第一章 軋む記憶の歯車
祖父が死んで、僕、宮田健太の手に残されたのは、一台の古びたからくりオルゴールだった。黒ずんだ黄楊(つげ)の木で作られた箱は、長年の手沢で滑らかになっているものの、蓋の縁には無数の細かい傷が刻まれている。遺品整理をしていた母が、「おじいちゃん、これを健太にって。一番のお気に入りだったから」と言って、半ば押し付けるように渡してきた。僕はそれを自室の机の隅に、まるで忘れ去られた置物のように放置した。
僕にとって祖父は、物静かで、何を考えているのかよく分からない人だった。週末に実家を訪れても、縁側で黙って庭を眺めているか、書斎で古い本を読んでいるかで、僕とまともに話した記憶はほとんどない。そんな祖父の「一番のお気に入り」と言われても、正直、ピンとこなかった。むしろ、現代的なミニマリストを気取る僕の部屋には、不似合いな骨董品でしかなかった。
その日、僕は大学のレポートに追われ、深夜まで机に向かっていた。積み上げた資料を雑に取ろうとした腕が、不意にオルゴールに当たった。ガタン、と鈍い音を立てて床に転がり落ちる。慌てて拾い上げると、幸い木箱に大きな傷はなかったが、蓋を開けてみて、僕は小さく舌打ちをした。内部の精密な歯車の一つが、軸から外れて転がり出ていたのだ。直径五ミリほどの、真鍮製の小さな歯車。まあいいか、と僕はそれをティッシュに包んで引き出しの奥にしまい込み、壊れたオルゴールを再び机の隅に戻した。もとより鳴らすつもりのないガラクタだ。何かが一つ欠けたところで、僕の日常に変化はない。
そう、思っていた。
翌日の食卓で、異変は起きた。母が作った朝食の味噌汁を一口すすった妹の美咲が、首を傾げた。
「お母さん、今日の味噌汁、なんか違うね」
「そう? いつもと同じ、おじいちゃん直伝の合わせ味噌よ」
母の言葉に、僕は箸を止めた。祖父直伝? 祖父が亡くなってから、母は思い出話のように「おじいちゃんの味」を食卓に並べることが増えていた。だが、今日の味噌汁は、僕が知る限り、いつもの母の味だ。祖父が作っていたのは、もっと赤味噌の風味が強い、独特のコクがあるものだったはずだ。
「え? おじいちゃんって、料理したっけ?」
美咲が、心底不思議そうに言った。僕だけでなく、母までもが「さあ…どうだったかしら」と曖昧に目を伏せる。二人とも、まるで祖父が丹精込めて味噌を作っていた事実そのものを、頭の中から消し去ってしまったかのようだった。
僕の背筋を、冷たいものが走り抜ける。まさか。そんな馬鹿なことがあるはずない。僕は食卓での奇妙な空気を振り払うように、自室に駆け込んだ。机の隅のオルゴール。そして、引き出しの奥にしまい込んだ、あの小さな歯車。偶然だ、と自分に言い聞かせようとしても、胸のざわめきは一向に収まらなかった。
第二章 沈黙のメロディ
オルゴールと家族の記憶喪失。その二つを結びつけるのは、あまりに非科学的で、荒唐無稽な妄想に思えた。しかし、それからの数日間で、僕の疑念は確信へと変わっていった。
母は、毎年夏になると祖父と三人で出かけた海辺の花火大会の場所を、どうしても思い出せなくなった。美咲は、幼い頃に祖父から教わった星の名前を、一つ残らず忘れてしまっていた。家族の会話の端々に、ぽっかりと穴が空いていく。それは、祖父との思い出だけが、まるで精密な手術で切り取られたかのように、綺麗に失われていく奇妙な現象だった。そして、その喪失に気づいているのは、オルゴールを壊した張本人である僕だけだった。
罪悪感と焦燥感に駆られた僕は、オルゴールを修理しようと決意した。インターネットで探し出した、街の古びた時計店。店主の老人は、僕が持ち込んだオルゴールをルーペ越しに覗き込むと、深く長い溜息をついた。
「こいつは…ただのオルゴールじゃねえな。記憶を音に変換する…いや、音を楔にして記憶を留めるための装置だ。こんな精巧な細工、今じゃ誰もできんよ」
