第一章 軋む家、沈黙する母
湊(みなと)がこの家で感じるのは、常に無数の視線だった。それは壁に染みた染みでも、床の軋みでもない。この家に住み着き、時間の澱となって沈殿した、物言わぬ家族たちの視線だ。
築百年を超える木造家屋。その薄暗い廊下の突き当たりでは、曽祖父が宿るという黒光りしたロッキングチェアが、誰も座っていないのに時折小さく揺れる。客間の隅では、祖母の魂が移ったとされる足踏みミシンが、錆びた針を鈍く光らせている。そして書斎の机上には、若くして死んだ父の形見である万年筆が、まるで主の帰りを待つ忠犬のように鎮座していた。
彼らは、湊の一族の習わしに従い、死後、その魂を最も愛用した「モノ」に宿した者たちだ。湊にとっては、それは呪いにも等しい風習だった。生きている人間は湊ひとり。しかし、家は死んだ家族で満員だった。彼らは声を発しない。だが、その存在感は重く、濃密な沈黙となって湊の全身に絡みつき、彼の思考や行動のひとつひとつを値踏みしているかのように感じられた。家を出たい。この息苦しい監視から逃れたい。その思いだけが、湊を内側から突き動かす唯一の熱だった。
そんな湊にとって、唯一の理解者であり、この家の「外」を感じさせてくれる存在が母だった。母はいつも「私が死んだら、何も残さないで。モノになんてなりたくないわ。風になって、自由にどこへでも行きたいの」と、冗談めかして言っていた。その言葉は、湊にとっての希望だった。母だけは、この家の因習に囚われない。
しかし、その母が、先月、あっけなく病で逝った。
葬儀が終わり、喧騒が去った家は、以前にも増して静まり返った。だが、その静寂はどこか異質だった。何かが変わり始めていた。湊が異変に気づいたのは、母の死から一週間が経った頃だ。
母がいつも食事の時に座っていた、ダイニングテーブルの椅子。何の変哲もない、使い古された木製の椅子。その椅子が、明らかに「母の気配」を帯び始めていたのだ。
夕食の準備をしていると、背後でその椅子が微かに軋む。まるで母が「お疲れ様」と腰を下ろす時のように。部屋の空気が、ふわりと母の好きだったラベンダーの香りを運んでくる気がする。気のせいだ、と湊は何度も首を振った。だが、日に日にその気配は濃くなり、椅子に宿る存在感は、他のどの「モノ」よりも鮮明になっていった。
「嘘だろ……母さん……」
湊はダイニングチェアの前に立ち尽くした。自由になりたいと、あれほど言っていた母までが、この家の呪われた伝統の新たな一体になった。湊をこの家に縛り付ける、新たな監視者になった。
絶望が、冷たい水のように湊の心を浸していく。もはや、一刻の猶予もなかった。
彼は、この家を、そして「家族」のすべてを、捨てなければならない。そう固く決意した。その決意の硬さとは裏腹に、背後のダイニングチェアは、ただ静かに彼の背中を見つめているだけだった。
第二章 モノたちの反乱
決意を固めた湊の行動は早かった。インターネットで地元の不動産業者を探し、最も手際が良さそうな会社に連絡を取った。電話口の男は、古い家屋の売却にも慣れていると、自信たっぷりに言った。
翌日、約束の時間通りにやってきたのは、小太りで人の良さそうな笑みを浮かべた中年男性だった。
「いやあ、立派な梁ですね。これは価値がありますよ」
男は玄関先でそう言うと、手にしたバインダーに何かを書き込んだ。しかし、彼が家の奥へと一歩足を踏み入れた瞬間、家の空気が変わった。
ギィ……ッ。
まず、廊下のロッキングチェアが、まるで警告を発するかのように、大きく、不気味な音を立てて揺れ始めた。風もないのに。
「おや?」と業者が眉をひそめた。
その時だった。
カタカタカタカタカタッ!
