第一章 盲目の絵師と幻の壁画
「赤……それは、燃えるような赤だ。」
朔は呟いた。彼の眼は、もう何年も前から光を捉えられない。それでも、彼の指先が触れた壁の、ざらついた漆喰の感触の奥に、彼は確かに「色」を感じていた。それは、かつて彼の世界を彩っていたあらゆる色の中で、最も情熱的で、最も暴力的な色だった。
江戸も末の、人里離れた山間にひっそりと佇む廃屋。朽ちかけた木戸をくぐり、湿った土壁の廊下を辿ると、奥の部屋からひんやりとした空気が流れ込んできた。そこは、かつて村の富豪が蒐集した美術品を飾っていたと伝えられる場所だったが、数年前に起きた謎の火事以来、誰も足を踏み入れていなかった。村人たちは口々に「祟りがある」と囁き、近づこうとしなかった。しかし朔は、視力を失って以来、人の気配が薄い場所、時代の残滓が濃厚に漂う場所に惹かれるようになっていた。彼の研ぎ澄まされた他の五感は、そこで、時に鮮烈な「心の残像」を拾い上げるのだ。
部屋の中央に立てられた、煤けた屏風に手を這わせる。ひび割れた表面から、微かに香る墨の匂い。その瞬間、朔の頭に稲妻が走った。
――鮮やかな色彩が、視界を埋め尽くす。それは、失ったはずの光景。満開の桜並木、夕焼けに染まる富士、そして、柔らかな笑みを浮かべた女性の横顔。
だが、その残像はすぐに掻き消え、代わりに、指先に触れる壁の、微細な凹凸が、ある「絵」の輪郭を彼に教えていた。
「これは……」
その絵は、人の背丈ほどの大きさで、壁一面に広がっていた。彼が触れるのは、ただの壁の亀裂や汚れではない。紛れもない筆致、緻密な構成。しかし、それは何の色も持たない、線だけの絵だった。盲目の朔に、その絵の全貌を見ることはできない。だが、彼の指先が辿るたびに、壁から熱が伝わってくるような錯覚を覚える。まるで、絵の具の代わりに、描いた者の情念が塗り込められているかのように。
彼は、残された触覚、嗅覚、聴覚を研ぎ澄まし、壁の「絵」を解析しようと試みた。指先が触れた場所からは、微かに花の香り、そして土と血の匂いが混じり合った、不吉な香りがした。耳を澄ますと、風の音に紛れて、遠くで女性のすすり泣く声が聞こえるような気がした。
朔は混乱していた。彼はかつて、都でも名の知れた絵師だった。だが、数年前のあの火事で視力と記憶の一部を失って以来、絵筆を握っても、色彩は彼の心に宿るだけで、紙の上に再現することは叶わなかった。しかし、今、彼の指先が辿るこの「幻の絵」は、彼自身が描いた覚えのない、しかし、何故か自分の手癖に似ているような、不思議な既視感を伴っていた。
そして、その絵の中心に触れた時、彼の心は、かつてないほどの激しい「心の残像」に襲われた。それは、血の匂いと、焼け焦げた木材の匂い。そして、耳元で聞こえる、ある女性の悲鳴と、彼自身の「朔!」という叫び声だった。その叫び声は、彼の失われた記憶の断片と深く結びついているようだった。彼は、この絵こそが、彼の失われた過去、そして視力を奪った火事の真実を解き明かす鍵だと直感した。
第二章 見えざる手がかり、辿る残影
朔は、廃屋から戻った後も、壁の「幻の絵」が脳裏から離れなかった。失われた記憶の断片、女性の悲鳴、そして自身の叫び声。それらが、彼の心を激しく揺さぶった。彼は、その絵の「心の残像」を頼りに、自らの過去を辿ることを決意した。
彼が住む宿場町で、唯一彼の才能を理解し、支援してくれる古物商の老婆、お梅婆に、朔は廃屋で体験したことを語った。お梅婆は、皺だらけの顔をしかめながら、静かに彼の話を聞いていた。
「あの屋敷か……。あそこは、かつて村一番の有力者、橘家の別邸だったよ。火事が起こってからは、誰も近づかん。曰くつきじゃからのぅ」
お梅婆はそう言って、煙草盆の灰を掃った。
「しかし、朔の坊主が感じる『絵』とは、一体何じゃろうな。あの火事の前に、橘家の若奥様が、都から絵師を招いて屏風絵を描かせたと聞いたことはあるが……壁画とは初耳じゃ。」
