***第一章 埃をかぶった宝石***
祖母が亡くなったという知らせは、都会の喧騒に疲れた俺の耳に、まるで遠い国の出来事のように響いた。三年ぶりの帰省。玄関の引き戸を開けると、線香の匂いと、懐かしい家の匂いが混じり合って鼻をついた。リビングの古い飾り棚には、祖母の遺影の隣に、生まれたばかりの小さな「記憶結晶」がちょこんと置かれていた。それは乳白色の、冷たくて悲しい光をたたえた石だった。
この世界では、家族が共有する強い感情は、「記憶結晶」として具現化する。幸せな記憶は暖かく光を放ち、悲しい記憶は冷たく鈍い色を帯びる。人々はそれを家の最も大切な場所に飾り、家族の歴史として慈しむのだ。俺が子供の頃、この棚は七色に輝く宝石箱のようだった。しかし今、棚に並ぶ結晶たちは、どれも埃をかぶって色褪せて見えた。
「翔太、よく帰ってきたね」
母が、泣き腫らした目で俺を迎えた。父は黙って頷くだけだ。俺たちの間に流れる空気は、棚の上の結晶たちと同じように、どこか冷たく、色褪せていた。
俺は、棚の奥に押しやられるようにして置かれている、一つの結晶に目をやった。それは、子供の拳ほどもある、ひときわ大きく、光を一切通さない漆黒の塊だった。表面はゴツゴツとしていて、まるで溶岩が冷え固まったかのようだ。物心ついた頃から、それは「不吉な石」として、家族の誰もが触れることを避けてきた。俺も、あの石が放つ不穏な冷気を感じるたびに、胸の奥がざわつくのを感じていた。
大学進学を機に家を出て、もう十年になる。仕事に追われ、家族との連絡も次第に疎かになっていた。実家にいると、この埃をかぶった結晶たちのように、自分の時間までが停滞していくような息苦しさを感じる。早く都会の、無機質で、けれど自由な空気に戻りたかった。俺は、この家に刻まれた家族の歴史から、目を逸らすようにして生きてきたのだ。
***第二章 日記が語る光と影***
祖母の遺品整理は、思ったよりも淡々と進んだ。タンスの奥から出てきたのは、丁寧に畳まれた着物と、古びたアルバム。そして、一冊の分厚い日記帳だった。母は「おばあちゃん、マメだったからね」と寂しそうに笑った。
夜、自室で何気なくその日記をめくってみた。几帳面な文字で、日々の出来事が綴られている。そして、時折、記憶結晶が生まれた日のことが、特別なインクで記されていた。
『昭和六十年 夏。家族で初めて海へ。翔太が波にはしゃぐ姿に、皆で大笑いした。太陽の光を吸い込んだような、温かいオレンジ色の結晶が生まれた。』
俺は棚にあったオレンジ色の結晶を思い出した。手に取ると、子供の頃に感じた真夏の陽射しのような、優しい温もりが伝わってくる気がした。
ページをめくる。
『平成二年 春。翔太が補助輪なしで自転車に乗れた日。何度も転んで膝を擦りむいて、あの子は半べそだった。見守る夫の顔は心配で強張っていたけれど、やっと乗れた瞬間、誰より嬉しそうに笑っていた。喜びと心配が混じった、少し曇った水色の結晶。』
日記の一文一文が、忘れかけていた風景を鮮やかに蘇らせていく。ただの石ころだと思っていた一つ一つに、俺の知らない両親や祖母の愛情が、こんなにも深く刻み込まれていたのか。俺は、自分が家族の歴史の、紛れもない中心にいたことを、今更ながらに思い知らされていた。結晶たちを古臭いものだと疎んじていた自分が、ひどく浅はかに思えた。胸の奥が、ちりちりと痛んだ。
俺は、あの黒い結晶のことが気になり、日記のページを急いでめくった。しかし、日記は俺が高校生になったあたりで終わっていた。祖母は晩年、物忘れがひどくなっていたのだ。黒い結晶に関する記述は、どこにも見当たらなかった。
***第三章 黒い結晶の誕生秘話***
翌朝、俺は意を決して、リビングで新聞を読んでいた父に尋ねた。
「親父、あの黒い石…あれは、いつできたものなんだ?」
父は新聞から顔を上げず、母は台所で手を止めた。重い沈黙が流れる。やがて、父が諦めたようにため息をつき、新聞を畳んだ。
「お前にとっては、誕生日石のようなものだ」