老人の言葉は、僕の妄想を肯定していた。彼は、外れた歯車を見るなり、静かに首を振った。
「残念だが、この歯車は直せねえ。一つ一つの歯の角度が、特定の記憶の波長に合わせて削り出されている。同じものは二度と作れん。下手にいじれば、残っている記憶までバラバラになっちまう」
絶望的な宣告だった。僕は、自分の不注意が、家族からかけがえのない時間を奪ってしまったのだと痛感した。リビングに戻ると、母と美咲が古いアルバムを広げていた。
「見て、健太。この写真、いつ撮ったんだっけ?」
母が指さしたのは、祖父が僕と美咲を両脇に抱え、満面の笑みを浮かべている一枚だった。背景には、見覚えのある遊園地の観覧車が写っている。僕の七歳の誕生日、祖父が連れて行ってくれた日だ。
「ああ、これ…」と僕が言いかけると、美咲が不思議そうに呟いた。
「なんでおじいちゃん、こんなに笑ってるんだろう。いつも難しい顔してたのに」
その言葉は、僕の胸を鋭く抉った。違う。祖父はいつも笑っていたわけではない。だが、僕たち孫に向ける眼差しは、いつも温かかった。その温もりを、二人とも忘れてしまったのか。アルバムの中の祖父だけが、色褪せた世界で、失われた愛情を懸命に伝えようとしているように見えた。
僕は、これまで家族の思い出や歴史を、どこか古臭くて面倒なものだと思っていた。しかし、それが目の前で砂のように崩れ去っていく今、失うことの本当の恐ろしさを知った。壊れたオルゴールは、もう美しいメロディを奏でることはない。ただ沈黙のうちに、僕たちの家族が、少しずつ、しかし確実に、何かを失い続けていることを告げているだけだった。
第三章 封じられたレクイエム
オルゴールを直す術がないと知り、僕は途方に暮れた。他に何か手がかりはないか。藁にもすがる思いで、僕はこれまで足を踏み入れたこともなかった祖父の書斎を漁り始めた。埃っぽい本の山をかき分け、引き出しを片っ端から開けていく。そして、一番奥の引き出しの底板を外した隠し場所から、一冊の古い日記を見つけ出した。
震える手でページをめくる。そこには、祖父の几帳面な文字で、オルゴールの真実が綴られていた。それは僕の想像を遥かに超える、衝撃的な内容だった。
『このオルゴールは、我が家に代々伝わる「記憶の器」だ。楽しい思い出を美しい音色に変え、家族の心を繋いできた。だが、その真の役目は、それだけではない。それは、耐え難いほどの辛い記憶を、その音色の奥深くに封じ込め、家族を苦しみから守るための「鎮魂の箱」でもあるのだ』
心臓が大きく脈打った。読み進めるうちに、僕はある記述に釘付けになった。それは、僕が五歳、美咲が三歳の夏の日のことだった。
『健太と美咲が庭で遊んでいた。少し目を離した隙に、健太がふざけて美咲を突き飛ばし、彼女は石段から転げ落ちた。美咲の左足は複雑骨折し、一時は歩けなくなるかもしれぬと医者に言われた。健太は自らを責め、言葉を失った。妻(僕の母)は、罪悪感と絶望に打ちひしがれた。このままでは、この家族は壊れてしまう』
僕は息を呑んだ。そんな事件、僕の記憶には全くない。しかし、日記は続いていた。
『私は、オルゴールに最後の手段を託した。あの日の絶望、健太の罪悪感、妻の悲しみ、そして美咲の肉体的な苦痛。その全ての記憶を、新しく作り出した一つの歯車に封じ込めた。オルゴールがその記憶を鎮魂のメロディとして奏で続ける限り、家族はあの日の悪夢を忘れ、穏やかな日常を取り戻せるはずだ。いつか、家族がこの傷を乗り越えられるほど強くなった時、この封印は解かれるべきなのかもしれない。だが、今はまだ、その時ではない』
全身から血の気が引いていく。僕が落として壊してしまったあの小さな歯車。それは、祖父との楽しい思い出を留めていた部品などではなかった。それは、僕の家族が背負っていた最も深い傷、最も辛い記憶を封じ込めていた「楔」そのものだったのだ。
