色彩を持たぬ心

色彩を持たぬ心

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***第一章 無色の依頼人***

江戸の空は、今日も無数の色で満ちていた。
桐生蒼馬(きりゅう そうま)の目には、行き交う人々の心が、その身から立ち上る陽炎のような色彩として映る。怒りは燃えるような深紅、欲望は粘つくような黒紫、喜びは弾ける黄金の粒子。かつては藩の有望な剣士であった彼が、刀を捨て、この江戸の片隅でからくり師として息を潜めるようになったのは、この生まれついての異能のせいだった。人の心の裏側、その醜い色彩の渦に耐えられなくなったのだ。

蒼馬の工房は、客のほとんど来ない裏路地にひっそりと佇んでいる。彼は歯車やぜんまいと向き合うことで、混沌とした外界の色から逃避していた。鉄の冷たさ、油の匂い、規則正しく時を刻む音。それらには色がなかった。それが何よりの救いだった。

その日も、蒼馬は客の壊れたからくり時計の修理に没頭していた。外の喧騒が発するどす黒い感情の奔流に耳を塞ぐように。その時、戸口に小さな影が落ちた。振り向くことなく、蒼馬はぶっきらぼうに声をかける。
「うちは壊れたからくりの面倒しか見ん。人の心の面倒は、しかるべき場所へ行け」
いつものように追い払おうとした。しかし、返ってきたのは、鈴を転がすような、それでいて芯のある少女の声だった。
「人探しをお願いできないでしょうか」

蒼馬は苛立ちと共に顔を上げた。そこに立っていたのは、十二、三ほどの切り揃えた髪が愛らしい少女だった。粗末な着物を着ているが、その立ち姿には不思議な気品があった。だが、蒼馬が息を呑んだのは、その容姿ではなかった。

少女から、何の色も発せられていない。

それは蒼馬にとって、ありえない光景だった。赤子でさえ、欲求の淡い乳白色や、不快の灰色を放つ。聖人のような高僧ですら、迷いの薄紫や、慈愛の柔らかな桃色を纏うものだ。しかし、目の前の少女は完全に「無色透明」だった。まるで、そこに心が無いかのように。
「……人違いだ。俺は便利屋じゃない」
蒼馬は動揺を隠し、再び手元に視線を落とした。この異常な存在に関わるべきではない。本能が警鐘を鳴らす。
「兄を探しているのです。清十郎と申します。江戸で一番の刀鍛えじでした」
少女はまっすぐに蒼馬を見つめて言う。その瞳は、深い井戸の底のように静かで、何の感情も映していなかった。
「なぜ俺なんだ。役人に頼め」
「あなたの噂を聞きました。桐生様は、誰も見つけられぬものを見つけ出す、と。兄が最後に口にしたのが、あなたの名前でした」
「俺の名だと?」
初耳だった。刀鍛冶に知り合いなどいない。だが、それ以上に蒼馬の心を捉えて離さなかったのは、少女の「無色」だった。この世の理から外れた存在。醜い色に満ちた世界で、唯一、彼を苛まない存在。その謎に、抗いがたい好奇心が疼いた。
「……話を聞こう。名は?」
「千代、と申します」
千代と名乗る少女は、小さく頭を下げた。その瞬間も、彼女の周りには一片の色彩も生まれなかった。蒼馬は、自らが底知れぬ淵に足を踏み入れたことを予感しながら、静かに頷いた。

***第二章 濁色の追跡***

千代の兄、清十郎の足跡を追う日々が始まった。蒼馬は、久方ぶりに工房の外、人間たちの感情が渦巻く濁流の中へと身を投じることになった。
まず向かったのは、清十郎が仕事場にしていたという鍛冶場だった。そこは既に主を失い、冷たい鉄の匂いだけが漂っていた。近隣の者たちに聞き込みをすると、彼らの周りには、好奇心の黄色と、厄介事を避けたいという警戒の鈍い灰色がまとわりつく。
「清十郎さんかい?腕は確かだったが、近頃は妙な連中とつるんでたねぇ」
口にした男の周りには、嫉妬の淀んだ緑色がちらついている。清十郎の才能を妬んでいたのだろう。蒼馬は内心で舌打ちしながらも、その「妙な連中」について詳しく尋ねた。

浮かび上がってきたのは、「無心会」と名乗る浪人一派の存在だった。彼らは、感情こそが人を迷わせ、世を乱す元凶だと説き、心を無にすることで真の強さを得られると嘯いているという。清十郎は、その一派のために特別な刀を打っていたらしい。
「無心、か……」
蒼馬は呟いた。感情の色に苦しめられてきた彼にとって、それは皮肉な響きを持つ言葉だった。
調査を進めるほどに、蒼馬は江戸の暗部に深く分け入っていくことになった。賭場を仕切る胴元の、強欲に輝く真紅の色。情報を売る男の、嘘で塗り固められた虹色のオーラ。無心会を追う役人の、手柄を焦るギラギラとした橙色。見るもの全てが、彼の人間不信を増幅させた。

