緋色のクレッシェンド

緋色のクレッシェンド

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第一章 途切れたアリア

夜の静寂を切り裂くように、スマートフォンのスピーカーから奏(かなで)のチェロが歌い始めた。それは深く、官能的で、まるで古びた木材そのものが魂を持って泣いているかのような音色だった。サウンドデザイナーである僕、響(ひびき)の耳には、その音は豊かなマホガニーの色を帯びて空間に溶けていくように見えた。僕には音に色が視える。「共感覚」と呼ばれるらしいその特性は、幼い頃から僕を孤独にしてきた。世界は僕にだけ、過剰な色彩で満ち満ちていた。

「どう、響? 新しい曲の冒頭部分。まだ荒削りだけど」

電話の向こうで、奏が息を弾ませて尋ねる。彼女だけが、僕のこの奇妙な感覚を「神様からの贈り物」だと言って笑ってくれた。彼女の声は、春の陽だまりのような温かいオレンジ色をしていた。

「最高だよ。でも、少しだけ……そうだな、ほんの少しだけ、焦りの色が混じってる。何かあった?」

僕がそう言うと、奏は一瞬息を呑んだ。

「……わかるんだ、やっぱり。響には、何も隠せないな」

彼女は小さく笑った。その笑い声には、いつもより少し影のある、くすんだライラックの色が揺らめいていた。

「コンクールのことで、ちょっとね。ライバルの静也(しずや)さんが、すごい曲を準備してるって噂で……」

その時だった。奏の言葉を遮り、凄まじい音が鼓膜を突き刺した。

キィィィン、という金属的な高音と、いくつもの弦が一度に断ち切られたかのような不協和音。それは、僕の網膜を焼くほどの、濁りきった「緋色」の閃光となって視界を埋め尽くした。血反吐をぶちまけたような、おぞましい赤。その色彩の暴力に、思わず顔をしかめる。

直後、奏の短い悲鳴が聞こえ、通話はブツリと途絶えた。

心臓が氷の塊になったようだった。何度もかけ直すが、呼び出し音が虚しく響くだけ。僕はコートを掴むと、アパートを飛び出した。奏がいつも練習している、街外れの古い音楽ホールへ向かう。

警察が到着したのは、僕がホールの重い扉を叩き続けていた時だった。管理人と共に駆けつけた警官がマスターキーで扉を開け、僕らは奏の練習室へと急いだ。だが、練習室のドアには内側から鍵がかけられていた。いわゆる「かんぬき」という古風な錠前だ。ドアを破って中へなだれ込むと、そこには信じがたい光景が広がっていた。

部屋の中央に、ぽつんと置かれた一脚の椅子。その傍らには、奏の分身ともいえるチェロが横たわっている。窓はすべて嵌め殺しで、外部から侵入できる隙間はない。完全な密室。

そこに、奏の姿だけがなかった。

まるで、彼女という存在そのものが、この空間から忽然と蒸発してしまったかのように。

警察は僕を参考人として詰問した。僕は必死に、電話で聞いた音のことを説明した。あの悍ましい不協和音。僕の目に焼き付いた、濁った緋色のことを。

だが、案の定、彼らの目に浮かんだのは侮蔑と憐憫の色だった。「疲れているんだろう」「ショックで幻覚でも見たんじゃないか」。彼らの声は、僕には汚泥のような鈍い灰色にしか見えなかった。

誰にも理解されない。まただ。この世界で、僕の見る色彩を信じてくれるのは奏だけだったのに。

僕は唇を噛み締めた。奏が消えた密室。彼女が最後に残した「音」。

警察が頼りにならないのなら、僕がやるしかない。

僕のこの呪われたはずの感覚だけが、彼女を見つけ出す唯一の鍵なのだから。

第二章 冷たいブルーのフーガ

奏が失踪してから三日が過ぎた。警察の捜査は難航し、メディアは「天才チェリスト、謎の失踪」とセンセーショナルに書き立てた。彼らが作り出すノイズは、僕の目にはけばけばしい原色の洪水となって映り、吐き気をもよおさせた。

僕は独り、自分のスタジオに籠っていた。奏との最後の通話を録音したデータを、何度も、何度も再生する。問題の不協和音。あの「濁った緋色」の音を分析するが、複数の破壊音が複雑に絡み合っているだけで、正体は掴めない。だが、僕の感覚は、あれが単なる物音ではないと叫んでいた。あれは、何かの「意思」を持った音だ。

捜査線上に、奏のライバルであったヴァイオリニスト、静也の名前が挙がった。コンクールでの確執、奏の才能への嫉妬。動機は十分すぎるほど揃っていた。警察も彼を重要参考人としてマークしているらしい。僕の頭の中でも、静也の姿が、あの緋色の音と結びつき始めていた。

