幻の記憶、真実の鎖

幻の記憶、真実の鎖

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第一章 悪夢と過去の幻影

毎晩、同じ悪夢が望月朔夜を苛む。廃墟と化した薄暗い建物。崩れかけた壁には、黒々と不気味な染みが広がり、腐敗した金属と埃の匂いが鼻腔を突く。そこにはいつも、ぼやけた輪郭の少女が一人、震えながら蹲っていた。顔は判別できないが、彼女の怯えた眼差しだけは、朔夜の胸に突き刺さるように鮮明だった。そして、悪夢の終焉には必ず、耳障りな甲高い悲鳴と、何か硬質なものが砕け散るような、嫌な音が響き渡る。目覚めると、彼の全身は冷や汗で濡れ、心臓は不警報のように激しく脈打っていた。

元刑事である朔夜は、三年前に起きたある事件を機に、第一線から身を引いていた。その事件は、彼の心に深い傷痕を残し、優れた記憶力を持つ彼の心から、特定の期間の記憶を曖昧にさせるという奇妙な影響を与えていた。失われたパズルのピースのように、その期間の出来事だけが、彼の意識からぽっかりと抜け落ちていたのだ。

ある雨の日の午後、彼の書斎に、警察署時代の後輩から大きな封筒が届いた。「朔夜さん、お久しぶりです。未解決事件の再捜査資料です。もしかしたら、朔夜さんの鋭い洞察力が何かを掴むかもしれません」。後輩の簡潔なメッセージに、朔夜は眉をひそめた。なぜ今、未解決事件の資料が?

封筒を開けると、夥しい量の古い写真や書類が雪崩れ出した。その中に一枚、色褪せた少女の写真があった。写真の中の少女は、くりくりとした瞳で真っ直ぐにカメラを見つめている。だが、朔夜の目は、少女が抱きしめる古びたウサギのぬいぐるみと、背景に写る、朽ちた鉄骨が剥き出しになった建物の残骸に釘付けになった。それは、彼の悪夢に登場する廃墟の建物と、驚くほど酷似していた。そして、そのウサギのぬいぐるみは――。

朔夜は、写真の少女と同じウサギのぬいぐるみが、なぜか自分の部屋の引き出しの奥深くから見つかったことを思い出した。それは、彼自身がいつ、どこで手に入れたのか、全く記憶にないものだった。ただ、触れるたびに、遠い昔の微かな郷愁のようなものが、胸を締め付ける気がしていた。写真の少女と、悪夢の中の少女、そして、自分の手元にある記憶にないぬいぐるみ。これらが偶然の一致であるはずがない。朔夜の胸の奥底で、かつて事件を追い求めた刑事の血が、再び熱くたぎり始めた。この資料は、単なる再捜査依頼ではない。何かが彼を、呼び覚まそうとしている。

第二章 欺かれた記憶の断片

資料を紐解くにつれて、朔夜の疑念は確信へと変わっていった。その事件は、15年前、当時8歳だった少女、新田美咲(にったみさき)が忽然と姿を消した「神隠し事件」として、世間を騒がせたものだった。捜査は多岐にわたり、地域住民の証言や現場検証が繰り返し行われたが、決定的な手掛かりは見つからず、やがて迷宮入りとなっていた。しかし、朔夜が気になったのは、その捜査の過程における不可解な「空白期間」だった。捜査日報の一部が不自然に欠落し、主要な証言者への聴取記録も、妙に簡潔にまとめられている箇所があったのだ。

美咲が消えたとされる場所は、かつて地域の子どもたちの遊び場だった廃工場跡地。そこはまさに、朔夜の悪夢に登場する場所と瓜二つだった。朔夜は、失われた記憶のパズルを埋めるかのように、古い資料の地図を片手に、その廃工場跡地へと向かった。

錆びた鉄扉をくぐり、一歩足を踏み入れた途端、冷たく湿った空気が朔夜の肌を包み込んだ。崩れかけた壁、散乱するガレキ、そして、かつて機械が鎮座していたであろうコンクリートの基礎。全てが悪夢の中の風景と重なる。足元に転がる錆びた工具を見つけるたびに、彼の頭の中で、甲高い金切り音と、何かが砕けるような音がこだました。強烈な頭痛が朔夜を襲い、視界が歪む。その時、彼の脳裏に、断片的な映像がフラッシュバックした。

