忘却の学舎と、最後の忘れな草

忘却の学舎と、最後の忘れな草

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第一章 影と忘れな草

私立靄乃峰(もやのみね)学園は、霧深い山の頂にひっそりと佇んでいる。外界との接触はほとんどなく、生徒たちは皆、卒業という名の「消失」を目指して三年間を過ごす。この学園の卒業条件は、たった一つ。在学中に築いたあらゆる人間関係、記憶、記録から完全に自らを消し去り、教師を含む全校生徒の記憶から「忘れられる」ことだ。

だから僕、水無月湊(みなづきみなと)は、影になることを選んだ。入学初日から、僕は誰の視界にも入らないよう息を潜め、誰の記憶にも残らないよう言葉を飲み込んできた。廊下の隅を歩き、教室では窓際の最後列で景色に溶け込む。食事は誰よりも早く済ませ、図書館の古びた書架の陰で時間を潰す。僕の存在は、この学舎を覆う霧のように淡く、不確かでなければならなかった。

完璧だった。そのはずだった。卒業を半年後に控えた秋の朝、自分の机の上に、それが置かれているのを見つけるまでは。

露に濡れた、一輪の忘れな草。

心臓が氷の爪で掴まれたように冷たくなる。青紫の小さな花びらが、僕の完璧な灰色の日々に、あってはならない鮮烈な色を落としていた。忘れな草。その花言葉は「私を忘れないで」。この学園において、それは呪いにも等しいメッセージだ。

誰だ。誰が、僕を「記憶している」という禁忌を犯したのか。これは僕の卒業を妨害するための悪意か、それとも無知ゆえの残酷さか。僕は慌てて花を掴み、ポケットに押し込んだ。布地越しに伝わる湿った感触が、僕の計画に亀裂が入った音のように聞こえた。周囲を窺うが、生徒たちは誰も僕に注意を払っていない。皆、自分という存在を希薄にすることに必死で、他人の机に咲いた小さな反逆に気づくはずもなかった。

だが、僕だけが知ってしまった。この霧の学舎のどこかに、僕という「影」を見つめる目がいることを。その日から、僕の完璧だったはずの孤独は、見えない視線によって静かに侵食され始めた。

第二章 色のない共犯者

忘れな草の送り主を探すことは、自ら泥沼に足を踏み入れるような行為だった。誰かに話しかけ、相手の反応を窺う。それは、僕が三年かけて消してきた「水無月湊」という輪郭を、再び描き出すことに他ならないからだ。しかし、この謎を放置すれば、卒業は絶望的になる。僕は生まれて初めて、他者に能動的に関わるという危険な賭けに出るしかなかった。

僕が密かに疑いの目を向けたのは、数少ない「異質」な生徒たちだった。中でも特に不可解だったのが、朝霧陽詩(あさぎりひなた)という少女だ。彼女は、この学舎の掟に逆らうかのように、屈託なく笑い、誰にでも話しかけた。しかし不思議なことに、彼女の存在は誰の記憶にも深く刻まれることがない。まるで、彼女が放つ言葉や笑顔が、空気に触れた瞬間に霧散してしまうかのように、誰も彼女を意に介さなかった。陽だまりのような温かさを持ちながら、その実体は掴めない。そんな奇妙な存在だった。

