忘却の残像

忘却の残像

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第一章 オルゴールの残響

深く濃い藍色の夜が、コンクリートのジャングルを飲み込んでいた。高層ビル群の隙間から時折漏れる光だけが、この街がまだ息をしていることを証明しているかのようだった。しかし、咲夜のいる場所は、光の届かない世界の果て。廃墟と化した旧製薬工場の奥深く、そこはまるで時間が止まったかのように、湿った空気と埃が重くのしかかっていた。

「見つかったのは、この奥です」

刑事の低い声が、薄暗い空間に反響する。咲夜は懐中電灯の光を頼りに、錆びた鉄骨と崩れかけた壁の間を進んだ。彼女の心臓は、薄氷を踏むように静かに、しかし確実に鼓動を速めていた。いつもそうだ。事件現場に足を踏み入れるたび、人知れず起こった悲劇の残滓が、皮膚の表面をぴりぴりと刺激する。

そこにあったのは、もはや言葉を失う光景だった。

部屋の中央、陽の光も届かない場所に、一体の遺体が横たわっていた。しかし、それは死というよりは、むしろ息を潜めて眠っているかのような、奇妙なほど美しい姿だった。肌には一点の汚れもなく、まるで精巧な蝋人形のように滑らかで、その表情は安らかさを湛えている。時間が、この女性の上を滑り落ちるのを拒否したかのように。遺体の周辺には、不自然なほどに物が散乱していたが、彼女だけが、完璧な美しさを保っていた。

警察官たちがざわつく中、咲夜の視線は、遺体の傍らに置かれた、古びた木製のオルゴールに吸い寄せられた。真鍮色の金具はくすみ、表面には幾重もの傷が刻まれている。しかし、その歪んだ蓋には、繊細な蔦の模様が彫られており、かつての持ち主がどれほど大切にしていたかが窺い知れた。オルゴールは開かれており、内部の小さなバレリーナのフィギュアが、今にも踊りだしそうに微かに傾いている。

咲夜は刑事の制止を振り切り、オルゴールにそっと指先を触れた。

その瞬間、脳裏に激しい閃光が走った。

視覚、聴覚、嗅覚、そして触覚。あらゆる感覚が爆発し、濁流のような情報が流れ込んできた。

*──「永遠」──*

囁きのような声。

どこか遠くで流れる、切なくも美しい旋律。

満開の白い花の香り。

そして、激しい喜びと、言いようのない絶望が混じり合った、女性の感情。

まるで誰かの過去が、咲夜の意識を乗っ取るかのように襲いかかる。それは、かつてオルゴールを手に取った人物の記憶の残滓。

咲夜の全身を激しい悪寒と吐き気が襲った。思わずオルゴールから手を離し、その場に膝をつく。

「咲夜さん、大丈夫ですか!」

刑事の声が遠く聞こえる。

記憶の奔流が去った後、頭の中はひどく空虚だった。

いつもそうだ。他者の記憶を読み取るたびに、まるで砂が指の隙間からこぼれ落ちるように、咲夜自身の記憶が少しずつ失われていく。それは、能力の対価。今、咲夜の頭の中からは、昨夜見た夢の鮮明な映像、そして、大切な友人の顔が、なぜかぼんやりとしていた。

「このオルゴール、持ち主に何かあったんでしょうか?」

咲夜は震える声で尋ねた。

刑事は困惑した表情で首を振る。「遺体の身元はまだ不明です。指紋も拭き取られている。手掛かりは、このオルゴールと、遺体そのものの異常な状態だけです」

美しすぎる遺体。不自然なほどに完璧な死。そして、オルゴールに残された「永遠」という言葉の残響。この事件は、単なる殺人事件ではない。咲夜は、自身の記憶の欠損を恐れながらも、この奇妙な事件の深淵に、足を踏み入れざるを得ないことを悟った。

