がらんどうの日々に、音色が満ちるまで

がらんどうの日々に、音色が満ちるまで

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第一章 失われた朝の断片

水野奏(みずの かなで)の一日は、喪失から始まる。

瞼をこじ開けると、知らない天井がそこにあった。いや、もちろん知っている。見慣れた、自分のアパートの染み一つない白い天井だ。しかし、毎朝、ほんの一瞬だけ、世界から突き放されたような感覚に襲われる。身体を起こし、深く息を吸い込むと、ようやく意識の輪郭がはっきりとしてくる。

そして、必ずそれは起こる。

視線が、部屋の中のある一点で凍りつくのだ。

今日は、窓際に置かれた手回し式のコーヒーミルだった。赤銅色に鈍く輝く、美しい曲線を描いたアンティーク。奏はその存在を、今、初めて認識したかのように見つめていた。これは、何だ? 何に使う道具で、なぜここにあるのだろう。記憶の引き出しをいくら探っても、そこだけがぽっかりと抜け落ちている。まるで、昨夜のうちに誰かが脳の一部をピンセットで抜き取ってしまったかのようだ。

奏は慣れた手つきで、ベッドサイドの小さなチェストから、分厚いノートを取り出した。表紙に『私の取扱説明書』とだけ記された、彼女だけの聖書。ページをめくり、「こ」の索引を開く。あった。『コーヒーミル』。拙い文字で、こう記されている。

『友人・陽子からの25歳の誕生日プレゼント。コーヒー豆を挽く道具。毎朝、必ず使うこと。挽きたての豆の香りは、一日の始まりを少しだけマシにしてくれる』

その記述を読んで、ようやく奏の頭の中で、バラバラだった情報が形を結ぶ。そうだ、これはコーヒーミル。陽子からもらった大切なもの。私は毎朝、これで豆を挽いて一日を始めるのだ。しかし、その記憶に伴うはずの温かい感情や、豆を挽く時のゴリゴリとした感触、部屋に満ちる芳醇な香りといった実感は、すっぽりと抜け落ちたままだ。まるで、他人の日記を読んでいるような、乾いた知識だけが頭に流れ込んでくる。

彼女は、部屋にあるほとんど全ての物に、小さな白いタグを結びつけている。そこには、物の名前と、ノートの該当ページが記されている。これが、毎朝何か一つの記憶を失う彼女が、日常の体裁を保つための唯一の方法だった。医者は原因不明の解離性健忘の一種だと言った。ストレスだろう、と。しかし、奏には分かっていた。これは、もっと根源的で、抗いがたい何かなのだと。

ふと、枕元に視線を落とすと、そこには見慣れない物があった。掌に収まるほどの、精巧な作りの木製オルゴール。これも、記憶にない。だが、こちらは『私の取扱説明書』のどこにも記載がなかった。昨夜眠る前には、間違いなく存在しなかったものだ。

ぞわりと背筋が冷たくなる。失うだけではない。何かが、増えている。

がらんどうになっていく心に、知らない誰かががらくたを投げ込んでいるような、不気味な感覚。奏はオルゴールに触れることもできず、ただ、その沈黙を眺めることしかできなかった。

第二章 記憶の鑑定士

奏が働く『時巡(ときめぐり)堂』は、街の片隅にひっそりと佇む古道具屋だった。埃っぽい匂いと、樟脳の微かな香り、そして古い木材が放つ甘い匂いが混じり合った店内には、持ち主を失った物たちが、次の誰かを待って静かに息を潜めている。奏にとってこの場所は、失われた記憶の墓場のようであり、同時に、これから生まれるかもしれない物語の揺りかごのようでもあった。

彼女の仕事は、客が持ち込む品物を査定し、買い取ることだ。物にまつわる来歴や思い出話を聞くのは好きだった。自分にはない、確かな記憶の手触りを、他人の物語を通して感じることができるからだ。

その日、店に現れたのは、銀縁の眼鏡をかけた穏やかな物腰の老人だった。高橋と名乗った彼は、売り物の品々には目もくれず、カウンターの隅に置かれていた奏の私物――昨日、記憶から消えていたコーヒーミル――に目を留めた。

