貌なき僕らのソナタ

貌なき僕らのソナタ

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第一章 霧の中の転校生

私の通う「霧見ヶ丘学園」は、その名の通り、一年中深い霧に包まれている。それはただの自然現象ではない。校門をくぐった瞬間から、誰もが互いの顔の輪郭を失う、不思議な粒子を含んだ魔法のような霧だ。新入生は最初こそ戸惑うが、やがて慣れる。私たちは声のトーン、歩き方の癖、ふとした時の指先の動き、纏う香水の微かな匂い、そういった顔以外のすべてを研ぎ澄ませて、相手を識別する。鏡というものは学園のどこにも存在せず、私たちは卒業の日まで、自分の顔さえ知らずに過ごすのだ。

それが世界のすべてだった。少なくとも、彼、相葉アキトが転校してくるまでは。

初夏の湿った空気が教室に満ちる月曜の朝、担任が連れてきた彼は、霧の向こう側にいても分かるほど、奇妙な存在感を放っていた。

「相葉アキト君だ。皆、仲良くしてやってくれ」

生徒たちの視線が、ぼんやりとした人影に集まる。私もまた、ノートから目を上げて彼を見た。他の生徒と同じように、彼の顔も霧に溶けているはずなのに、なぜか彼は、そこにいる全員の顔を一人ひとり、確かめるように見渡しているように感じられた。その視線が私の上でぴたりと止まった気がして、心臓が小さく跳ねる。そんなはずはないのに。

休み時間、好奇心の強いクラスメイトたちがアキトを取り囲んだ。

「ねえ、前の学校はどんなところだったの?」

「霧がないって、どんな感じ?」

質問の渦の中で、アキトは穏やかに、しかしどこか核心を避けるように答えていた。私は少し離れた場所から、彼の声に耳を傾ける。澄んでいて、けれど底に何か重いものを沈ませたような声。私が彼の輪郭として記憶したのは、その声色だった。

放課後、図書室で本を返そうとした私の背後から、その声が聞こえた。

「君が、高遠カナデさん?」

振り向くと、アキトが立っていた。霧でぼやけたシルエット。しかし、彼は真っ直ぐに私を見ている、という確信があった。

「どうして、私の名前を……」

名簿はまだ配られていないはずだ。彼はくすりと笑った。霧のせいで表情は見えない。だが、その笑い声には、何かをすべて見透かしているような響きがあった。

「君の読んでいた本、僕も好きなんだ。表紙の角が少し折れている感じとか、栞代わりに挟んでいる四つ葉のクローバーとか、いかにも君らしいなって」

ぞくりとした。それは、私のパーソナルな部分に土足で踏み込まれたような感覚だった。私たちは顔が見えない代わりに、そうした個人の領域を尊重し合う暗黙のルールがあったからだ。

私は一歩後ずさり、喉の渇きを覚えながら問いかけた。ずっと胸の内で渦巻いていた、あり得ないはずの疑問を。

「あなた……もしかして、私たちの顔が、見えているの?」

アキトは答えなかった。ただ、霧の向こうで、その気配がふっと微笑んだ。その肯定とも否定ともつかない沈黙が、私の日常に静かな亀裂を入れた。この学園の絶対的なルールを根底から揺るがす、恐ろしくも魅力的な謎の始まりだった。

第二章 心の輪郭

アキトとの交流は、禁断の果実を味わうような、甘美な緊張感を伴っていた。彼は決して「顔が見える」とは言わなかったが、その言動の端々が、私たちが失ったはずの視覚情報を彼が持っていることを示唆していた。

「カナデさんの声は、雨上がりの葉から滴る雫みたいだね。静かだけど、世界を映している」

ある時、中庭のベンチで彼はそう言った。誰もが声や仕草で私を「物静かな高遠さん」としか認識しない中で、アキトの言葉は私の内面の、自分でも気づかなかった風景を的確に描写してみせた。

私は次第に、彼に惹かれていった。それは、自分の顔を知りたいという根源的な欲求と、誰かに本当の自分を理解してほしいという切実な願いが混ざり合った、複雑な感情だった。

「アキト君は、どうしてこの学園に?」

「……見つけたいものがあったからだよ」

彼はいつもそう言って、空を見上げていた。霧に覆われた空を、まるでその向こうに広がる青空が見えているかのように。

彼と過ごす時間が増えるにつれ、私は学園のルールそのものに強い疑問を抱き始めた。なぜ私たちは、顔を隠されなければならないのか。卒業すれば見られるものを、なぜ今、知ってはいけないのか。それはまるで、私たち自身の一部を奪われているような感覚だった。