第二章 記憶の欠片、繋がる闇

翌日、警察の捜査は難航を極めていた。遺体から採取された検体は、不可解なことにほとんど劣化しておらず、死亡推定時刻も曖昧模糊としていた。通常の死体とは異なり、まるで生命活動が停止した状態で時間が止まったかのような状態だという。被害者の身元は未だ不明。指紋、DNA、歯形、あらゆる照合が不可能なほどに「クリーン」な状態だった。

咲夜は、自身の能力を改めて振り返っていた。彼女は、触れた物に残された人々の記憶の残滓を読み取る「サイコメトリー」能力を持つ。しかし、その力は諸刃の剣。能力を使うたびに、自身の記憶が薄れていくという代償を伴う。昨晩、オルゴールから得た記憶の断片は、彼女自身の過去の一部を奪い去った。

事務所のデスクで、咲夜はオルゴールをじっと見つめていた。警察から借り受けたそのオルゴールは、薄暗い部屋で、静かに彼女の記憶を蝕むかのように存在感を放っている。もう一度触れるべきか否か。葛藤が、胸の奥で渦巻いた。

しかし、あの遺体の、あの「永遠」という言葉の残響が、咲夜を強く惹きつけてやまなかった。

意を決し、咲夜は再びオルゴールに触れた。

今度は、昨晩よりもはるかに鮮明な記憶が流れ込んできた。

白い研究室のような場所。無数の試験管が並び、奇妙な機械が規則的な音を立てている。

そして、被害者の女性と、もう一人の男性の姿が見える。二人は真剣な表情で、何かを議論している。彼らの間には、明らかに深い信頼と、愛情があった。

*──「成功すれば、全てが報われる」──*

男性の声が聞こえる。期待と、狂気にも似た情熱を帯びた声。

*──「しかし、リスクが大きすぎる」──*

女性の声が、不安げに返した。

咲夜の脳裏に、いくつもの単語が飛び交う。「細胞の不活性化」「時間の停止」「永遠の保存」。

それは、生命そのものに干渉するような、禁断の研究だった。

記憶はさらに深まる。二人は恋人同士であり、ある悲劇を乗り越えるために、この研究にのめり込んでいったことが示唆された。失われた命を取り戻すため、あるいは、失われゆくものを永遠に留めるために。

その記憶の断片が、まるで熱い鉄を押し付けられたように咲夜の脳裏に焼き付く。

同時に、咲夜の頭の中から、さらに別の記憶が薄れていった。それは、最近見た映画の感動的なラストシーン。そして、咲夜が愛用していたマグカップのデザインが、思い出せない。徐々に、些細な、しかし確実に大切な記憶が消え去っていく。

夜が深まる頃、咲夜は警察署へ足を運んだ。オルゴールから読み取った情報を刑事に伝える。

「被害者には、もう一人、研究仲間がいたようです。恋人同士だった可能性も高い。彼らは、『永遠』に関する研究をしていました」

刑事は半信半疑の表情だった。「永遠、ですか? まるでSFだな。しかし、あの遺体の状態を見れば、何か特別なことがあったのは確かだ」

警察は、被害者の交友関係、特に研究者としての側面から洗い出しを始めた。しかし、被害者の身元が不明なため、捜査は依然として暗礁に乗り上げていた。

咲夜は帰り道、ふと立ち止まった。

「…私、どこに行こうとしてたんだっけ?」

自宅の場所は知っている。しかし、そこに至るまでの道順が、なぜか曖昧だった。

足元が揺らぐような感覚に襲われる。

「まさか、もうここまで…」

恐怖が、咲夜の全身を支配した。このまま記憶を辿り続けたら、自分自身を構成する全てのピースが、バラバラになってしまうのではないか。

第三章 過去の螺旋、狂気の真実

咲夜の心は、恐怖と探究心の間で激しく揺れ動いていた。これ以上能力を使えば、大切な記憶を失うかもしれない。しかし、オルゴールに残された記憶の断片は、まるで磁石のように彼女を事件の核心へと引き寄せる。あの「永遠」を求める狂気、そして、研究の奥底に潜む悲しみ。それが、咲夜自身の失われた記憶と繋がっているような、漠然とした予感があった。