客間の隅から、けたたましい音が響き渡った。祖母のミシンだ。踏み板が高速で上下し、錆びた針が空の布を猛烈な勢いで突き刺している。それはまるで、侵入者に対する威嚇の叫びのようだった。
「な、なんだ……?」
業者の顔から笑みが消える。彼の額にじわりと汗が滲んだ。湊が「すみません、古い家なので」と取り繕う間もなく、さらなる異変が起きた。
書斎の方から、パリン、とガラスの割れるような鋭い音がした。駆けつけると、父の万年筆が机から転がり落ち、ペン先が砕け、濃紺のインクが床板に醜い染みとなって広がっていた。インクのツンとした匂いが、埃っぽい空気に混じり合う。
家中の「モノ」たちが、一斉に反乱を起こしたかのようだった。それは湊が今まで経験したことのない、明確な敵意と抵抗だった。
「……申し訳ありませんが、」業者は青ざめた顔で後ずさりながら言った。「なんだか、このお宅は……その、少し気味が悪い。うちではちょっと、扱えないかもしれません」
そう言い残すと、彼は逃げるように家を去っていった。
一人残された湊は、床に広がったインクの染みを呆然と見つめていた。怒りが、ふつふつと腹の底から湧き上がってくる。
「いい加減にしろ!」
彼は、生まれて初めて、この家のモノたちに向かって叫んだ。
「あんたたちは死んだんだ! なぜ、まだ生きている人間を縛り付ける! 俺はここから出ていくんだ。あんたたちみたいに、モノになって一生を終えるつもりはない!」
声は虚しく家に響き渡り、沈黙に吸い込まれていった。ロッキングチェアの揺れも、ミシンの音も、ぴたりと止んでいた。まるで、湊の絶叫を嘲笑うかのように。
無力感に打ちひしがれながら、湊は母の遺品を整理し始めた。いっそ、この家ごと燃やしてしまおうか。そんな過激な考えさえ頭をよぎる。タンスの引き出しの奥、母の古いセーターの下から、一冊の古びた日記帳を見つけたのは、そんな時だった。表紙には、母の優美な筆跡で、こう記されていた。
『我が愛する湊へ。あなたが真実を知る日のために』
第三章 記録者の真実
日記は、湊の知らない母の言葉で満ちていた。それは単なる日々の記録ではなく、この家に代々伝わる、驚くべき秘密の告白だった。湊はページをめくる指が震えるのを感じながら、一心不乱に文字を追った。
『湊、あなたがこの家を息苦しく感じていることは、ずっと前から知っていました。物言わぬモノたちに囲まれ、孤独を感じていたことも。ごめんなさい。あなたに、本当のことを話せなかった臆病な母を許してください』
日記によれば、この一族の者が死後モノに宿るのは、ただの風習や超常現象ではなかった。それは、一族に伝わる特殊な能力と、重大な使命に起因する、意図的な儀式だというのだ。
彼らの一族――湊の血にも流れている力――は、魂を特定の物質に定着させ、その意識を永らえさせることができる。そして、その目的は子孫を監視し、縛り付けるためでは断じてなかった。
『私たちは「記録者」の一族なのです。この世界から忘れ去られようとしている歴史、権力者によって書き換えられた真実、失われた技術や物語。それらを集め、守り、後世に伝え続けること。それが私たちの使命。この家は、その膨大な「記録」を収めた書庫であり、要塞なのです』
曽祖父のロッキングチェアも、祖母のミシンも、父の万年筆も。彼らは湊を監視していたのではない。彼らは、この家に眠る「記録」を、そして唯一の跡継ぎである湊を、外部のあらゆる脅威から守るための「守護者」だったのだ。不動産業者が来た時の反乱は、得体の知れない侵入者から、家と湊を守るための必死の抵抗だった。
湊の全身から、力が抜けていくようだった。息苦しさの正体。それは、守られていることへの不自由さだったのか。憎んでいたモノたちは、ただひたすらに自分を守ろうとしていた家族だった。価値観が、音を立てて崩れ落ちていく。
