第一章 色褪せたシャッターと、色彩の転校生
僕が通うこの海沿いの丘に建つ「暁星学園」には、一つの絶対的な掟がある。
卒業生は、この学園で過ごした三年間の一切の記憶を、「忘却の儀式」によって消し去らなければならない。友情も、淡い恋も、喧嘩の痛みも、文化祭の熱狂も、すべてだ。卒業証書と共に与えられるのは、真っ白な三年間という空白。それが、僕たちに課せられた運命だった。
だから僕は、何事にも本気にならなかった。どうせ忘れてしまうものに、心を砕く意味などない。所属する写真部も、ただシャッターを切る行為の即物的な響きが好きなだけで、そこに記録や思い出といった感傷的な価値は見出していなかった。ファインダー越しに見える世界は、どこか現実感を失った、平坦な風景に過ぎなかった。
卒業まで、あと半年。秋風が教室の窓をカタカタと揺らす、そんなありふれた午後だった。僕が屋上から色褪せた街並みを撮っていると、背後から不意に声がした。
「わっ、きれい! そこからだと、世界が全部ミニチュアみたいに見えるんだね!」
振り返ると、そこに彼女はいた。夏服がまだ馴染んでいない、快活な笑顔の転校生。日向陽菜(ひなたひな)。昨日、教室で紹介されたばかりの、この学園のルールを知るにはあまりにも眩しすぎる存在。
彼女は僕の隣に駆け寄ると、金網に指を絡ませながら身を乗り出した。
「ねえ、何撮ってるの? 見せて見せて!」
「……別に、何も」
僕は無愛想にカメラを降ろす。彼女のような人間は苦手だった。全身から「今が楽しい」という色彩を放ち、周囲を巻き込んでいくタイプ。忘れる運命にあるこの場所で、その輝きはあまりにも無防備で、痛々しくさえあった。
「ふーん。じゃあさ、私を撮ってよ!」
陽菜はくるりと振り返り、夕陽を背にして仁王立ちした。逆光で表情は影になっているが、そのシルエットだけで、彼女が満面の笑みを浮かべていることが分かった。
「忘れるからこそ、全部撮っておかなくちゃ。この光も、風の匂いも、君が今、ちょっと迷惑そうだなって思ってる顔も。全部、一瞬だけの宝物なんだから!」
その言葉に、僕は初めてファインダー越しの世界に、微かな亀裂が入るのを感じた。忘れるから、撮る。僕の諦念とは正反対の、しかし奇妙な説得力を持つその理屈に、僕は返す言葉を見つけられなかった。カシャリ、と無意識にシャッターが下りる。その乾いた音は、いつもと少しだけ違う響きをもって、秋の空に吸い込まれていった。
第二章 ファインダー越しの約束
陽菜は、まるで嵐のように僕の灰色の日々をかき乱した。彼女は半ば強引に写真部に入部すると、「忘れたくない瞬間リスト」なるものを作り、僕をあちこち連れ回し始めた。
「リストその一! 雨上がりのグラウンドにできた、虹色の水たまり!」
「その五! 図書室の窓から差し込む光で、キラキラ光る埃!」
「その十三! 購買の焼きそばパン、最後の一個をゲットした時の勝利の顔!」
僕は呆れながらも、彼女の被写体であり、専属カメラマンになった。陽菜はどんな些細なことにも宝石のような価値を見出し、その一瞬を切り取るように僕に命じた。最初は義務感で押していたシャッターも、いつしか僕自身の意志を帯び始めていた。ファインダー越しに見る陽菜は、いつも生き生きと輝いていた。コロコロと変わる表情、楽しそうな笑い声、時折見せる、遠くを見つめるような儚い眼差し。
僕は、忘れたくなかった。彼女の笑顔を。彼女と過ごす、このどうしようもなく眩しい時間を。諦念で塗り固めていたはずの心に、「喪失」への明確な恐怖が芽生えていた。
「ねえ、蒼くん」
文化祭の準備で騒がしい体育館の裏、二人でペンキのついた手を洗いながら、陽菜が呟いた。
「本当に、記憶を残す方法ってないのかな」
「……さあな。誰も逆らえた者はいないって話だ」
「でも、もしかしたら。抜け道があるかもしれないじゃない? この学園、すごく古いし。どこかに昔の資料とか……」
彼女の瞳は真剣だった。それは、僕が心の奥底で抱いていた、しかし口には出せなかった願いそのものだった。
「……探してみるか」
僕の口から、自分でも驚くほど素直な言葉が出た。陽菜はぱっと顔を輝かせ、「うん!」と力強く頷いた。
僕たちは、立ち入りが禁じられている旧図書館の資料室に忍び込んだ。黴と古い紙の匂いが充満する中、僕たちは「忘却の儀式」に関する記述を探した。何時間も経った頃、一冊の古い学級日誌の隅に、震えるような文字で書かれた一文を見つけた。
『忘却は、完全なる消滅ではない。それは、世界からの切り離し。卒業生は、誰の記憶からも消え、観測されない存在となる。写真にすら、その姿は残らない』
「写真に、写らない……?」
陽菜が息を呑む。嫌な予感が、背筋を冷たい汗となって伝った。僕は慌てて部室に戻り、撮りためたフィルムを現像液に浸した。どうか、ただの迷信であってくれ。祈るような気持ちで、ゆっくりと引き上げた印画紙に浮かび上がってきた光景に、僕は言葉を失った。
雨上がりのグラウンド。きらめく図書室。騒がしい購買部。そこには、僕が切り取った美しい風景だけがあった。陽菜がいるはずの場所は、まるで最初から誰もいなかったかのように、ぽっかりと空白になっていた。僕が追いかけ、撮り続けてきた彼女の姿は、どこにもなかった。