「ほう、これは良い品だ。大切にされているのが、よく分かりますな」

高橋さんの皺の刻まれた目尻が、優しく細められる。

「ええ、まあ……」

奏は曖昧に微笑んだ。大切にしていた、はずだ。その実感はないけれど。

「物は、記憶の器です」と、高橋さんは続けた。「喜びも、悲しみも、全て吸い込んで、持ち主の代わりに覚えていてくれる。便利で、そして、時として残酷な器ですじゃ」

その言葉は、まるで奏の秘密を見透かしているかのようで、彼女は思わず息を呑んだ。

「……残酷、ですか?」

「ええ。忘れようとしても、物がそこにある限り、記憶は蘇ってしまう。だから人は、物を手放すのかもしれませんな。過去と決別するために」

その日から、高橋さんは時折、店に顔を見せるようになった。彼は何も買わず、何も売らない。ただ、奏と他愛もない話をしては、静かに帰っていく。まるで、何かを見守っているかのように。

一方で、奏の症状は静かに進行していた。ある朝は、母親の形見だという万年筆を忘れ、またある朝は、初めて自分のお金で買ったという小説の記憶を失った。ノートに記された事実をなぞるたびに、自分の人生がどんどん薄っぺらい紙の束になっていくような恐怖に襲われる。

そして、枕元に現れる「見知らぬ物」は増え続けた。錆びたブリキのロボット。片方だけの手袋。持ち主不明の鍵。それらはまるで、奏が失った記憶の代わりに、世界のどこかから流れ着いた漂流物のようだった。

失う記憶と、増えていく謎の品々。日常の均衡は、音を立てて崩れ始めていた。あのオルゴールだけは、なぜか毎朝、変わらず枕元にあった。まるで、最後の砦のように。

第三章 オルゴールの告白

限界だった。今朝、ついに奏は、自分の名前が書かれた卒業証書の記憶を失った。ノートで確認して、それが自分のものであることは理解できたが、学生時代の思い出も、友人の顔も、まるで霧の向こう側にあるように霞んで思い出せない。自分が何者なのか、その根幹さえもが揺らぎ始めている。

藁にもすがる思いで、奏は高橋さんが教えてくれた住所を訪ねた。古いが手入れの行き届いた日本家屋。招き入れられた部屋は、彼の言葉通り、まるで記憶の博物館だった。壁一面の本棚には、古書やアルバムがぎっしりと並び、棚の上には様々な骨董品が、それぞれの物語を秘めて鎮座している。

「よく、来てくれましたな」

お茶を差し出しながら、高橋さんは静かに言った。

「奏さん。単刀直入に言いましょう。あなたのその症状は、病気ではない。あなたの家系が代々受け継いできた、一種の体質……あるいは、呪いのようなものです」

奏は、言葉を失った。

高橋さんは、奏の祖父の古い友人だった。そして、奏の一族が持つ特異な体質について、全てを知っていた。

「あなたの血筋の者は、強い感情の揺らぎ……特に、耐え難いほどの悲しみや苦しみを経験すると、その記憶を無意識のうちに身近な『物』に封じ込めるのです。そして、精神の均衡を保つために、その物に関する一切の記憶を脳から切り離してしまう」

奏の全身から、血の気が引いていくのが分かった。

「毎朝、あなたが失う記憶は、ランダムではない。それは、『昨日、あなたの感情を最も強く揺さぶった出来事』に関連する物の記憶なのです。あなたが失ってきたのは、ただの物の記憶ではない。あなた自身の、心の軌跡そのものなのですよ」

高橋さんの言葉が、雷のように奏の心を打ち抜いた。

「では……枕元に現れる、あの知らない物たちは?」

「それは、あなたが忘れたいと願った記憶を封じ込めるために、あなたの無意識が、どこからか『引き寄せて』きた器です。あなたの心が、悲鳴を上げている証拠じゃ」

そして、彼は核心に触れた。

「奏さん。あなたが、どうしても忘れられずにいる、一番大きな悲しみは何ですかな?」

脳裏に、断片的な映像が浮かぶ。優しい笑顔。低い声。温かい手のひら。でも、その顔には靄がかかっている。名前を、思い出せない。

「……分かり、ません」

「数年前に亡くなった、あなたの恋人……拓海くんのことです」

その名を聞いた瞬間、心臓が氷の塊で鷲掴みにされたような衝撃が走った。

「あなたが毎日失ってきたのは、彼との思い出が詰まった品々だった。二人で選んだコーヒーミルも、彼が褒めてくれた万年筆も。そして……」

高橋さんは、痛みを堪えるように目を伏せた。

「毎朝、あなたの枕元にあるあのオルゴール。あれは、拓海くんが事故に遭う直前、あなたに渡そうとしていた最後の贈り物です。あなたは、その記憶の重みに耐えきれず、毎夜、無意識にそれを忘れようとしている。しかし、あまりに強い記憶が封じ込められているために、完全に忘れることができず、毎朝、初めて見る物としてあなたの前に現れるのです」