何度も、こんな調査は投げ出してしまおうと思った。だがそのたびに、脳裏に千代の「無色」の姿が浮かぶのだ。あの静謐な存在が、この濁色の世界で唯一の救いのように思えた。
「桐生様」
ある夜、工房に戻ると、千代が戸口で待っていた。彼女は黙って、蒼馬のために握り飯を差し出した。温かい湯気が立つ握り飯。しかし、彼女自身からは何の感情の色も立ち上らない。それは、気遣いからくる柔らかな光でも、感謝の暖色でもなかった。ただ、そこにあるだけの、空っぽの行為。
「お前は……兄が戻ってきたら、嬉しいか?」
蒼馬は、試すように尋ねた。
「……わかりません」
千代は小さく首を振った。「嬉しい」という感情が、彼女には理解できないのだ。
「ただ、兄は戻ってくるべきだと思います。それが、そうあるべきことだからです」
その言葉は、まるでからくりの人形が筋書きを読むかのようだった。蒼馬は胸に冷たいものが流れ込むのを感じた。千代の無色は、純粋無垢の証などではないのかもしれない。それは、もっと恐ろしい、根源的な欠落なのではないか。
清十郎が関わる「無心会」。そして、感情を持たない妹、千代。点と点が繋がり、蒼馬の心に一つの悍おぞましい仮説が形を結び始めていた。

***第三章 無心の真実***

ついに蒼馬は、無心会のアジトが廃寺にあることを突き止めた。月明かりだけが頼りの夜、彼は寺の屋根に忍び、本堂の様子を窺った。
そして、彼は己の目を疑った。
本堂には数十人の男たちが集っていた。異様なのは、その全員が、千代と同じく「無色透明」だったことだ。彼らは表情もなく、まるで能面のように静かに座している。その中央に、一人の男が立っていた。清十郎だ。彼は、抜き身の刀を手に、何かを語っていた。
「心は枷だ。怒りは判断を誤らせ、悲しみは刃を鈍らせる。我らはその枷を断ち切り、真の静寂を手に入れた。この『心削ぎ(こころそぎ)』こそが、濁った世を救う唯一の道なのだ!」
清十郎が掲げた刀は、不気味なまでに青白い光を放っていた。まるで刀身そのものが、周囲の光を吸い込んでいるかのようだ。

蒼馬は息を殺し、その光景を見つめていた。彼の悍ましい仮説が、最悪の形で現実となった瞬間だった。清十郎は、人の感情を消し去る方法を見つけ出したのだ。おそらく、あの妖刀こそがその鍵なのだろう。
千代も、兄の実験台にされたのだ。彼女の無色は、生まれつきのものではなかった。奪われたのだ。
その事実に、蒼馬の心の奥底で、長い間忘れていた感情が激しく燃え上がった。それは、義憤という名の、燃え盛る深紅の炎だった。醜いと嫌悪してきたはずの「色」が、今、彼の全身を駆け巡っていた。

蒼馬は、機を窺い、寺の奥にあるという鍛冶場に潜入した。そこには、数本の「心削ぎ」がまるで墓標のように並べられていた。その一つを手に取ると、ぞわりと肌が粟立った。刀が、蒼馬自身の感情の色を吸い取ろうとしているのが分かった。
「お前が桐生蒼馬か」
背後から声がした。清十郎だった。彼の周りもまた、完全な無色だった。
「妹から話は聞いている。お前も我らと同じ、この世の醜い色彩に辟易しているのだろう。お前ほど、我らの理想を理解できる者はおるまい」
清十郎の目は、千代と同じく静かな井戸の底だった。だが、その奥には狂信的な光が宿っている。
「千代にしたことと同じことを、全ての人間にするつもりか」
蒼馬は、感情を吸い取ろうとする刀の力に抗いながら、低い声で問うた。
「そうだ。感情こそが争いの源だ。それさえなければ、世は平穏になる。私はこの世を救いたいのだ」
清十郎は、救世主のような口ぶりで言った。彼は、蒼馬と同じものを見て、同じように絶望し、そして全く異なる結論に至ったのだ。
「お前が作ったのは平穏な世界じゃない。ただの、人形の箱庭だ」
蒼馬の言葉に、初めて清十郎の無色の輪郭がわずかに揺らいだ。
「……何だと?」
「喜びも、悲しみも、怒りも、嫉妬も……その醜い色でさえ、人が生きている証だ。お前は、妹から生きている証を奪ったんだぞ!」
蒼馬の叫びは、工房に響き渡った。彼は、これまで自分が目を背けてきた、人間の感情そのものを、今、必死に肯定しようとしていた。千代の、あの空っぽの瞳を思い出す。彼女に、本当の笑顔を取り戻してやりたい。初めて、彼は他人のために、心の底からそう願った。その願いは、鮮やかな青い光となって、蒼馬の全身から溢れ出した。