そんなある日、事件が起きた。クラスメイトの一人、美咲が自室に閉じこもってしまったのだ。彼女は手先が器用で、いつも美しい刺繍を施したハンカチを皆に配っていた。だが、最近は元気がなく、その指から生み出される模様もどこか翳りを帯びていた。

「自分の顔が、どんなに醜いのか考えたら、怖くなったの」

ドア越しに聞こえる彼女の震える声は、私たち全員が心の奥底に隠している不安を代弁していた。顔を知らないことは、無限の可能性であると同時に、底なしの恐怖でもあった。

誰もが彼女を慰める言葉を見つけられずにいる中、アキトが静かにドアの前に立った。

「僕には見えるよ」

彼の言葉に、廊下がしんと静まり返る。

「君の心の形が。それは、君が紡ぐ刺繍みたいに、繊細で、複雑で、色とりどりの糸で織られたタペストリーのように美しい。たとえ、どんな顔をしていたって、その輝きは失われない」

それは、顔が見えるとか見えないとか、そういう次元の話ではなかった。アキトは、私たちの存在の本質を、その表面的な器とは別の場所に見ているのだ。

しばらくの沈黙の後、ドアがゆっくりと開いた。涙で濡れた声の美咲が、そこに立っていた。

その夜、私は決意を固めた。アキトと共に、この学園の真実に辿り着きたい。

「アキト君、お願いがあるの。学園の禁忌とされている『真実の鏡』を、一緒に探してほしい」

図書館の古文書によれば、学園の創設者が残した一枚だけの鏡が、旧校舎の最上階に隠されているという。それを見れば、霧の影響を受けずに自分の本当の顔が映る、と。

アキトは私の目を、霧を透かして真っ直ぐに見つめ返した。

「……後悔しないかい?」

「自分の顔も知らずに、誰かに与えられた評価だけで生きていく方が、ずっと後悔する」

私の答えに、彼は初めて、困ったように、そして少しだけ悲しそうに、その気配を揺らした。

「分かった。一緒に行こう。でも、カナデさん。君が見つけるのは、君が望んでいるものとは違うかもしれない」

その言葉の意味を、私はまだ知る由もなかった。

第三章 鏡が映す未来

深夜、私とアキトは息を潜めて旧校舎に忍び込んだ。軋む床、壁の染み、月光が差し込む窓ガラスに映るぼんやりとした自分たちの影。一つ一つの物音が、禁忌を破る罪悪感となって心に重くのしかかる。

最上階の突き当たり、埃を被った「開かずの間」の扉を、二人で力を合わせて押し開けた。部屋の中央には、ビロードの布がかけられた大きな何かが鎮座している。アキトが静かにその布を引くと、荘厳な装飾の施された、巨大な姿見が現れた。これが、「真実の鏡」。

心臓が早鐘を打つ。自分の顔。ずっと知りたかった、私のアイデンティティの根幹。私は唾を飲み込み、ゆっくりと鏡の前に立った。

しかし、そこに映し出された光景に、私は息を呑んだ。

鏡の中には、確かに一人の少女が立っていた。だが、それは私の知らない顔だった。私が想像していた、内気で少し頼りなげな自分の面影はどこにもない。そこにいたのは、凛とした強い意志を感じさせる瞳と、固く結ばれた唇を持つ、見ず知らずの少女だった。混乱する私の隣で、アキトが静かに呟く。

「それが、君だよ。高遠カナデ」

彼の声に促され、恐る恐る隣を見る。鏡には、アキトの顔もはっきりと映っていた。穏やかだが、深い哀しみを湛えた、整った顔立ち。彼は、やはり私たちの顔が見えていたのだ。

「どういうこと……?これは、私じゃない……!」

パニックに陥る私に、アキトは静かに、そして残酷な真実を告げた。

「この霧見ヶ丘学園は、普通の学校じゃない。ここは、過去に大きな過ちを犯したり、深い心の傷を負ったりした者たちが、社会に復帰するための『再生施設』なんだ」

彼の言葉が、冷たい刃のように胸に突き刺さる。

「私たちは皆、過去の記憶の大部分を封じられている。この霧は、互いの『過去の顔』を思い出させないための装置でもある。そして卒業式……『開眼の儀』で、僕たちは新しい名前と、そして新しい顔を与えられて、ここから旅立っていくんだ」

