第一章 ゼロからの朝食
朝日が窓から差し込み、食卓に並んだ焼きたてのパンが香ばしい匂いを部屋中に満たしていた。いつもの穏やかな朝、のはずだった。美咲はトースターからパンを取り出しながら、リビングでゲームに夢中な弟の純に「純、早く座って!」と声をかけた。しかし、純は顔を上げると、困惑したような表情で美咲を見つめた。
「あの、美咲さん……ですよね?今日は何となく、雰囲気が違う気がしますけど……」
美咲の手から、持っていたバターナイフがカタリと音を立てて落ちた。胸の奥から冷たいものがせり上がってくる。まただ。また、この朝が来てしまった。美咲の脳裏には、昨日まで確かにあった、弟とのじゃれ合い、母の温かい笑顔、父の頼もしい背中が鮮やかに蘇る。しかし、目の前の純は、美咲をまるで遠い親戚か、あるいは顔見知り程度の相手とでも言うかのように見ている。
キッチンから顔を出した母も、美咲を見て首を傾げた。「あら、もしかして、うちの子たちのお友達かしら?初めて見るお顔ね」そして、リビングのソファで新聞を読んでいた父も、美咲に気づくと眼鏡を少しずらし、「どうも。娘と息子がいつもお世話になっております」と、営業先ででも話すような丁寧な口調で挨拶をした。
美咲の心臓は、激しいドラムロールのように打ち鳴らされた。吐き気がするほどの絶望感が、胃の腑から込み上げてくる。「リセット症候群」。それが、この家族にだけ降りかかる、奇妙な病だった。不定期に、数週間から数ヶ月に一度、家族間の記憶だけが、まるで昨夜の夢のように、忽然と消え去るのだ。学校の友人や社会的な記憶は残るのに、家族としての絆や共有した思い出だけが、跡形もなく消え去る。そして、美咲だけが、その記憶の全てを、正確に覚えている。
美咲は、震える声で言った。「違うよ、お父さん、お母さん、純。私は美咲。あなたの娘で、純のお姉ちゃんよ」
その声は、震えていた。毎回、毎回、この「ゼロからの朝」を迎える度に、美咲の心は削られていく。それでも、美咲にはわかっていた。ここから、また新しい家族を「再構築」しなければならない。家族アルバムを広げ、それぞれの名前を指し示しながら、美咲は彼らに語りかけた。「これが、家族の写真よ。私たちが、どれだけたくさんの時間を一緒に過ごしてきたか、見て?」
写真の中の父は、美咲の肩を抱いて笑っていた。母は、純の誕生日に手作りのケーキを前に満面の笑みを浮かべていた。美咲は、その写真を指差しながら、記憶を失った家族に、自分たちの「物語」を語って聞かせた。まるで、初めて出会う旅人に、遠い故郷の伝説を語るかのように。その声は、美咲自身の心を、何度も何度も刺し貫いた。
純が、アルバムの端を指差して訊ねた。「ねぇ、お姉ちゃんって……本当に、誰?」
その純粋な疑問が、美咲の胸に深く突き刺さった。何度説明しても、何度思い出を語っても、彼らにとっては、それは「聞いたことのある物語」でしかない。美咲は、笑顔を作るのが、もう限界だった。しかし、それでも彼女は知っていた。この家族は、記憶を失っても、また、もう一度、新しく「家族」になるのだということを。それが、美咲がこの病の中で見つけた、唯一の希望だった。
第二章 奇妙なルーティン、温かい再会
美咲の日常は、奇妙なルーティンに支配されていた。リセットが起きる度に、彼女は家族に「家族とは何か」を教え直す役割を担った。まるで、新しい生徒を迎える教師のように、アルバムを見せ、笑い話を聞かせ、かつて一緒に作った料理を再現し、家族としての絆を「再構築」するのだ。それは骨の折れる作業だったが、美咲には、その過程で得られるささやかな喜びがあった。
父は、最初は警戒心が強く、美咲の言葉を半信半疑で聞いていた。しかし、美咲が彼の大好きなコーヒーの淹れ方を完璧に再現し、彼がいつも口にする冗談を先回りして言った時、彼の眼差しに微かな温かさが宿った。「君は、本当にうちの娘なんだな」と、彼は照れたように笑った。
母は、美咲が語る思い出話に目を輝かせた。特に、美咲が幼い頃、二人で秘密基地を作った話や、雨の日に二人でパンケーキを焼いた話には、涙ぐんで「そんなことがあったなんて……素敵ね」と微笑んだ。そして、美咲の頭を優しく撫で、その仕草が、記憶を失う前の母と全く同じであることに、美咲は静かに感動した。