日記の最後のページに、湊は息を呑んだ。
『だから、私もこの家に残ることに決めました。風になって自由に飛び回るよりも、あなたの傍で、あなたが進むべき道を示す灯りになりたい。それが、私の選んだ自由です。湊、ダイニングチェアに座って、怖がらずに、心で呼びかけてごらんなさい。私たちはずっと、あなたと話せる日を待っていたのですから』
母は、自らの意志で「モノ」になることを選んだ。湊にこの真実を伝え、彼を導くために。それは呪いなどではなかった。それは、母の最後の、そして最大の愛情表現だったのだ。
「母さん……」
湊の頬を、熱い涙が伝った。それは、何年もの間、彼の心に溜まっていた孤独と誤解が、ようやく溶け出した涙だった。
第四章 開かれる扉、始まる物語
湊は、まるで初めて見るかのように、ダイニングチェアを見つめた。使い古された木の温もり。そこに座っていた母の笑顔が、ありありと目に浮かぶ。彼は恐る恐る、しかし、確かな意志を持ってその椅子に深く腰掛けた。そして、母の言葉通り、目を閉じて心の中で呼びかけた。
(母さん……聞こえるかい? ずっと、寂しかったんだ)
その瞬間、奇跡が起きた。
ふわり、とラベンダーの香りが鼻腔をくすぐる。それは気のせいなどではなかった。温かい何かが、そっと彼の背中を包み込むような感覚。母の優しい抱擁そのものだった。
すると、その温もりに呼応するように、家中のモノたちが一斉に静かな光を放ち始めた。
ギィ……。
曽祖父のロッキングチェアが、ゆりかごのように優しく、穏やかなリズムで揺れ始める。
カタン……コトン……。
祖母のミシンが、まるで子守唄を奏でるかのように、懐かしい音を立てる。
そして、書斎から、小さな光の筋が伸びてきた。父の万年筆が放つ光だった。砕けたはずのペン先から、柔らかな燐光が生まれ、部屋の隅の、今までただの壁だと思っていた一点を、まっすぐに指し示していた。
湊は導かれるように立ち上がり、その壁に手を触れた。指先に、わずかな継ぎ目の感触がある。力を込めて押すと、壁は重い音を立てて内側へと開き、隠された通路が現れた。
通路の先には、円形の書斎があった。壁一面が天井まで届く書棚で埋め尽くされ、そこには意匠の凝らされた革張りの本が、何百、何千冊となく並んでいた。それは、一族が何世代にもわたって書き継いできた「世界の記憶の書」だった。忘れられた王国の年代記。失われた言語で書かれた詩集。異端として葬られた科学者の論文。その全てが、ここに守られていたのだ。
湊は、自分が背負うべきものの巨大さを知り、震えた。彼は、ただ古い家に生まれた青年ではなかった。歴史の奔流から零れ落ちた無数の物語を掬い上げ、未来へと繋ぐ「記録者」の一族、その最後の末裔だった。
彼を縛り付けていると感じていた鎖は、実は、彼を守り、この場所へ導くための、家族の愛の絆だったのだ。
湊は、家を売るのをやめた。
彼は書斎の中央に置かれた巨大な机に向かう。そこには、父が使っていた万年筆が、まるで彼の到着を待っていたかのように置かれていた。インクは、もう染みになってはいなかった。それは補充され、いつでも文字を紡げるように準備されていた。
湊はその万年筆を、そっと手に取った。驚くほど、しっくりと馴染む。彼は、書棚から一冊の、まだ何も書かれていない真新しい本を取り出し、その最初のページを開いた。
深く息を吸い込み、ペン先を紙に下ろす。
彼がこれから書き始めるのは、彼自身の物語であり、この家に集う家族たちの新たな物語であり、そして、彼が受け継いだ、世界の記憶の続きだった。
彼の背後で、母が宿るダイニングチェアが、満足したように、愛情を込めて、かすかに「きしり」と音を立てた。その音は、もはや湊にとって息苦しい監視の音ではなく、温かい励ましのコーラスに聞こえていた。