だから母も美咲も、あの事故を覚えていない。僕自身も。祖父は、僕たちを守るために、家族の歴史を書き換えていたのだ。オルゴールが壊れたことで、その封印が解け始めている。失われていたのは、祖父との楽しい思い出ではなかった。その楽しい思い出と引き換えに、僕たちが忘れることを許されていた「痛み」だったのだ。
リビングへ戻ると、空気が凍りついていた。ソファに座る美咲が、自分の左足首をさすっている。彼女の足首には、僕が今まで気づかなかった、古傷の痕跡がうっすらと残っていた。
「…なんだか、この足がズキズキ痛むの」
隣に座る母の顔は青ざめていた。
「美咲…ごめんね。お母さんが、あの時ちゃんと見ていれば…」
断片的に蘇り始めた記憶が、悪夢のように二人を苛んでいる。それは、祖父が作り出した偽りの平穏が、終わりを告げる音だった。
第四章 奏でなき明日へ
僕の目の前で、家族が静かに壊れていく。母は理由の分からない罪悪感に苛まれ、美咲は蘇る痛みの記憶に怯えていた。このままではいけない。祖父が守ろうとした平穏は、もうここにはないのだ。僕は覚悟を決めた。
その夜、僕は二人をリビングに集め、祖父の日記と、壊れたオルゴールをテーブルの上に置いた。そして、震える声で、すべてを打ち明けた。僕がオルゴールを壊したこと。それがただの思い出の箱ではなく、辛い記憶の封印だったこと。そして、僕たちが忘れていた、あの夏の日の事故のこと。
僕の話が終わると、長い、重い沈黙が部屋を支配した。最初に口を開いたのは、母だった。
「…思い出したわ。あなたが毎晩、うなされていたこと。美咲のベッドのそばで、ずっと泣いていたこと…」
母の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、封印されていた悲しみの奔流だった。
「私は、あなたを責めてしまうのが怖かった。だから…忘れることを選んだのね、無意識に」
美咲は、黙って僕の顔をじっと見ていた。その瞳には、戸惑いと、そして僕が知らない深い痛みがあった。
「だからか…。私、昔から、健太が私に優しくしてくれるたびに、どこか息苦しかった。理由も分からずに。…ずっと、何か大きな忘れ物をしているような気がしてた」
僕は、二人の前に深く頭を下げた。
「ごめん。僕のせいで、美咲に辛い思いをさせて。僕が、全部壊してしまったんだ」
その時、美咲の手が、僕の肩にそっと置かれた。
「ううん。健太のせいじゃない。誰も悪くないよ。…おじいちゃんも、きっと辛かったんだね。一人で全部背負って」
その言葉に、僕たちは顔を見合わせた。そうだ。一番苦しんだのは、家族を守るためにたった一人でこの秘密を抱え、偽りの平穏を演出し続けた祖父だったのかもしれない。
僕たちは、その夜、初めて本当の意味で家族になった。泣きながら、互いの罪悪感と痛みを分かち合った。それは、オルゴールが奏でるどんな美しいメロディよりも、ずっと心に響く、不器用で、けれど真実の対話だった。
翌日、僕はオルゴールを修理に出すことをやめた。代わりに、書斎の、祖父がいつも座っていた机の上に、壊れたままのオルゴールを飾った。外れた小さな歯車も、その隣にそっと置いた。
もう、このオルゴールが音を奏でることはない。僕たちは、いくつかの大切な思い出を永遠に失ったのかもしれない。けれど、僕たちはそれ以上に大切なものを取り戻した。痛みも、悲しみも、すべて引き受けて、それでも共に生きていくという覚悟。それは、記憶を封じ込めることで得られる脆い平穏ではなく、傷つきながらも未来を築いていく、揺るぎない絆だった。
沈黙したオルゴールは、まるで僕たちの新たな始まりを、静かに見守っているようだった。僕は、失われたメロディを惜しむ代わりに、これから家族三人で奏でていく、新しい日々の音に耳を澄ませていこうと、心に誓った。