノの鍵盤に触れながら「音になれなかった想い」の話を聞いたり。夕暮れの理科室で、アルコールランプの青い炎に「遠い星の記憶」を見出したり。小夜はいつも、ありふれた風景の中から、僕が見過ごしていた物語の種を見つけ出してくれた。

彼女と過ごす時間が増えるにつれ、僕は少しずつ変わり始めていた。嘘への嫌悪感は、物語への好奇心へと姿を変えていた。何より、僕は柊小夜という存在そのものに、強く惹かれていた。彼女の紡ぐ言葉はいつも優しく、世界を肯定していた。しかし、その瞳の奥には、時折、僕には計り知れないほどの深い孤独の色がよぎるのだった。

「柊さんは、どうしてそんなにたくさんの物語を知っているの?」

ある日、僕は尋ねた。僕たちは図書館の特別書庫、誰にも知られていない隠し部屋のような場所で、埃をかぶった書物を眺めていた。

「……私は、物語だから」

彼女はぽつりと、しかしはっきりとした口調で言った。

「物語だから、物語を生み出すの。それ以外の生き方を知らないから」

その時の彼女の横顔は、今まで見たどんな顔よりも寂しげで、僕はそれ以上何も聞くことができなかった。

第三章 図書室のゴースト

卒業論文の提出期限が一週間後に迫っていた。僕は、僕自身の物語を書き始めていた。それは、嘘のつけない少年が、物語を紡ぐ少女と出会い、世界の美しさを知るという、僕と小夜の物語だった。もちろん、そのままではただの事実の羅列だ。僕は小夜に教わった通り、そこに僕の「願い」を混ぜ込んだ。少女が実は、言葉を失った人魚姫だった、というささやかな「嘘」を。

物語は、自分でも驚くほどスムーズに進んだ。小夜に読ませると、彼女は「素敵ね。あなたの言葉は、とても優しい」と微笑んでくれた。その笑顔だけで、僕は報われた気がした。

しかし、僕の心には一つの疑問がずっと燻っていた。小夜が言った「私は、物語だから」という言葉の意味。そして、彼女の経歴について、クラス名簿にも、生徒会の記録にも、どこにもその名前が見当たらないこと。まるで彼女だけが、この学園のシステムから独立した存在であるかのようだった。

その答えは、思いがけない場所で見つかった。学園の創立記念資料を探しに、普段は立ち入ることのできない図書館の地下書庫に忍び込んだ夜のことだった。古びた木箱の中に、卒業生たちの残した文集やアルバムが乱雑に詰め込まれていた。その中の一冊、十年も前の卒業アルバムに、僕は釘付けになった。

そこに、彼女がいた。

僕が知っている柊小夜と瓜二つの少女が、クラスメイトたちと微笑んでいた。名前も同じ、「柊小夜」。しかし、その写真の横には、小さな黒いリボンが付されていた。そして、その下に添えられた短い追悼文。

『柊小夜さん(享年17歳)。在学中、不慮の事故により逝去。彼女が卒業式で語るはずだった「最も美しい嘘」は、永遠に失われました。彼女の物語を、私たちは決して忘れない』

全身の血が凍りつく感覚。手からアルバムが滑り落ち、乾いた音を立てた。僕が話していた彼女は、誰だ? 僕に物語の紡ぎ方を教えてくれたあの少女は、一体何だったんだ?

僕は震える手で、書庫の奥に保管されていた過去の学園新聞を漁った。そして、見つけてしまったのだ。十年前の記事を。それは、この学園に伝わる一つの「噂」に関する特集だった。

『言ノ葉学園には、ゴーストが存在するという。そのゴーストは、卒業論文である「最も美しい嘘」を書けずに悩む生徒の前にだけ現れ、物語の紡ぎ方を教えるという。その姿は、十年前、自らの物語を語ることなくこの世を去った天才、柊小夜そのものだという。彼女は、誰かに自分の代わりに「最も美しい嘘」を語ってほしくて、今もこの学園を彷徨っているのだろうか――』

頭を鈍器で殴られたような衝撃。僕が過ごした時間は? あの夕暮れの屋上も、誰もいない音楽室も、彼女の笑顔も、すべては幻だったというのか。僕が惹かれた相手は、この世にいない人間の、物語を求める残留思念だったというのか。