「もし、あなたが次にあのオルゴールの記憶を完全に失ってしまったら……その時こそ、あなたの心の中から、拓海くんという存在は、完全に消え去ってしまうでしょう。それで、本当にいいのですかな?」

第四章 夜明けのレガート

がらんどうの部屋に戻った奏は、呆然と立ち尽くした。壁に貼られたタグ、タグ、タグ。それらは自分の人生の索引などではなかった。忘れるために自ら引き剥がした、記憶の瘡蓋(かさぶた)だったのだ。

忘れることで、平穏な日常を守ってきた。悲しみから目を背け、空っぽの心で生きることを選んできた。だが、それは本当に「生きている」と言えるのだろうか。拓海との記憶は、確かに辛く、苦しい。しかし、彼のいない世界で、彼の記憶まで失ってしまったら、自分には一体何が残るというのだろう。

奏は、決意した。忘れるのではない。思い出すのだ。向き合うのだ。

彼女はまず、コーヒーミルを手に取った。タグを外し、ノートを閉じる。目を瞑り、心の奥底に沈んだ記憶の破片を、必死に手繰り寄せる。……そうだ。この少し欠けた縁は、二人で雑貨屋を巡っている時に、拓海がふざけて落としてしまった時のものだ。「ごめん、でもこれも味だよ」と笑っていた、あの顔。

次に、万年筆を。これで初めて手紙を書いたのは、彼への誕生日カードだった。「君の字、温かくて好きだな」と言われた時の、胸の奥がじんわりと温かくなる感覚。

一つ、また一つと、物に触れるたびに、乾いた大地に雨が染み込むように、色褪せた日常に感情の色が戻ってくる。

そして最後に、震える手で、枕元のオルゴールを手に取った。

ゆっくりと蓋を開ける。

流れ出したのは、優しく、どこか切ないメロディだった。それは、拓海が奏のために作曲してくれた、世界でたった一つの曲。

音色が、鍵だった。

メロディと共に、封じ込められていた記憶が奔流となって溢れ出す。初めて手を繋いだ公園のベンチ。喧嘩した雨の日のバス停。彼の部屋の匂い。そして、最期の瞬間の、電話越しの声。

『君の奏でる音が好きだ。俺がいなくなっても、ずっと、奏で続けて』

涙が、後から後から頬を伝った。悲しくて、苦しくて、でも、どうしようもなく温かかった。拓海が、自分の中に還ってきた。彼の愛した自分が、ようやく自分自身を取り戻したのだ。

翌朝。

奏が目を覚ますと、枕元にはオルゴールが静かに佇んでいた。彼女は、それをはっきりと覚えていた。その音色も、それにまつわる全ての愛しい記憶も。

代わりに、視界の隅に入った窓辺の小さなサボテンが、見慣れない物に見えた。だが、もう奏は動じなかった。傍らのノートを開くまでもなく、穏やかに微笑む。昨日、高橋さんの家からの帰り道に、花屋で買ったのだ。新しい記憶を、自分で紡いでいくために。

失うことは、これからも続くだろう。この体質が変わるわけではない。

けれど、もう恐怖はない。

奏はキッチンに立つと、コーヒーミルで豆を挽いた。ゴリゴリという懐かしい感触。立ち上る芳醇な香りは、失われたはずの拓海との朝の記憶を、鮮やかに連れてくる。

失っても、全てが消えるわけじゃない。記憶は、香りや音の中に、ふとした光の中に宿り、いつでも還ってきてくれる。

悲しみも愛しさも、全て抱きしめて、奏は淹れたてのコーヒーを一口飲んだ。

日常とは、失い、そして見つけ出す、記憶を巡る果てしない旅路なのだ。がらんどうだった日々に、確かな音色が満ちていく。

新しい一日が、静かに始まった。

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