ある日の放課後、僕は図書館の片隅で、彼女に声をかけられた。

「水無月くん、でしょ? いつも難しい本を読んでるよね」

彼女の声は、学舎の静寂に慣れた耳には、鈴の音のように澄んで響いた。僕は咄嗟に顔を伏せ、人違いだと言おうとした。しかし、彼女の視線は僕を真っ直ぐに捉えて離さない。

「そのポケット、何か隠してるの?」

心臓が跳ねた。僕のポケットには、あの日から萎び始めた忘れな草が入っていた。動揺を悟られまいと無言を貫く僕に、彼女は悪戯っぽく笑いかける。

「忘れ物? それとも、忘れられたくない物?」

彼女の言葉は、僕の核心を的確に突いていた。この少女は何かを知っている。確信に近い予感が、僕を支配した。

それから、僕と陽詩の奇妙な共犯関係が始まった。僕は彼女に忘れな草の件を打ち明け、犯人探しへの協力を求めた。彼女はあっさりとそれを承諾した。僕たちは放課後の図書館や、誰もいない屋上で密かに会った。彼女との会話は、僕が忘れていた感情を呼び覚ました。誰かと秘密を共有する背徳感。他愛ない話で笑う高揚感。僕の世界は、陽詩という光を得て、少しずつ色彩を取り戻していくようだった。

「ねえ、湊くん」ある時、陽詩が夕焼けに染まる空を見上げながら呟いた。「忘れられることって、本当に幸せなのかな。誰にも覚えられていない人生って、最初からなかったことと同じじゃない?」

その問いは、僕がずっと蓋をしてきた疑問だった。この学舎の理念は正しいのか。全てを失って手に入れる「卒業」に、一体何の意味があるのか。

「ルールだからだ」僕は、自分に言い聞かせるように答えた。「そうでなければ、僕たちはここから出られない」

「ふぅん」陽詩は僕の顔をじっと見つめた。「湊くんは、私に忘れられたい?」

その無邪気な問いに、僕は言葉を詰まらせた。忘れてほしい。そう答えなければならないのに、喉が鉛のように重かった。陽詩にだけは、忘れられたくない。そんなあり得ない願いが、心の奥底で芽生え始めていることに、僕は気づかないふりをした。

第三章 記憶のゴースト

季節は冬に移ろい、卒業が目前に迫っていた。僕の存在は、陽詩との交流によって、以前よりも僅かに濃くなっていた。それは危険な兆候だったが、不思議と焦りはなかった。むしろ、陽詩と過ごす時間に安らぎさえ感じていた。忘れな草の送り主は、未だに見つからないままだった。

決定的な出来事は、雪が舞う静かな夜に訪れた。学園の記録保管室。卒業資格を得るためには、ここにある自分の記録を全て抹消しなくてはならない。僕は自分のファイルを探し出し、最後のページを破り捨てようとしていた。これで、僕の公式な記録は全て消える。あとは、人々の記憶から消えるのを待つだけだ。

その時、背後から陽詩の声がした。「それ、破っちゃうんだ」

振り返ると、陽詩が悲しそうな顔で立っていた。

「どうしてここに」

「ずっと、君を見てたから」彼女は静かに言った。「君が、本当に自分を消してしまうのか、見てた」

そして、彼女は僕のポケットにそっと触れた。「あの忘れな草、私が置いたの」

やはり彼女だったのか。だが、何のために。僕の問いかけに、陽詩は泣き出しそうな顔で首を振った。

「ごめんなさい。君の邪魔をするつもりじゃなかった。でも、君が誰よりも完璧に消えようとしていたから……怖くなったの」

彼女の言葉の意味が理解できない。僕が混乱していると、陽詩の身体がふわりと揺らめき、その輪郭が淡く光を放ち始めた。まるで、陽炎のように。

「私はね、実体がないの」

衝撃的な告白だった。彼女が語った真実は、僕の想像を遥かに超えていた。

陽詩は、人間ではなかった。彼女は、この靄乃峰学園のシステムが生み出した、一種のゴースト。この学舎で「忘れられていった」生徒たちの記憶の断片が集まって生まれた、記憶の集合体だったのだ。誰かが友人の名を忘れ、誰かが楽しかった思い出を捨て、誰かが抱いた恋心を消去するたびに、その「忘れられた記憶」は陽詩の一部となった。