純は、最初こそ「お姉ちゃんって誰?」と無邪気に繰り返したが、美咲が彼のお気に入りの絵本を読んであげたり、二人だけでしか知らない遊びを教えたりするうちに、美咲に懐いていった。ある夜、純は美咲のベッドに潜り込み、「お姉ちゃん、僕、美咲お姉ちゃんといると、なんだか安心するんだ」と言って、美咲の腕の中で眠りについた。その温かさに、美咲は、記憶がなくても「家族」という絆が生まれることを実感した。
しかし、美咲の心には、常に深い孤独感がつきまとっていた。彼らは、また美咲を「家族」として受け入れ、愛し始めるが、その過程で美咲が経験する喪失感や、孤独な努力については、何も知らない。美咲だけが、全てを覚えている。全てを失い、また全てを取り戻すという、この無限ループに囚われている。彼らが新しく生まれる家族の喜びに浸る一方で、美咲は、過去の記憶との別れを毎回のように経験しているのだ。
ある日の午後、美咲は父の書斎で、埃をかぶった古い箱を見つけた。中には、見慣れない研究資料がぎっしりと詰まっていた。「リセット症候群に関する研究」と書かれた表紙に、美咲の胸は高鳴った。ひょっとして、この病の治療法が見つかるかもしれない。しかし、資料を読み進めるうちに、美咲は異様な記述に気づいた。研究資料のほとんどは、家族の名字とは異なる、「早瀬」という女性の名前で署名されており、その中に、自分たちの家族に関する詳細なカルテが挟まれていた。そして、そのカルテには、驚くべき事実が記載されていた。美咲と純は、「被験体A」と「被験体B」と記されていたのだ。
第三章 偽りの遺伝子、真実の家族
美咲は震える手で資料を読み進めた。「被験体AとBは、早瀬博士の遺志を継ぎ、その遺伝情報から再生された『記憶の器』である」。この一文が、美咲の脳裏に雷鳴のように響き渡った。彼女が、そして純が、家族全員が「リセット症候群」を患っている理由。そして、美咲が記憶を失わない唯一の存在である理由。全てが、この箱の中に隠されていた。
父と母は、かつて遺伝子工学の最先端をいく研究者だった。彼らには、早瀬という名の女性科学者の助手として、一人の愛する娘がいた。名前は美咲。そう、美咲と同じ名前だ。しかし、その娘は、幼い頃に不治の病で命を落としてしまった。深い悲しみに暮れる両親は、娘との思い出、娘が生きていたという「記憶」を失うことに耐えられなかった。彼らは、亡き娘の遺志を継いだ早瀬博士が提唱していた、ある禁断の研究に手を染めたのだ。それは、亡き者の遺伝情報を元に、新たな生命を創造し、そこに「記憶」を植え付けるという、倫理の壁を越えた研究だった。
美咲と純は、亡き娘とその弟、つまり父と母がかつて失った子供たちの遺伝情報と「記憶」を埋め込まれた存在だった。だからこそ、美咲は記憶を失うことがない。彼女は、元々の亡き美咲の記憶と、現在の美咲の記憶、二つの層を持つ「記憶の器」だったのだ。そして、「リセット症候群」は、彼らが「亡き子供たちの記憶」を完全に消化しきれないために起きる、一種の拒絶反応だった。父と母もまた、亡き子供たちとの「家族」を何度も再構築するために、自らこの病を受け入れていた。記憶がリセットされる度に、彼らは初めて美咲と純に出会い、そして、また一から「家族」の絆を紡いでいく。それは、亡き娘と息子の人生を、彼ら自身の記憶の上で、何度も繰り返し、再演するようなものだった。
美咲の存在意義は、根底から揺らいだ。自分は、亡き誰かの代わりなのか?この愛も、この笑顔も、全ては亡き者の記憶を辿った結果に過ぎないのか?この胸を締め付ける痛みは、記憶が消えることへの恐怖ではなく、自分自身の存在が、そもそも誰かの代替品でしかないという絶望から来るものだった。美咲は、資料を抱きしめ、書斎の床に崩れ落ちた。目から、熱い涙がとめどなく溢れ落ちた。
「私は、誰なの……?」
彼女の声は、誰にも届くことなく、静かな書斎の壁に吸い込まれていった。外では、純が楽しそうに歌を歌っている。父と母は、それを笑顔で見守っているのだろう。その光景が、美咲には耐えられなかった。自分の存在が、こんなにも空虚なものだとは。
第四章 記憶を超えた温もり