朔は、その「幻の絵」が自身の過去と深く関わっていることを確信していた。彼は再び廃屋へ足を運ぶようになった。彼の心に残る残像は、次第に鮮明になり、過去の出来事を断片的に彼に示し始めた。ある時は、壁の絵から、人々の話し声が聞こえた。それは、橘家の当主と、一人の美しい女性の声。女性の声には、深い悲しみと、何かを隠し通そうとする決意が混じっていた。
「わたくしは、あなた様をお守りいたします。たとえ、この身がどうなろうとも。」
朔は、その声に聞き覚えがあるような気がした。胸の奥が締め付けられるような痛み。その女性こそが、彼が失われた記憶の中で見かけた、柔らかな笑みを浮かべた女性なのではないかと。
彼は、残像が示す手がかりを頼りに、村の古文書を読み漁った(村の子供に読んでもらっていた)。そして、火事の夜の出来事を記した、一枚の古い瓦版を見つけ出した。そこには、「橘家別邸、謎の火災。若奥様、絵師を庇い焼死」と書かれていた。
絵師を庇い焼死……。
朔は愕然とした。瓦版には、庇われた絵師の名は書かれていなかったが、その状況は、彼の失われた記憶と符合する。あの火事の夜、彼は、確かに誰かに庇われていた。そして、その人物は、燃え盛る炎の中で、彼に何かを託そうとしていた……。
彼の指先が、瓦版の墨の跡をなぞる。その瞬間、再び鮮烈な「心の残像」が彼の脳裏を駆け巡った。それは、炎に包まれる部屋の中、燃え盛る絵筆、そして、彼に何かを差し出そうとする女性の、血に濡れた手だった。彼女の指先には、彼がかつて愛用していたはずの、小さな鈴が握られていた。
「この鈴は……あの時、彼女が……」
朔の心臓が激しく脈打つ。瓦版に書かれた「絵師」とは、自分自身のことだったのか?そして、彼を庇い死んだ「若奥様」とは、あの「幻の絵」に、その声と悲しみを刻みつけていた女性なのか?
彼の記憶の断片が、まるでパズルのピースのように結合し始める。しかし、そのピースが完成に近づくほど、彼の心は深い闇へと引きずり込まれるような予感に苛まれた。彼は、ただの「絵師」ではなかった。そして、あの火事の夜には、もっと恐ろしい真実が隠されているに違いない、と。
第三章 真実の光、揺らぐ存在
朔は、お梅婆から聞いた話と、瓦版の記述、そして「心の残像」が示す断片的な記憶を繋ぎ合わせ、一つの仮説に辿り着いた。あの火事の夜、彼は橘家の若奥様、名を「小夜」という女性に絵を教え、同時に深い愛情を育んでいた。しかし、何らかの理由で二人の関係が橘家の当主に露見し、激しい争いの末、火事が起こったのではないか。そして、小夜は彼を庇い、炎の中に消えた。その衝撃で、朔は視力と記憶を失ったのだ。
その夜、朔は再び廃屋の壁画の前に立っていた。指先が絵の輪郭を辿る。燃えるような赤、悲しみの青、そして、絶望の黒。これらは、彼が見ることができなくなった色だが、彼の心には鮮やかに映し出される。彼は、この絵が、小夜が彼に託した最後のメッセージであると信じていた。
「小夜……お前は、この絵に何を伝えたかったのだ?」
その問いに応えるかのように、壁画の最も深い場所から、かつてないほどの強烈な「心の残像」が朔を襲った。それは、まるで時を遡るかのような感覚。彼は、炎に包まれた部屋の中、まさに火事が起こる寸前の光景を体験していた。
目の前に立つのは、小夜。彼女は、悲しい笑顔で朔を見つめていた。その手には、彼の愛用していた筆が握られている。そして、彼女は、まるで時間がないかのように、慌ただしく壁に何かを描き始めた。
その瞬間、朔は衝撃的な真実に直面した。
彼が見ていた「幻の絵」は、彼自身が描いたものではなかった。そして、小夜が描いていたのは、彼らが過ごした幸せな日々や、彼の未来を象徴するような絵ではなかった。彼女が必死に壁に刻みつけていたのは、まさに、その火事を引き起こした「真犯人」の顔、そして、橘家が隠していた不正を示す「証拠」だったのだ。
小夜は、夫である橘家の当主が、村の住民から不正に土地を巻き上げ、私腹を肥やしていることを知り、それを告発しようとしていた。そして、その証拠を隠すために、当主が別邸に火を放ち、朔と小夜を巻き込もうとしていたのだ。小夜は、朔を逃がすために、自らの命を犠牲にし、最後の力で真実を壁に残そうとした。しかし、視力を失う前の朔は、その絵の意味を理解できなかった。彼は、ただ彼女の描く姿を、彼の絵に対する情熱の表現だと信じていたのだ。