咲夜はオルゴールを手に、再び廃工場を訪れた。もう一度、遺体が発見された場所へ。

そこにはもう遺体はない。しかし、床に残されたかすかな痕跡が、あの完璧な死の記憶を呼び起こす。

咲夜は、オルゴールをゆっくりと開いた。中に隠されていた、小さな手書きのメモを見つけた。

「──君のいない世界で、私は永遠を求める。そして、その永遠の中で、君を待つ」

メモに触れた瞬間、咲夜の意識は再び過去へと飛んだ。

今度は、これまで以上に鮮明で、まるで自分がその場にいるかのような感覚だった。

研究室。しかし、以前よりもはるかに荒れ果て、散乱している。

被害者の女性が、鏡の前で自分の姿を見つめている。彼女の瞳には、深い悲しみと、途方もない決意が宿っていた。

彼女は、まるで自分自身に語りかけるように、独り言を呟いた。

「彼が戻ってくるまで、私はここにいなければならない。永遠に、この姿のまま」

その言葉と同時に、彼女が自らの体に、何らかの薬剤を注入する姿が映し出された。

激しい苦痛。しかし、その顔には、どこか恍惚とした表情さえ浮かんでいる。

その瞬間に、オルゴールの旋律が鳴り響く。

それは、犠夜の脳裏に響く、切なくも美しい、あのメロディ。

*──「ああ、ダメだ…やめて!」──*

咲夜自身の声が、記憶の奥底から聞こえてきた。

そうだ、この声は、紛れもなく自分の声だ。

咲夜は、この光景を、過去に一度見たことがある。いや、見ていたのではなく、その場にいたのだ。

記憶の映像が、まるで壊れたフィルムのように巻き戻り、そして再生される。

そこには、若かりし頃の咲夜の姿があった。

あの研究室に、自分もいた。被害者の女性と共に、彼女の恋人の死を乗り越えようと、禁断の研究に没頭していたのだ。

咲夜は、被害者の女性の友であり、研究仲間だった。

被害者が愛する人を失い、その喪失感から「時間を止める」研究に狂奔していくのを、咲夜は止めようとしていた。

そして、最も恐ろしい真実が、咲夜の脳裏を貫いた。

あの「永遠」の美しさを持つ遺体。それは、他殺ではなかった。

被害者は、愛する人を待ち続けるために、自らの手で「時間を止める」実験を、自分自身に施したのだ。

彼女は、自らの意思で、永遠の眠りについた。

しかし、では、誰が、彼女を廃工場に残したのか?