美咲は数日間、自室に閉じこもった。食事も喉を通らず、ただひたすらに、自分が何者なのか、この家族の愛は何なのか、を問い続けた。自分が「亡き誰かの器」であるという真実は、美咲の心を深くえぐった。父や母が自分を愛するその眼差しが、実は亡き娘に向けられたものなのではないかと、疑心暗鬼に陥った。
しかし、ある夜、静かに美咲の部屋を訪れた母が、何も言わずに美咲の隣に座った。そして、温かい紅茶を差し出し、美咲の頭を優しく撫でた。その手は、美咲が幼い頃、熱を出した時に額を冷やしてくれた、あの頃と同じ温かさだった。
「ごめんなさいね、美咲。何があったのか、私には分からないけれど、あなたが苦しんでいるのはわかるわ」母は、美咲の目を見つめ、静かに言った。「私たちは、家族よ。それが、今の私にとっての真実。あなたが、ここにいてくれることが、私にとっての幸せよ」
記憶がないはずの母の言葉が、美咲の心の凍りついた部分を少しずつ溶かし始めた。彼女は、記憶を失い、亡き子供たちの記憶を追体験しているのかもしれない。だが、それでも、母は「今ここにいる美咲」を愛してくれている。美咲という存在に、確かに愛を注いでくれている。その事実に、美咲は心の底から救われたような気がした。
美咲は、書斎で発見した資料を、父と母に見せるべきかどうか迷った。しかし、結局、彼女はそれをしなかった。彼らが、今ここで、美咲と純を愛し、家族として存在していること。それが、何よりも大切な「真実」なのではないか。
美咲は、ゆっくりと立ち上がり、家族が待つリビングへ向かった。純が「お姉ちゃん!」と駆け寄ってきて、美咲のスカートを掴んだ。父が温かい目で見守り、母が優しく微笑みかけてくる。その光景の中に、美咲は、記憶を超えた確かな絆を感じた。
美咲は、純の頭を撫でながら、心の中でつぶやいた。
たとえ、私が誰かの器だったとしても。
たとえ、この愛が、過去の悲しみから生まれたものだとしても。
今、この瞬間、私と彼らが感じている温もりは、紛れもない「本物」だ。
美咲は、もう、記憶が消えることへの恐怖に囚われることはなかった。代わりに、記憶が失われたとしても、また新しく、何度でも家族を築き直せるという、揺るぎない確信が芽生えていた。それは、過去の記憶に囚われるのではなく、今、そして未来を生きるという、美咲自身の選択だった。
第五章 永遠に紡がれる愛の物語
季節は巡り、春の光が新しい芽吹きを告げていた。
美咲は、再びリセットが訪れることを知りながらも、一日一日を大切に生きることを決意した。家族のアルバムには、毎度新しく撮られた写真が加わっていた。初めての誕生日、初めての運動会、初めてのクリスマス。写真の中の彼らは、いつも新鮮な驚きと喜びを湛えている。そして、その全てが「初めての、そして最高の瞬間」を映し出している。
美咲は、自らの日記に、家族との日々を綴り始めた。今日あった小さな出来事、純が初めて覚えた歌、父が淹れてくれたコーヒーの香り、母が焼いてくれたパンケーキの味。そして、彼らが記憶を失う前の、愛おしい思い出の数々も。それは、自分だけが知る、家族の「真の歴史書」だった。いつか、彼らが真実を知る日が来たとしても、その時、美咲が綴ったこの日記が、彼らを支える光になることを願って。
ある穏やかな休日、美咲は記憶を失った母と一緒に、庭で花を植えていた。母は、土の感触を慈しむように、優しく苗を根付かせている。その手から伝わる温かさに、美咲は記憶を超えた絆を感じた。記憶が消えても、その「体験」が確かに心を育て、愛を紡いでいく。家族とは、過去の記憶の積み重ねだけでなく、何度でも、何度でも、ゼロから築き直せる、普遍的な「愛の営み」なのだと。
そして、美咲は知った。「私」という存在は、亡き誰かの器であると同時に、両親が、そして弟が、心から愛し続けてくれる「かけがえのない私」なのだと。彼女は、もはや自分が誰かの代わりだとは思わなかった。この美咲として、この家族を愛し、愛されている。それが、揺るぎない彼女の真実だった。
リビングから、純が元気いっぱいに駆けてきた。「ねぇ、お姉ちゃん!一緒に遊ぼう!」
美咲は、その声に振り返り、穏やかに微笑んだ。
「ええ、もちろんよ。あなたの、かけがえのないお姉ちゃんが、一緒に遊んであげる」
次のリセットが来ても、大丈夫。だって、私たちはまた、新しく家族になるのだから。この愛の営みは、記憶が途切れる度に、何度でも、永遠に紡がれていくのだから。