第三章 空白のポートレート
目の前の現実が、ガラガラと音を立てて崩れていく。僕の隣で印画紙を覗き込んでいた陽菜は、何も言わなかった。ただ、その横顔は見たこともないほど哀しげで、まるで透き通ってしまいそうに儚く見えた。
「どういう、ことだよ……」
僕の声は震えていた。陽菜はゆっくりと顔を上げ、僕の目をまっすぐに見つめた。その瞳は、まるで水面のようだった。静かで、深く、全ての光を吸い込んでしまうような。
「ごめんね、蒼くん。ずっと、黙ってて」
彼女の告白は、僕の混乱をさらに深い絶望へと突き落とした。
陽菜は、去年の卒業生だった。
彼女は「忘却の儀式」に失敗した、たった一人の例外だった。記憶を失うことを極度に恐れた彼女の魂は、儀式に抵抗し、結果としてこの学園に縛り付けられた。肉体を失い、誰からも認識されず、忘れられた存在として。過去と現在の狭間を、永遠に彷徨う幽霊。それが、日向陽菜の正体だった。
『忘却は、世界からの切り離し』
古い日誌の言葉が、脳内で不気味に反響する。彼女は、この世界から「切り離され」ていたのだ。
「でも、蒼くんだけは、私を見つけてくれた」
陽菜は、そっと僕のカメラに触れた。その指は、僕には確かに感じられるのに、物理的な形を持たない。
「いつもファインダー越しに、何かを探しているみたいだったから。もしかしたら、忘れられたものを見つけてくれるんじゃないかなって。……だから、声をかけたの」
僕が「記録」という行為を通して、世界の境界線を揺らしていたから? 僕のレンズだけが、切り離された彼女の存在を捉えることができたというのか?
だとしたら、あまりにも残酷だ。僕が彼女を「忘れたくない」と願えば願うほど、シャッターを切れば切るほど、彼女が「この世界に存在しない」という事実を、僕は証明し続けることになる。僕たちが「忘れたくない瞬間」として集めた宝物は、すべてが陽菜の不在を写し出した、空白のポートレートだったのだ。
「私ね、もう一度、みんなに会いたかったんだ。もう一度、思い出をちゃんと作りたかった。蒼くんが、それを叶えてくれた」
陽菜は、泣き出しそうな顔で、笑った。
「ありがとう。私の、最後のたった一人の、友達」
その言葉は、僕の胸を鋭く抉った。絶望と、愛しさと、どうしようもない無力感がごちゃ混ぜになって、視界が滲んだ。僕が焦がれた色彩は、はじめから存在しない、光の残像だったのだ。
第四章 忘却の儀式、記憶の残照
卒業式の日が来た。静まり返った講堂に、厳かなパイプオルガンの音が響く。卒業証書授与の後、最後のプログラム「忘却の儀式」が始まる。生徒たちは一人ずつ、祭壇に置かれた白銀の水盤に手を浸す。その水に触れた瞬間、三年間という時間は彼らの頭から綺麗に洗い流される。
僕は自分の番を待ちながら、隣の空席に視線を送った。そこには、僕にしか見えない陽菜が、少し寂しそうに座っていた。
真実を知ってからの数週間、僕たちは言葉少なに、けれど確かに、残された時間を過ごした。僕はもう、シャッターを切ることはなかった。記録に残せないのなら、ただこの目に、この心に、彼女の姿を焼き付けようと決めたからだ。
「蒼くんは、怖くないの? 全部、忘れちゃうんだよ」
陽菜が囁く。
「怖いさ。でも、もういいんだ」
僕は静かに答えた。
「君を忘れるのは、耐えられないほど辛い。でも、君と出会わなかった世界より、ずっといい。僕は、君がいたっていう事実だけで、もう十分なんだ」
抵抗することをやめた時、不思議と心は凪いでいた。失うことを恐れるのではなく、かつてここに在ったという事実を、祝福する。それが、僕が見つけた唯一の答えだった。
自分の名前が呼ばれる。僕は立ち上がり、祭壇へ向かう。その途中、一度だけ足を止め、陽菜がいた場所を振り返った。そして、胸に提げたカメラを構えた。これが、僕の最後の抵抗であり、受容の証だ。
カシャリ。
ファインダーには、空っぽの椅子と、そこに差し込む午後の光だけが映っていた。けれど僕には見えた。はにかむように笑って、小さく手を振る陽菜の姿が。
―――
どれくらいの時間が経っただろうか。
僕は今、見慣れない街で、新しい生活を始めている。暁星学園を卒業したはずだが、不思議なことに、そこでの記憶はすっぽりと抜け落ちている。友達がいたのか、どんな授業があったのか、何も思い出せない。
ただ、僕の部屋の壁には、一枚だけ写真が飾ってある。
いつ、どこで撮ったのかも分からない、一枚の写真。
がらんとした教室の、空っぽの椅子。そこに、まるで誰かが座っていたかのように、優しい光が溜まっている。
理由も分からないのに、僕はその写真を捨てられないでいる。時々、無性にその写真が愛おしくなり、胸の奥がきゅっと締め付けられる。それは悲しみとは少し違う、温かくて、どこか誇らしいような、名前のつけられない感情だった。
記憶は消えた。記録にも残らなかった。
けれど、日向陽菜という少女が僕の魂に残した、鮮やかな色彩の残照は、今も確かに、ここに在る。僕はその光を頼りに、これからも歩いていくのだろう。忘れてしまった、大切な誰かとの約束を、果たすために。