アキトは続けた。彼はこの施設の生徒ではなく、「案内人」と呼ばれる職員の一人なのだと。生徒たちが新しい自分を受け入れ、再生への道を歩めるように導くのが彼の役目なのだと。

「じゃあ、この鏡に映っているのは……」

「君がこれから生きていく、『未来の顔』だ」

全身から血の気が引いていく。私の価値観が、世界そのものが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。私は誰?高遠カナデという名前も、ここで過ごした日々も、すべては偽りの上に築かれた砂の城だったというのか。忘れてしまった過去に、私は一体何をしたというのだろう。

「思い出したくないかい?君の過去を」

アキトが問いかける。彼の瞳は、すべてを知っているようだった。

記憶の蓋に、指がかかる。断片的なイメージが脳裏をよぎる。赤い、赤い光景。誰かの叫び声。そして、絶望。――嫌だ、思い出したくない。

私は両手で頭を抱えて蹲った。過去の自分を知るのが怖い。しかし、知らないまま新しい誰かになることも、同じくらいに恐ろしかった。

「君がここで感じたこと、築いた友情、流した涙。それは全部、本物だ」

アキトが私の肩にそっと手を置いた。その温もりが、崩壊しかけた私をかろうじて繋ぎ止める。

「過去が君を作ったんじゃない。今、ここにいる君が、未来の君を作るんだ。どんな顔で生きていくかは、君自身が決めればいい」

鏡の中の、見知らぬ少女が、泣いていた。それは本当に、私なのだろうか。私は、この顔を受け入れて、生きていけるのだろうか。答えの見えない問いが、暗い部屋の中にただ響き渡っていた。

第四章 開眼の儀

卒業式の日が来た。学園の大講堂は、厳かな静寂に包まれている。壇上には、あの「真実の鏡」が置かれていた。卒業生が一人ずつ名前を呼ばれ、壇上に上がり、鏡の前に立つ。その瞬間、その生徒を包んでいた霧が晴れ、初めてその顔が皆の前に晒されるのだ。これが「開眼の儀」。

私は自分の席で、固く手を握りしめていた。鏡の間での衝撃から数週間、私はずっと考えていた。過去の私と、未来の私。アキトは、どちらを選ぶも、あるいは両方を抱えて進むも、君の自由だと言った。

美咲の名前が呼ばれる。彼女は震える足で壇上に上がり、鏡の前に立った。霧が晴れる。そこに現れたのは、少しそばかすのある、優しい目をした少女だった。彼女は恐る恐る自分の顔を鏡で確認し、そして、客席にいる私たちを見渡した。彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれた。それは恐怖の涙ではなかった。安堵と、決意の光を宿した涙だった。

やがて、私の名前が呼ばれた。「高遠カナデ」。この名前で呼ばれるのも、これが最後かもしれない。私はゆっくりと立ち上がり、壇上へと向かった。

鏡の前に立つ。深呼吸を一つ。

霧が、ゆっくりと晴れていく。視界がクリアになり、世界の輪郭が鮮明になる。鏡の中に、あの夜に見た、凛とした瞳の少女が映っていた。私の、新しい顔。まだ見慣れない、他人のような顔。

だが、私が本当に見たかったのは、自分の顔ではなかった。私は客席に目を向けた。そこに座る、友人たちの顔。声と仕草で覚えていた彼ら一人ひとりに、初めて見る「顔」というパーツが加わっていた。それでも、不思議と違和感はなかった。美咲の優しい瞳も、他の友人の快活な笑顔も、私が知っている彼らの心の輪郭そのものだったからだ。顔は、ただの器に過ぎないのかもしれない。

最後に、私はアキトを見た。案内人として壁際に立つ彼は、穏やかな微笑みを浮かべていた。彼の顔も、今ははっきりと見える。ありがとう、と私は唇だけで伝えた。彼は静かに頷いた。

私はもう一度、鏡の中の自分に向き合った。過去に何があったのか、まだ思い出せない。でも、それでいい。私は過去を捨てるのではない。この学園で得た友情も、苦悩も、すべて抱きしめて、この新しい顔と共に歩き出すのだ。この顔は、未来の私自身が意味を与えていくものなのだから。

学園の門を出ると、突き抜けるような青空が広がっていた。もう、私を覆う霧はない。私は大きく息を吸い込み、未知なる世界へと、確かな一歩を踏み出した。私の貌(かたち)は、私がこれから出会う人々との関係性の中で、作られていくのだろう。その果てしない旅路を想い、私の胸は静かな希望で満たされていた。

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