「馬鹿な……私が、私がそんなにも……!」
朔の全身に、激しい後悔の念が走った。彼は、小夜の愛と献身を、ただ己の絵師としての情熱と才能に陶酔するあまり、見誤っていたのだ。彼の「盲目」は、視力を失う以前から始まっていた。彼は、自分の才能に溺れ、世の真実や、愛する者の心の声に耳を傾けていなかった。彼の「心の残像」が、さらに痛ましい真実を明かす。小夜は、彼に真実を伝えるために、彼の筆を握り、彼自身の視覚を借りて壁に描き残していた。彼が失った視力と記憶は、彼が真実から目を背けていた傲慢な「絵師」の自我が、自ら崩壊した結果だったのだ。
彼は、自分の存在そのものが揺らぐような感覚に襲われた。かつての才能ある絵師「朔」は、真実から目を背け、愛する者を見殺しにした。今の盲目の自分は、過去の傲慢な自分への罰なのか。
彼が「幻の絵」だと思っていたものは、小夜が彼に遺した、彼の心の目を開かせるための、最後の遺言だったのだ。
第四章 心眼の開眼、そして再誕
真実を知った朔は、膝から崩れ落ちた。彼の心は、これまでに感じたことのない、深い悲しみと後悔に満たされていた。小夜の純粋な愛と犠牲、そして彼自身の盲目さが、あまりにも重い事実として彼の心を抉った。
数日間、朔は廃屋に籠もり、壁画の前で過ごした。彼は、もはや指先で絵の輪郭を追うことはなかった。ただ、目を閉じ、全身で壁から伝わる小夜の「心の残像」を受け止めていた。それは、苦しみ、悲しみ、そして彼への限りない愛に満ちていた。その残像の中で、彼は、小夜の最後の言葉を聞いた。
「朔、あなたは、あなたの絵で、世界を変えることができる。目に見えるものだけが、真実ではない。」
その言葉が、朔の心に新たな光を灯した。彼は、過去の傲慢な自分を捨て、小夜の言葉を受け入れる覚悟を決めた。彼の視力は、物理的に戻ることはないだろう。だが、彼の心には、確かに新たな「目」が開き始めていた。それは、真実を見抜き、人々の心の奥底に触れることができる「心眼」だった。
朔は、廃屋から出ると、まっすぐに村役場へと向かった。彼が「心の残像」から得た情報、小夜が壁画に刻み込んだ証拠。それらを、彼に残された他の五感を駆使して、村の奉行に訴え出た。彼の言葉は、盲目でありながらも、真実を語る彼の情熱に満ちていた。最初は半信半疑だった奉行も、朔の細部にわたる証言と、彼が見つけ出した橘家の不正を示す隠し帳簿(小夜が壁の裏に隠していたものを、朔が「心の残像」で場所を特定し、取り出した)により、橘家の当主の不正を確信した。
数日後、橘家の当主は逮捕され、村の住民たちは長年の圧政から解放された。朔は、村人たちの感謝の言葉を、音と匂い、そして「心の残像」として感じ取った。それは、彼がかつて絵師として得ていた名声とは全く異なる、温かい喜びだった。
朔は、再び絵筆を握った。彼の描く絵は、もはや鮮やかな色彩を持つことはない。しかし、彼の指先が紙に触れるたび、墨の香りの中に、小夜の愛の残像が宿る。彼の絵は、目に見える形では表せないが、触れた者、聴いた者の心に、深く語りかけるようなものとなった。それは、彼の心眼を通して見た、世界の真の姿、そして人々の心の奥底にある感情を映し出す、魂の絵だった。
彼は、廃屋の壁画の前に、もう一度立っていた。そこには、かつての幻の絵が、今や彼の心に宿る永遠のメッセージとして輝いている。彼は、物理的な視力を失ったままだ。だが、彼の心は、かつてないほどに豊かな色彩に満たされていた。彼は、小夜が彼に教えてくれた「見えないものの中に真実がある」というメッセージを胸に、新たな「心眼の絵師」として、生き続けることを誓った。
彼の描く絵は、墨の濃淡と、彼自身の内面の光によって、見る者の心に「残像」として深く刻まれる。それは、愛する女性の魂と共に生き、その「残像」を未来へと繋ぐ、記憶の芸術だった。風が、廃屋の朽ちた窓枠を優しく揺らす。その音の中に、朔は、小夜の優しい囁きを聞いた。
「朔、あなたの絵は、今、最も美しい色を宿しているわ。」