暗闇の中、誰かが自分に向かって「逃げろ!」と叫んでいる。幼い手が、必死に何かに掴まっている。そして、赤と黒の、おぞましい模様の影。

その映像は一瞬にして消え去ったが、朔夜は自分がこの場所に来たことがある、という確信を得た。だが、いつ、どのようにして?彼の記憶には、その廃工場で遊んだ思い出など、一切ない。

当時の捜査資料をさらに深掘りするうち、朔夜はもう一つの不審な点を見つけた。当時の事件を担当し、朔夜自身が若手時代に指導を受けた恩師、藤堂(とうどう)元刑事の捜査報告書に、いくつかの矛盾が見られたのだ。藤堂は、厳格で公正な人物として知られていた。彼の報告書に不自然な記述があるなど、考えられないことだった。現在、藤堂は郊外で隠居生活を送っている。朔夜は、長年の恩師に不信感を抱くことに罪悪感を覚えながらも、真実を求める衝動に抗えなかった。彼の記憶は、一体誰によって、何のために欺かれているのか。その根源が、自分自身をよく知る人物の中にあるかもしれないという疑念は、朔夜の心を深く蝕んでいった。

第三章 真実を語る恩師の沈黙

朔夜は、藤堂の隠居する山間の家を訪ねた。かつては威厳に満ちていた藤堂の背中は、今はすっかり丸くなり、白髪が目立つ。庭の盆栽を手入れする藤堂の姿に、朔夜は一瞬、ためらいを覚えた。しかし、真実を知りたいという渇望が、その感情を打ち消した。

「先生、15年前の新田美咲ちゃんの事件について、お伺いしたいことがあります」

朔夜の問いに、藤堂の手がぴたりと止まった。ゆっくりと振り返った彼の顔には、微かな動揺がよぎる。

「なぜ今、あの事件を?」

藤堂の声は平坦だったが、朔夜はその奥に隠された感情を読み取った。

「当時の捜査資料に、不可解な空白がありました。そして何より、僕自身の記憶に、あの事件に関する断片が、悪夢として現れるんです」

朔夜は、美咲の写真、悪夢の描写、そして手元にあるぬいぐるみのことを、藤堂にすべてぶつけた。最初は穏やかに、しかし次第に感情を込めて否定する藤堂だったが、朔夜が畳みかけるように突きつける証拠の数々に、彼の表情から血の気が引いていった。特に、朔夜の語る悪夢の詳細が、藤堂の心に深い動揺を与えているようだった。

「先生……、まさか、あの事件に、僕が関わっていたんですか?」

朔夜の震えるような問いに、藤堂は長い沈黙の後、深く息を吐き出した。その表情は、苦悩と後悔に満ちていた。

「朔夜、お前を、あの地獄から守りたかったんだ……」

藤堂は、ゆっくりと、しかしはっきりと真実を語り始めた。15年前、美咲は行方不明になったのではなく、カルト教団に誘拐されていた。その教団は、人里離れた山中で秘密裏に活動し、幼い子供たちを洗脳し、恐ろしい儀式に利用していた。当時、藤堂はその教団の内偵を進めていた。美咲はその教団に囚われ、そして朔夜もまた、美咲の幼馴染として、彼女を救出しようと単身教団に潜入していたのだ。

「お前は、美咲を救い出すために、命がけで戦った。だが、その中で、教団が行っていたおぞましい儀式を目撃し、自分自身も深い傷を負ったんだ。その時の精神的ショックで、お前は記憶を失った。あの廃工場跡は、お前が悪夢で見る場所ではない。真の事件現場は、もっと奥地の、教団が秘密裏に所有していたアジトだ。お前はそこで、血と狂気にまみれた真実と対峙した。美咲は救い出されたが、お前の心は壊れかけた」