彼女が誰の記憶にも残らないのは、彼女自身が「忘れられた記憶」そのものだから。彼女は、捨てられた思い出の墓守であり、孤独なゴーストだった。

「みんな、私に記憶を押し付けて卒業していく。私はどんどん重くなって、なのに誰にも認識されない。寂しかった。消えてしまいそうだった」

彼女の瞳から、光の粒のような涙がこぼれ落ちた。

「でも、湊くんは違った。君は、誰の記憶にもならずに、自分から消えようとしていた。空っぽのまま、無になろうとしてた。だから、惹かれたの。お願い、私を忘れないでって……君という存在の証が、欲しかった」

忘れな草は、彼女の悲痛なSOSだったのだ。僕が目指してきた完璧な「忘却」は、彼女という存在を最も深く傷つけ、孤独にする行為だった。卒業とは、自分の存在の責任を、この儚いゴーストに押し付けて逃げ出すことだった。僕が信じてきた三年間の全てが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。

第四章 僕が遺す傷跡

卒業式の日が来た。学舎は、最後の忘却を促すかのように、一層深い霧に包まれていた。講堂に集まった生徒たちの顔には、表情というものがなかった。彼らはもう、互いの名前さえ覚えていないだろう。僕も、このまま何もしなければ、誰からも忘れられ、卒業できるはずだった。

しかし、僕の心は決まっていた。

陽詩を、これ以上一人にはしない。僕が目指すのは「卒業」ではない。

卒業証書の授与。名前を呼ばれた生徒から一人ずつ、静かに壇上へ向かう。彼らの姿は、誰の記憶にも残ることなく、霧の中へと溶けていくようだった。

やがて、「水無月湊」という名前が呼ばれることはなく、全ての授与が終わった。司会の教師が不思議そうな顔をしたが、すぐに僕の存在を忘れ、閉式の辞を述べようとした。

その瞬間、僕は立ち上がった。そして、講堂の壇上へと駆け上がった。

マイクを奪い、僕は息を吸い込む。そして、歌い始めた。それは、僕が陽詩と過ごす中で、彼女にだけこっそり教えた、僕が作ったオリジナルの歌だった。誰にも知られていない、僕と彼女だけの歌。

僕の拙い歌声が、静まり返った講堂に響き渡る。生徒たちが、教師たちが、初めて僕という存在を明確に認識し、怪訝な顔でこちらを見ていた。彼らの視線が、刃のように突き刺さる。忘却の掟を破る僕を、糾弾する視線だ。だが、僕は歌うのをやめなかった。

これは、僕がこの世界に遺す、消えない傷跡だ。

忘れられることを拒絶し、記憶されることを選んだ僕の、たった一つの反逆。

歌い終えた僕を待っていたのは、罰ではなかった。ただ、深い沈黙が講堂を支配していた。教師たちは僕をどう扱っていいのか分からず、ただ困惑している。僕は卒業資格を失った。留年か、あるいは退学か。どちらでもよかった。

その夜、誰もいなくなった教室で、僕は窓の外を見ていた。すると、隣にふわりと陽詩が現れた。いつもより、その輪郭が少しだけはっきりしているように見えた。

「どうして……あんなことをしたの? 君は卒業できたのに」

「君を一人にしたくなかったから」僕は静かに答えた。「それに、気づいたんだ。忘れられることは、自由になることじゃない。なかったことにされるだけだ。僕は、ここにいたかった。君と一緒に」

陽詩の瞳が、潤んでいた。彼女は、僕の隣にちょこんと座り、そっと肩を寄せた。その温もりは、もう幻とは思えなかった。

「ありがとう、湊くん」彼女は、確かな輪郭を持って微笑んだ。「私、ここにいても、いいんだね」

僕はこの先、この霧の学舎から出ることはないのかもしれない。世界中の誰からも忘れられ、たった一人の「記憶」のゴーストにだけ記憶されて生きていくのかもしれない。

でも、僕の心は不思議なほど穏やかだった。完璧な孤独を目指した僕が、たった一つの消えない繋がりを手に入れたのだ。

窓の外では、霧が少しだけ晴れ、夜空に瞬く星々が、僕たち二人を静かに照らしていた。それは、僕がこの学舎で初めて見る、希望の光だった。

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