嘘がつけない僕が、世界で一番大きな嘘の中に生きていた。その事実は、僕の心を粉々に打ち砕くには、あまりにも十分すぎた。

第四章 世界で最も美しい真実の嘘

卒業式当日。体育館は、厳粛な空気と、未来への期待に満ちていた。しかし、僕の心は鉛のように重く、冷え切っていた。僕はあの日以来、一度も小夜に会っていない。僕が真実を知ったことで、彼女の存在意義が失われてしまったのだろうか。

やがて、卒業論文発表会が始まった。生徒たちが次々と壇上に上がり、趣向を凝らした「嘘」を披露していく。宇宙旅行の体験談、魔法の薬の発明、未来から来た自分との対話。どれも見事な出来栄えで、会場からは感嘆の声と拍手が送られる。

そして、ついに僕の名前が呼ばれた。

ふらつく足で壇上へ向かう。マイクの前に立つと、何百という視線が僕に突き刺さる。手には、書きかけの『人魚姫の物語』の原稿があったが、もうそれを読む気にはなれなかった。

僕は深く息を吸い込み、マイクを握りしめた。

「僕の、最も美しい嘘を発表します」

静まり返る体育館。僕は、ゆっくりと語り始めた。

「この学園には、一人の少女がいました。彼女の名前は、柊小夜。彼女は、世界に溢れる物語のかけらを拾い集め、それに優しい願いを混ぜて、美しい物語を紡ぐ天才でした」

それは、僕が体験した「真実」だった。嘘がつけない僕が、唯一語れること。僕は、小夜と出会った日のこと、屋上で交わした言葉、彼女が教えてくれた世界の輝き、そのすべてを、ありのままに語った。

「彼女は僕に、物語の作り方を教えてくれました。嘘のつき方を教えてくれました。彼女は、僕が今まで出会った誰よりも、優しく、賢く、そして寂しげな瞳をした、実在する一人の女の子でした」

会場がざわめき始める。教職員たちは困惑した表情を浮かべ、生徒たちは囁き合っている。柊小夜などという生徒は、今の学籍には存在しないのだから。

「彼女は、もうここにはいません。でも、彼女が僕にくれた言葉と、彼女と過ごした時間は、確かに僕の中にあります。だから、これが僕の、僕にしかつけない、最も美しい嘘です」

僕は一度言葉を切り、満場の聴衆を見渡した。そして、最後の言葉を紡ぐ。

「柊小夜という少女は、つい昨日まで、この学園で僕と一緒に笑っていました。――これが、僕の卒業論文です」

それは、真実を語ることで完成する、究極の嘘だった。僕が彼女の存在を本気で信じ、語ることによって、彼女の物語は初めて「嘘」としてこの世界に立ち上がるのだ。

一瞬の沈黙の後、どこからか、すすり泣く声が聞こえた。それは一人、また一人と伝染し、やがて大きな感動の波となって体育館を包んだ。誰の心の中にも、きっと、自分だけの「柊小夜」がいたのだろう。物語を求める心が、僕の言葉に共鳴したのだ。やがて、それは割れるような拍手へと変わった。

鳴りやまない拍手の中、僕はステージの隅に、一瞬だけ、幻を見た気がした。色素の薄い瞳で僕を見つめ、満足そうに、そして少し寂しそうに微笑む、柊小夜の姿を。彼女は、音もなく「ありがとう」と唇を動かすと、陽光の粒子の中へ溶けるように消えていった。

僕の頬を、一筋の温かい雫が伝った。それは、僕が人生で初めて、誰かのためについた、美しく、そしてあまりにも切ない嘘の味だった。

数年後、僕は小説家になった。僕の書く物語は、いつもどこか現実と虚構の境界線を曖昧に漂っている。机の上には、あの日、小夜がくれたタイトルもない古書が、栞代わりに置かれている。嘘がつけなかった僕はもういない。僕は知っている。世界で最も美しい物語は、真実への愛と、優しい嘘でできていることを。そして、誰かの心に残り続ける限り、物語は決して死なないということを。

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