灰色のカンバスと透明な君

灰色のカンバスと透明な君

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第一章 色のない転校生

僕が通う私立碧色(へきしょく)学園は、少しだけ特殊な場所だ。ここでは、人の感情が色として視える。喜びは陽だまりのような金色に、怒りは燃え盛る炎のような赤に、悲しみは海の底のような深い藍色に。教室は常に、けばけばしい原色のカクテルのように、様々な感情の色で満ち溢れている。誰もがそれを当たり前の風景として受け入れていた。

そんな世界で、僕、水島湊(みなしまみなと)の感情は、いつも鈍い灰色だった。感動も、興奮も、強い怒りさえも、僕の中から湧き出てくることはない。それはまるで、まだ何も描かれていない、埃をかぶったカンバスの色。だから僕は、このカラフルすぎる世界が少し苦手だった。自分の無味乾燥な内面を、常に突きつけられているようで息苦しいのだ。僕は窓の外を眺め、けばけばしい色の洪水から意識を逸らすのが常だった。

その日も、僕は同じように窓の外に広がる、感情のない空の青だけを見ていた。だが、教室の空気が一変した。ざわめきと共に、全ての「色」が一瞬、ぴたりと動きを止める。好奇心という名の黄緑色のオーラが、教室の扉の一点に集中していた。

担任に連れられて入ってきたのは、一人の転校生だった。

「今日から新しく仲間になる、月代栞(つきしろしおり)さんだ」

彼女が静かにお辞儀をした瞬間、僕は息を呑んだ。信じられない光景だった。彼女には、色がなかった。何の色も。それは僕のような鈍い灰色ですらない。完全な「無色透明」。まるで彼女の輪郭だけが切り取られ、背景が透けて見えるような、奇妙な空虚さがそこにはあった。

生徒たちのオーラが、驚きを示す紫と好奇心の黄緑色が混じった複雑な色合いに変わる。感情が色で見えるこの学園において、「色がない」ということは、感情がない人間だと宣言しているようなものだ。だが、彼女は穏やかに微笑んでいる。その表情と、彼女を取り巻く完全な無色とのギャップが、僕の灰色の心に、初めて小さな、しかし確かな波紋を広げた。この世界で、色を持たない人間など、存在するはずがないのだから。

第二章 静かな波紋

月代栞という存在は、碧色学園に静かな混乱をもたらした。誰もが彼女の「無色」に興味を持ち、遠巻きに観察したり、話しかけたりした。しかし、彼女はどんな色の感情をぶつけられても、常に穏やかな微笑みを返すだけだった。まるで、深い湖に投げ込まれた石が、音もなく沈んでいくように。

僕は、そんな彼女から目が離せなくなっていた。僕の「灰色」は、無気力や無関心の象徴として、僕自身を苛んできた。だが、彼女の「無色」は、それとは質の違う、何か底知れないものを含んでいるように感じられた。

ある日の昼休み、中庭で二つの鮮やかな赤いオーラが衝突した。些細なことから始まった口論は、見る間にヒートアップし、周囲の生徒たちの不安を煽る濁ったオレンジ色が広がり始めていた。僕はまたか、とため息をつき、その場を離れようとした。

その時、栞がふわりと二人の間に割って入った。誰もが息を呑む中、彼女はただ静かにそこに立っていた。すると、信じられないことが起きた。燃え盛るようだった二人の赤いオーラが、まるで水に滲む絵の具のように、ゆっくりと輪郭を失い、淡いピンク色へと変わっていったのだ。あれほど激しかった感情の嵐が、嘘のように凪いでいく。当の本人たちも、なぜ怒っていたのか忘れてしまったかのようにきょとんとし、ばつが悪そうに顔を見合わせていた。

栞がその場を立ち去ると、後に残されたのは穏やかなパステルカラーの空気だけだった。彼女はまるで、激しい色を吸い取るスポンジのようだ。僕はその光景に、畏怖に近い感情を抱いた。

数日後、僕は図書室で栞と二人きりになった。降り注ぐ西日が、本の背を金色に染めている。僕の周りには、相変わらず頼りない灰色のオーラが漂っている。僕はそれを彼女に見られるのが、なぜかたまらなく恥ずかしかった。

「水島くん」

彼女が不意に話しかけてきた。その声は、彼女のオーラと同じで、何の感情の色も乗っていない、透明な響きを持っていた。

「あなたのそばにいると、とても落ち着く」

「え?」

予想外の言葉に、僕は間抜けな声を上げた。

「あなたのその色は、とても静かで、優しい色ね。まるで、雨の日の匂いみたい」

雨の日の匂い。僕が唯一、好きだと思えるものだった。誰もが嫌う僕の灰色を、彼女は初めて肯定的な言葉で表現した。僕の心臓が、トクン、と小さな音を立てる。灰色のオーラが、ほんのわずかに、白に近い色へと揺らめいたのを、僕自身が見ていた。

第三章 濁色の嵐と真実

学園祭の準備が佳境に入った頃、事件は起こった。各クラスの意見が対立し、焦りや不満、嫉妬といった負の感情がそこかしこで渦を巻き始めたのだ。学園全体が、赤黒い怒り、よどんだ緑の嫉妬、不安を示すどす黒い紫といった、おぞましい色の嵐に包まれていった。それはまるで、パレットの上で全ての絵の具を混ぜ合わせた時のような、救いのない濁色だった。生徒たちは互いを罵り、泣き叫び、パニックは連鎖していく。