僕はいてもたってもいられなくなり、静也が所属するオーケストラの練習場へと向かった。彼と直接話すためだ。通用口で待ち伏せていると、練習を終えた静也が、硬い表情で出てきた。

「……何の用だ。君は、奏さんの」

静也の声は、張り詰めた弦のように鋭く、僕の目には氷のような「冷たいブルー」に映った。

「奏が消えた時、あなたは何をしていましたか」

僕は単刀直入に切り出した。静也は眉をひそめ、不快感を隠そうともしない。

「警察にも話したが、自宅で一人、練習していた。アリバイはない。だから疑われているんだろう」

「彼女を憎んでいた、という噂は本当ですか」

「……憎んでいた?」

静也は虚を突かれたように目を見開いた。そして、ふっと自嘲するように笑った。

「憎しみ、か。そう見えたのなら、それも仕方ない。だが、それは違う。私は彼女に……嫉妬していた。だがそれは、彼女の才能を誰よりも認め、畏怖していたからだ」

彼はヴァイオリンケースを固く握りしめた。

「彼女は、私が生涯かけても辿り着けない場所に、いとも簡単に立っていた。その背中を追いかけることが、私の音楽のすべてだった。そんな彼女が……いなくなるなんて」

彼の声から、冷たいブルーに、深い悲しみを帯びた紫紺の色が滲み出すのが見えた。嫉妬の色ではない。これは、敬愛する目標を失った者の、純粋な喪失の色だ。

「奏さんは……最近、何か変わった様子はありませんでしたか」

僕の問いに、静也は少し考え込むように視線を彷徨わせた。

「変わったこと……。ああ、そういえば。彼女、最近しきりに『新しい音を探している』と言っていたな。楽譜にも書けない、どんな楽器でも表現できない、世界で誰も聞いたことのない音だ、と。まるで何かに取り憑かれたように……」

静也の言葉が、僕の頭の中で反響した。「新しい音」。奏も、電話の向こうで言っていた。

僕は静也に礼を言うと、その場を後にした。静也ではない。あの「濁った緋色」は、彼の持つブルーや紫紺とはあまりに異質だ。疑いが晴れた安堵と、再び振り出しに戻った絶望が入り混じる。

アパートに戻った僕は、奏が僕に遺していった楽譜の束を改めてめくった。彼女の几帳面な性格を表すように、整理された譜面たち。その中で、一枚だけ、異質なページを見つけた。それは彼女が作曲途中だったチェロソナタの一節。その譜面の余白に、彼女の筆跡で、奇妙な図形がいくつも書き込まれていた。それは五線譜上の音符ではなく、まるで古代の暗号のような、幾何学的な記号の羅列だった。

僕はその図形に見入った。無意味な落書きだろうか。いや、奏はそんなことをする人間じゃない。

その瞬間、僕の中で何かが閃いた。

もし、これが「音」だとしたら?

楽譜に書けない、「新しい音」の設計図だとしたら?

第三章 共感覚のデュエット

僕はすぐさまスタジオの機材に向かった。奏が残した謎の図形。それを僕は、一種のスペクトログラム、音の視覚的表現として捉え直した。図形の線の太さ、角度、交差の仕方……それらを周波数と振幅のパラメーターに変換し、シンセサイザーに打ち込んでいく。途方もない作業だった。だが、僕の共感覚が、その図形の中に微かな「色彩の気配」を感じ取っていた。バラバラに見える記号の群れが、全体として一つの調和、一つの「色」を形成しようとしている。

何時間没頭しただろうか。夜が白み始めた頃、ついに一つの音響パターンが完成した。それは音楽とは呼べない、複数のサイン波が複雑に絡み合った、奇妙な音の塊だった。

再生ボタンを押す指が震える。

スピーカーから流れ出したのは、耳慣れない、それでいてどこか懐かしいような持続音だった。低周波のうなりと、高周波の微かな振動が、奇妙なハーモニーを奏でる。僕の目には、それは淡いエメラルドグリーンの光の粒子となって空間に満ちていくのが見えた。

その時だった。

スタジオの壁、本棚が設置された壁の一部が、カタカタと微かに振動を始めたのだ。音に共鳴している。僕はボリュームを少し上げた。すると、振動は大きくなり、本棚がゆっくりと横にスライドし始めたではないか。

本棚の裏から現れたのは、暗い空洞。隠し扉だ。

全身に鳥肌が立った。そういうことだったのか。

奏の練習室も、同じ構造だったのだ。あのホールは百年以上前に、音響学に傾倒した風変わりな建築家が建てたものだと聞いたことがある。奏は、建物のどこかに残された資料から、この「音で開く扉」の存在を知ったのだ。