その答えは、咲夜の失われた記憶の核心に隠されていた。

被害者が実験の最終段階に入り、自らの命を絶とうとした時、咲夜はそれを止めようと必死に駆け寄った。

だが、その時、研究室の機械が暴走し、爆発を起こした。

その爆発で、咲夜は意識を失い、目覚めた時には、あの廃工場に一人でいた。

そして、あの事件以降、咲夜は、サイコメトリーの能力を得た。その代償として、自身の過去の記憶が失われていった。

彼女は、自分自身の記憶が失われるたびに、あの悲劇の瞬間、あの暴走する機械と、親友の顔、そしてあのオルゴールの旋律が、頭の奥底で響いていたことを思い出した。

今回の事件は、自分の過去、自分の親友が、自分自身に施した「永遠」の悲劇だったのだ。

そして、咲夜自身もまた、その悲劇の生存者であり、その代償を払い続けていた。

あの「永遠」の美しさは、親友が愛する人を待ち続けるという、狂気にも似た、しかし純粋な「愛」の結晶だった。

そして、あのオルゴールは、二人の友情と、失われた恋人の思い出が詰まった、唯一の「鍵」だったのだ。

咲夜は、自身の記憶が、ほとんど消え去ろうとしていることを悟った。

友人の名前。自身の生い立ち。大切な日々の思い出。

それらが、まるで遠い夢のように、手のひらから零れ落ちていく。

しかし、同時に、胸の奥には、これまで感じたことのない、澄み切った感情が湧き上がっていた。

親友が何を望んでいたのか、そして、何故、永遠を選んだのか。

全ての真実が、今、一つに繋がった。

第四章 忘却の果て、再生の調べ

廃工場の埃っぽい空気の中で、咲夜は全てのピースが揃ったパズルのように、事件の真相を理解していた。親友は、愛する人を失った絶望から、時間すらも止めるという禁断の研究に手を出し、自らを「永遠」の中に閉じ込めたのだ。それは狂気にも見えるが、咲夜には、その奥にある純粋な愛と、深い悲しみが痛いほど理解できた。そして、自分もまた、その悲劇の一部だった。あの事故が、彼女にサイコメトリー能力を与え、そして、記憶を喰らう呪いとなったのだ。

自身の記憶は、ほとんど残っていない。名前を思い出そうとすると、頭の奥がズキズキと痛む。自分の顔すら、鏡に映る他人のように感じられる。しかし、不思議と、恐怖は薄れていた。親友の記憶、その深淵に触れることで、咲夜は喪失感ではなく、ある種の解放感に包まれていた。失われた記憶は、他者の感情や人生を理解するための、必要な代償だったのかもしれない。

咲夜は、再びオルゴールに触れた。しかし、もう記憶は流れ込んではこない。オルゴールは、ただの古びた木箱に戻っていた。そこから聴こえるはずだった切ない旋律も、もはや幻聴のように掻き消えている。

彼女は、警察に連絡し、自身の記憶から得た断片的な情報と、残された手記の内容を伝えた。親友が自らを選んだ道であり、他殺ではないこと。そして、彼女の「永遠」への願いが、あの遺体の状態を作り出していたことを。

警察は困惑しながらも、咲夜の証言と、残された証拠の再検証を進めることを約束した。特に、事故当時の工場の記録や、親友が発表していた研究論文を洗い出すことで、咲夜の言葉の信憑性を確かめるだろう。

空が白み始め、夜明けの光が廃工場の窓から差し込んできた。埃の舞う空間に、一筋の清らかな光が射し込む。

咲夜は、その光の中で、静かに目を閉じた。

失われた記憶の奥で、親友が愛した男性の笑顔と、親友の少しはにかんだ横顔が、鮮やかに蘇った。二人がオルゴールを囲んで、楽しそうに笑っていた、遠い日の思い出。それは、咲夜自身の記憶ではなく、オルゴールに残された親友の「最も大切な記憶」だった。

そして、その記憶は、消えることなく咲夜の心の奥底に、確かに刻み込まれた。

失われた記憶の代わりに、咲夜は、他者の「永遠」への願い、そしてその根底にある愛と悲しみの深さを、身をもって知った。彼女はもはや、過去に囚われたまま能力に怯える探偵ではなかった。忘却の淵を覗き込み、その代償と引き換えに、人間という存在の神秘と、生と死の意味を深く理解した、新たな自分自身と出会っていた。

咲夜はオルゴールをそっと鞄にしまい、廃工場を後にした。

朝焼けに染まる街を歩きながら、彼女はふと、自身の未来に思いを馳せた。

自分の記憶は、これからも失われていくのだろう。しかし、その空白は、他者の物語で満たされる。

それは、決して悲しいことだけではない。

「永遠」を求めて命を終えた親友の願いは、咲夜の中で、新たな形となって生き続ける。

記憶を失うことの先に、咲夜は、他者の痛みに寄り添い、その魂を救うという、新たな使命を見出していた。

失われた記憶の代わりに、彼女の心には、これまでになく深い慈愛と、未来への静かな希望が灯っていた。

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