僕はその中心で、異変に気づいた。月代栞が、体育館の隅で小さくうずくまっていたのだ。彼女の周りだけが相変わらず無色透明だったが、その輪郭が、陽炎のようにゆらゆらと揺らめき、透け始めている。

「月代さん!」

僕は人の波をかき分けて彼女のもとへ駆け寄った。彼女の顔は青白く、苦痛に歪んでいた。

「水島くん…来ては、だめ…」

そのか細い声は、今にも消えてしまいそうだった。

「どういうことなんだ!君の身体が…!」

栞は震える唇で、ゆっくりと真実を語り始めた。

「私は…『色がない』んじゃない。みんなの『色を吸収する』ために、ここにいるの」

彼女の告白は、僕の世界のすべてをひっくり返した。この碧色学園は、感情の起伏が激しく、社会にうまく適応できない子供たちを集め、その感情を安定させるための、一種の実験施設だった。そして彼女は、その感情の「色」を吸収し、浄化するための生きた「フィルター」として、ここに送られてきたのだという。

「でも、こんなにたくさんの、強い負の感情を一度に受けると…私自身の存在が保てなくなる。みんなの色を吸い尽くして、私が消えてしまう…」

彼女の身体が、さらに透明になっていく。僕は愕然とした。彼女がもたらした穏やかさは、彼女自身の存在を犠牲にした上で成り立っていたのだ。僕が今まで呪ってきた、このけばけばしい感情の世界。その歪んだ調和を、彼女はたった一人で支えていた。

価値観が、音を立てて崩れ落ちる。僕が忌み嫌っていた僕自身の「灰色」。何の役にも立たない、空っぽの象徴。だが、本当にそうだろうか。怒りの赤でも、悲しみの青でもない。喜びの金色でもない。何の色にも染まらない、ただそこにあるだけの、この灰色。もしかしたら、この色だけが、彼女を蝕む濁流を、受け止められるのではないか。

「馬鹿野郎」

僕は震える声で言った。

「なんで一人で背負うんだよ」

僕は立ち上がり、透けかけた彼女の前に立った。濁色の嵐が、僕たちに向かって牙を剥く。だが、もう恐怖はなかった。僕は初めて、僕自身の意志で、僕の「色」を解き放つことを決意した。

第四章 君と見た灰色の空

僕は目を閉じ、意識を内へと深く沈めた。そこにはいつも通りの、静かで広大な灰色の空間が広がっていた。僕はそれを、両腕を広げるようにして、意識の外側へと押し出した。

「大丈夫だ。俺が全部、受け止める」

僕から放たれた灰色のオーラが、ヴェールのように柔らかく広がり、栞を包み込む。それは攻撃的な色ではなかった。濁色の嵐に立ち向かうのでも、打ち消すのでもない。ただ、静かに、優しく、それらすべてを受け入れていく。激しい赤も、よどんだ緑も、僕の灰色に触れた途端、その毒気を抜かれ、穏やかな色調へと変わっていく。まるで、激しい雨が降った後のアスファルトが、全てを吸い込んで静けさを取り戻すように。

僕の灰色は、栞に流れ込もうとしていた負の感情の奔流を、穏やかな小川へと変えていった。それは、浄化というよりは「中和」に近かった。僕の無感情だと思っていた特性は、あらゆる感情を等しく受け入れる「器」としての強さだったのだ。

やがて、体育館を覆っていた濁色の嵐は完全に消え去り、後には、雨上がりの曇り空のような、穏やかで落ち着いた灰色の光だけが満ちていた。生徒たちの混乱は収まり、誰もが呆然と、その静謐な光景を見つめていた。

僕が振り返ると、栞の身体は確かな輪郭を取り戻していた。彼女は涙を浮かべながら、僕を見上げて微笑んでいた。

あの一件の後、学園の「実験」は中止されることになった。僕たちは次第に、他人の感情を「色」として視る能力を失っていった。世界から色が消え、誰もが同じただの「人間」になったのだ。それは少し寂しいことのようにも思えたが、不思議と喪失感はなかった。

季節は巡り、卒業式の日がやってきた。もう誰も、特別な色を放ってはいない。それでも、教室に満ちる友人たちの晴れやかな表情や、別れを惜しむ声には、色が見えていた時以上の豊かな感情が宿っているように感じられた。

式の後、僕は誰もいなくなった教室で栞と会った。夕日が差し込み、彼女の横顔をオレンジ色に染めている。それは現象としての光の色であり、感情の色ではなかった。

「湊くん」

彼女が僕の名前を呼んだ。

「あの時、見えたあなたの色、本当はとても綺麗だったんだよ。何にも染まらない、強い光を秘めた、銀色に近い灰色だった」

僕の心に、温かい何かがじんわりと広がっていく。もう僕たちに、互いの感情の色は見えない。けれど、言葉や、表情や、沈黙の中に、確かな心の通い合いを感じることができた。色に頼らなくても、世界はこんなにも豊かで、美しい。

僕たちは、色のない世界で、本当の意味で互いを「見る」ことを始めたのだ。僕の灰色のカンバスには、月代栞という、透明で、そして何よりも鮮やかな光が、確かに描き込まれていた。僕たちは言葉を交わす代わりに、ただ静かに、窓の外に広がる、どこまでも優しい灰色の夕暮れ空を眺めていた。

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