***第四章 心彩、再び***

「ならば、お前のその醜い色も削ぎ落としてやろう」
清十郎が「心削ぎ」を構え、襲いかかってきた。その剣筋は、一切の迷いも躊躇もない、機械のように正確無比なものだった。感情がないゆえの、恐るべき強さ。
対する蒼馬は、工房にあった打ちかけの刀を手に取った。もはや剣の腕は鈍っている。だが、彼の内には、かつてないほどの感情の奔流が渦巻いていた。千代への想い、清十郎への怒り、そして、人間という存在そのものへの複雑な愛憎。それら全ての色が、彼の刃に力を与えていた。

二人の剣が、火花を散らす。無心の一撃と、万感の一撃。静と動の、あまりにも対照的な剣戟だった。清十郎の剣は蒼馬の体を掠め、そのたびに彼の感情の色が薄れていく。力が抜けていくのが分かった。しかし、蒼馬は歯を食いしばった。
(消えてたまるか。この色こそが、俺が俺である証なのだ)
彼は清十郎の剣の、その中心を見据えた。全ての元凶、あの青白く光る刀身を。
一瞬の隙。蒼馬は、己の身を顧みず、深く踏み込んだ。清十郎の刃が蒼馬の肩を深く裂く。激痛と共に、視界が白んでいく。だが、それと引き換えに、蒼馬の刃は確かに清十郎の「心削ぎ」の刀身を捉えていた。

甲高い金属音と共に、「心削ぎ」が砕け散った。
その瞬間、刀に封じ込められていたおびただしい量の感情が、濁流となって解放された。本堂にいた無色の男たち、そして清十郎自身にも、奪われたはずの感情が奔流のように流れ込む。
「ぐ……あああああっ!」
人々は、突然流れ込んできた感情の洪水に耐えきれず、頭を抱えて叫び、蹲った。喜び、悲しみ、怒り、憎しみ、愛情。忘れ去っていた色の奔流が、彼らを打ちのめしていた。清十郎もまた、膝から崩れ落ち、その瞳から大粒の涙を流していた。それは、己が犯した罪への後悔か、それともただの感情の暴走か。

蒼馬は、肩の傷を押さえながら、ふらつく足で寺を後にした。背後で役人たちが駆け込んでくる声が聞こえた。
工房に戻ると、千代が蒼馬の帰りを待っていた。彼はずっと、彼女の無事を案じていた。
「桐生様……」
駆け寄ってきた千代を見て、蒼馬は息を呑んだ。
彼女の体から、淡く、儚い光が立ち上っていた。それは、兄を案じる悲しみと、蒼馬の無事を喜ぶ安堵が入り混じった、美しい「藤色」だった。
「……お怪我は」
千代の瞳には、初めて感情の光が宿っていた。涙が、その白い頬を伝う。
「大したことはない」
蒼馬は、痛みも忘れ、微笑んだ。それは、何年ぶりかに浮かべた、心からの笑みだった。

事件の後、清十郎は姿を消した。無心会の者たちは捕らえられたが、感情を取り戻した彼らは、もはやただの抜け殻のようになっていたという。
蒼馬は、からくり師としての日常に戻った。しかし、彼の見る世界は、以前とは全く違って見えた。
江戸の街に渦巻く、醜く、混沌とした色彩。だが今は、その一つ一つが、懸命に生きる人々の証なのだと思えた。欲望の黒も、嫉妬の緑も、全てが混ざり合って、この世界という一枚の絵を織りなしている。その混沌とした美しさを、彼はようやく受け入れることができた。

時折、千代から手紙が届く。田舎の遠縁に引き取られた彼女は、初めて感じる様々な感情に戸惑いながらも、一つ一つを大切に味わっていると、拙い文字で綴っていた。
『昨日、夕焼けを見て、なぜか涙が出ました。これは、悲しいという色なのでしょうか。それとも、美しいという色なのでしょうか』
蒼馬は、その手紙を読みながら、窓の外に広がる江戸の空を見上げた。
今日も空は、無数の人々の想いを映して、数えきれない色で満ちている。その複雑で、不確かで、どうしようもなく美しい色彩を、彼は静かに見つめていた。

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