彼女が探していた「新しい音」とは、音楽のためではない。この扉を開けるための「鍵」だったのだ。

そして、僕の脳裏に、あの忌まわしい「濁った緋色」の不協和音が蘇る。

あれは、失敗した音だったのだ。

彼女は扉を開けるための正しい周波数を探して、試行錯誤を繰り返していた。事件の夜、彼女はついに正解に近い音を奏でた。しかし、それはまだ不完全な「鍵」だった。扉は開いたが、同時に過負荷で機構の一部が破損し、あの金属的な破壊音と不協和音が発生した。僕が電話で聞いたのは、その音だった。

緋色は、成功と失敗が入り混じった、不完全な鍵の色。

悲鳴は、絶望の声ではない。扉の向こうに広がる未知の世界を目の当たりにした、驚愕と歓喜の声だったのだ。

奏は誘拐されたのではない。自らの意志で、扉の向こうへ消えたのだ。

僕は息を整え、奏が発見したであろう、正しい「鍵」の音をスマートフォンに移した。そして、再びあの音楽ホールへと車を走らせた。今度こそ、彼女の元へたどり着くために。

第四章 緋色のクレッシェンド

警察の制止を振り切り、僕は奏の練習室に飛び込んだ。部屋の中央に立ち、スマートフォンの再生ボタンを押す。

エメラルドグリーンの光を放つ音が、空間を満たしていく。

すると、あの日と同じように、部屋の壁の一部が静かに振動を始め、やがて重々しい音を立てて隠し扉が出現した。警官たちが息を呑むのがわかった。

僕は躊躇なく、暗い通路へと足を踏み入れた。ひんやりとした空気が肌を撫でる。通路は緩やかな螺旋階段になっており、下へ下へと続いていた。壁には奇妙な凹凸があり、僕の足音が反響するたびに、壁の色が虹のように変化して見える。ここは、建物全体が楽器なのだ。

階段を降りきると、そこには広大なドーム状の空間が広がっていた。天井からは鍾乳石のようなものが無数に垂れ下がり、それらが互いに触れ合うたびに、澄んだ音色を奏でている。まるで巨大な風鈴の中にいるようだ。

そして、その中央に、彼女はいた。

奏は、一体の鍾乳石にそっと手を触れ、その響きに耳を澄ませていた。彼女は僕の存在に気づくと、ゆっくりと振り返り、驚いたように目を見開いた。

「響……どうして、ここが」

「君の音を追いかけてきたんだよ」

僕は微笑みながら、彼女の元へ歩み寄った。彼女の瞳には、安堵と、少しばかりの気まずさが浮かんでいた。

「ごめんなさい。夢中になってしまって……。ここを見つけた時、時間の感覚がなくなってしまったの」

彼女は、僕に自分の秘密を打ち明けてくれた。彼女もまた、僕とは違う共感覚の持ち主だったのだ。彼女には「音に形が視える」。楽譜の音符は立体的なオブジェに見え、和音は美しい幾何学模様として空間に浮かび上がるのだという。彼女はこの建築家が残した「音の設計図」を解読し、この隠された聖域を見つけ出したのだ。

「誰にも言えなかった。あなたにさえ。私の見ている世界を話したら、あなたを混乱させてしまうと思って」

奏の声は、少し震え、淡いラベンダー色をしていた。

僕は彼女の手をそっと握った。

「僕もだよ。僕の見る色彩は、君を孤独にするだけだと思ってた」

僕たちは、互いに孤独を抱えていた。特別な感覚を持つがゆえに、世界の誰とも本当の意味で繋がれないという、深い孤独。だが、今、この瞬間、二つの異なる共感覚が、一つの真実を介して交わった。

僕には、彼女が奏でようとしていた音の「色」が視える。

彼女には、僕が聞いている世界の「形」が視える。

僕がコンプレックスに感じていたこの能力は、呪いではなかった。愛する人を理解し、繋がるための、かけがえのない贈り物だったのだ。内向的だった僕の心に、自分の感覚を信じ、前へ進む勇気が静かに灯っていくのを感じた。

事件は、奏が「建物の古い隠し通路に誤って迷い込んだ事故」として処理された。真相を知るのは、僕と奏の二人だけ。

僕たちは、あの日以来、しばしば二人だけの聖域を訪れた。

僕が音を奏でると、奏がその形を言い当てる。彼女がイメージした形を僕が音にすると、僕の目には鮮やかな色彩が広がる。

それは、誰にも理解されない、僕たちだけのデュエット。

今、僕の目の前で、奏がチェロを構える。彼女が弓を滑らせると、深く、優しく、そして力強い、真紅の音が生まれた。それは、あの日のおぞましい緋色ではない。生命力に満ちた、情熱的なクレッシェンド。

その音は、僕たちの未来そのもののように、どこまでも、どこまでも、鮮やかに響き渡っていた。僕たちの世界は、ようやく完璧なハーモニーを見つけたのだ。

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