藤堂は声を詰まらせた。「私は、お前に、あの時の記憶を背負わせたくなかった。お前はまだ幼かった。だから、捜査記録を一部改ざんし、お前の記憶を『神隠し事件』という、より穏やかな形に上書きした。お前の悪夢は、その偽りの記憶の亀裂から漏れ出る、真実の断片だったのだ。そして、お前が持っていたぬいぐるみは、お前の無意識が真実を忘れぬように掴んでいた、唯一の『錨』だった。私はそれを、お前の部屋に置いた。いつかお前が真実に辿り着いた時、迷わないようにと……」

朔夜の全身から血の気が引いた。信じていた過去、自分の人生、そして恩師の信頼までもが、全て偽りだったという衝撃。彼の価値観は根底から揺らぎ、世界が音を立てて崩れ落ちるようだった。彼の記憶は、誰かによって巧妙に作り上げられた人工的な虚構だったのだ。

第四章 再構築された虚構の人生

真実を知った朔夜は、深い絶望と混乱に苛まれた。自身の記憶、アイデンティティ、そして恩師への信頼。全てが虚構の上に成り立っていたという事実は、彼を底なしの闇へと突き落とした。しかし、同時に、胸の奥底でくすぶっていた悪夢の正体が明らかになったことで、長年彼を縛り付けていた鎖が、ようやく外れたような解放感も感じていた。

朔夜は、藤堂に案内され、真の事件現場へと向かった。それは、彼の悪夢に出てくる廃工場跡よりもさらに深く、山奥にひっそりと隠された、朽ち果てた廃教会だった。そこは、カルト教団の邪悪な儀式が行われていた場所であり、美咲と朔夜が囚われた場所でもあった。

荒れ果てた礼拝堂に足を踏み入れた瞬間、朔夜の脳裏に、鮮明なフラッシュバックが奔流のように押し寄せた。

美咲の怯える顔。祭壇に飾られたおぞましい偶像。奇妙な詠唱。そして、ナイフを振り上げ、美咲に迫る教団の司祭。幼い朔夜は、必死で美咲を庇い、司祭に体当たりした。その時、司祭の手から滑り落ちたナイフが、床に落ちて鈍い音を立てた。そして、そのナイフを拾い上げ、教団員に抵抗する朔夜の姿……。

その瞬間、藤堂が教団に踏み込み、銃声が鳴り響いた。混乱の中、幼い朔夜は、目の前で繰り広げられる暴力と狂気に、精神の限界を超え、意識を失った。美咲は救い出され、教団は壊滅したが、朔夜は深い心の傷を負い、その時の記憶を完全に失ったのだった。

すべてを思い出した朔夜は、祭壇の前に崩れ落ちた。あの時、藤堂は朔夜を救い、その幼い心を二度と傷つけないために、真実を隠蔽し、彼の記憶を書き換えるという重い決断を下したのだ。それは、恩師なりの、朔夜に対する究極の愛情であり、同時に、途方もない罪悪感と苦悩に満ちた行為だった。

朔夜は、ゆっくりと立ち上がり、藤堂に向き合った。彼の目には、怒りも憎しみもなかった。ただ、深い悲しみと、そして、感謝のような複雑な感情が入り混じっていた。

「先生……ありがとうございました。そして、もう二度と、嘘はつかないでください」

藤堂は、涙を流しながら深く頭を下げた。朔夜は、偽りの記憶の中で生きてきた自分と決別し、真実を受け入れることを決意した。彼の世界は、以前よりも残酷で、痛みと後悔に満ちている。しかし、それは同時に、紛れもない「本物」の世界だった。空虚だった心が、今、痛みを伴う真実で満たされていく。

朔夜は、藤堂から美咲の現在の連絡先を聞き、数日後、彼女に会うことを決めた。15年の時を経て、互いに失われた記憶の断片を持ち寄り、過去を再構築する旅が、今、始まる。彼の内面には、失われた記憶と、偽りの記憶が混在し、複雑な感情が渦巻く。しかし、彼は、自身の記憶の彼方に、もう一人の自分と向き合うことで、過去の亡霊から自由になった。偽りの記憶から真実を再構築する旅に出る彼の背中には、覚悟が宿っていた。彼は、これから先の人生を、自身の真実の記憶と共に、新たな一歩を踏み出すのだった。彼の心には、失った時間を取り戻すかのような、静かな決意が燃えていた。

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