「誕生日石?どういうことだよ」
母が、お盆に湯呑みを二つ乗せてやってきた。その指先は、かすかに震えている。
「翔太、あなたはね…生まれてくるとき、とても大変だったの」
母の口から語られたのは、俺が全く知らなかった事実だった。俺は予定日より二ヶ月も早く生まれた未熟児で、体重は千グラムにも満たなかった。保育器の中で、か細い呼吸を繰り返し、何度も危篤状態に陥ったという。
「医者からは、何度も『覚悟してください』と言われた」
父の声は、遠い過去の痛みをなぞるように、低く、かすれていた。
「何もできないんだ。ただ、ガラス越しに、あんなに小さな体で必死に生きようとしているお前を見ていることしか。…怖かった。本当に、怖かった。この子を失ってしまうんじゃないかっていう、奈落の底に突き落とされるような恐怖だった」
母が、湯呑みを置いた手で目元を覆った。
「でもね、同時に、強く、強く思ったのよ。『生きて』って。『どうか、この子の命を助けてください』って。神様にも、仏様にも、目に見えない全ての力に祈ったわ。お父さんも、おばあちゃんも、みんな同じ気持ちだった」
その時だった。病院の待合室のテーブルの上に、まるで虚空から滲み出すようにして、あの黒い結晶が現れたのだという。息子を失うかもしれないという絶望的な恐怖。我が子の生命力に対する、祈りにも似た強烈な愛情。その二つの、相反する巨大な感情が渦を巻き、混ざり合い、あの冷たくて、不格好で、けれど何よりも重い、漆黒の結晶を生み出したのだと。
「あれは、不幸の象徴なんかじゃない」
父が、初めて真っ直ぐに俺の目を見て言った。
「あれは、お前がこの世界に生まれようと戦っていた証であり、俺たちが、お前の命を何よりも大切に想っていた証だ。…俺たちの、家族の原点なんだよ」
俺は言葉を失い、飾り棚の黒い結晶を見つめた。
不吉な石。忌まわしい塊。
そう思っていたものが、全く違う意味を持って目の前に存在していた。あれは、俺が受けた最初の、そして最大の愛情の形だったのだ。俺という存在が、どれほどの恐怖と祈りの中でこの世に生を受けたのか。その事実の重さに、全身が震えた。
***第四章 原点のぬくもり***
俺は、吸い寄せられるように棚に近づき、生まれて初めて、あの黒い結晶に手を伸ばした。指先が触れた瞬間、いつも感じていたはずの、肌を刺すような冷気はなかった。代わりに、ずっしりとした重みとともに、岩盤の下を流れるマグマのような、微かで、しかし確かな温もりが手のひらに伝わってきた。
それは、恐怖という分厚い殻を突き破って染み出してくる、命がけの愛情の熱だった。俺は、その結晶を両手でそっと包み込んだ。まるで、保育器の中にいた小さな自分自身を抱きしめるように。涙が、後から後から溢れてきて、止まらなかった。見過ごしてきた時間、目を逸らしてきた愛情、その全てが、この石の温もりを通して流れ込んでくるようだった。
数日後、俺は都会のアパートに戻った。がらんとした部屋の、小さな本棚の上。そこに、実家から持ってきたあの黒い結晶が、静かに鎮座している。
あの日、俺は両親に頭を下げ、この石を譲ってほしいと頼んだ。二人は驚いた顔をしたが、最後には「お前が持っているのが一番だ」と、優しく笑ってくれた。
今、俺の部屋にある黒い結晶は、もはや不吉な石ではない。それは、俺が何かに迷った時、くじけそうになった時に立ち返るべき、俺自身の原点だ。家族との揺るぎない絆の証であり、俺がどれほど強く望まれてこの世に生まれてきたかを教えてくれる、世界でたった一つの誕生石なのだ。
窓から差し込む西日が、黒い結晶のゴツゴツした表面を照らす。その時、俺は見た気がした。光を一切通さなかったはずの漆黒の奥深くで、まるで遠い星のように、小さな、小さな光が一瞬だけ、瞬いたのを。それは、俺の新たな決意に、家族の愛が応えてくれたかのような、ささやかで、けれど何よりも力強い輝きだった。
記憶結晶と黒い誕生石
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