言の葉の鉛

言の葉の鉛

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***第一章 軽くなる人々***

江戸の町が、奇妙な病に侵され始めたのは、蝉時雨が盛りを過ぎた頃だった。それは熱でもなく、咳でもない。人が、ただひたすらに「軽く」なるのだ。

始まりは、米問屋の隠居、徳兵衛だった。ある朝、彼は縁側で茶をすすっていたかと思うと、ふわりと体が浮き上がり、秋のうろこ雲に吸い込まれるように消えてしまったという。残されたのは、まだ湯気の立つ湯呑みだけ。まるで、魂の重しが抜けてしまったかのように。

次に消えたのは、寺子屋の師匠。子供たちに「誠を尽くせ」と説いていた実直な男だった。彼は子供たちの目の前で、書きかけの墨痕も鮮やかな半紙と共に、天井へと舞い上がり、梁の隙間から空の彼方へ消え去った。

噂は瞬く間に江戸八百八町を駆け巡った。消えるのは決まって、欲がなく、嘘をつかず、誰からも慕われる善人ばかり。「善人ほど、魂が軽くなり、天に召されるのだ」と囁く者もいれば、「物の怪の仕業だ」と戸板に釘を打ち付ける者もいた。町は、目に見えぬ恐怖に覆われ、人々は互いの言葉にすら疑心暗鬼を抱き始めた。

この奇怪な事件の調査を任されたのは、南町奉行所のはぐれ者、茅野宗助(かやの そうすけ)だった。彼は元は腕利きの武士だったが、今は「言葉守(ことばもり)」という奇妙な役職に就いている。

宗助には、特異な才があった。彼は、人の言葉に宿る「重さ」を感じ取ることができるのだ。真実の言葉は心地よい重みを持ち、嘘偽りの言葉は、冷たく、ずしりとした鉛のように感じられる。その才ゆえに、彼は多くの嘘つきを暴いてきたが、同時に、自らもまた、一つの重い嘘をその身に背負い続けていた。

「また、消えたそうだ。今度は桶屋の女房らしい」
同僚の与力が、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「これで五人目だ。旦那、何か掴めましたかい?」
宗助は何も答えず、ただじっと畳の目を見つめていた。彼の肩には、見えないはずの重圧がのしかかり、呼吸すら億劫に感じられた。それは、この事件の不可解さからくるものではない。彼が長年背負い続けている、過去の嘘の重さだった。

「消えた者たちに共通点はあるか」
宗助がかろうじて絞り出した声は、ひどく低く、くぐもっていた。
「へえ。皆、それはもう絵に描いたような善人でさあ。嘘一つつけねえような、正直者ばかりで」
正直者ほど、軽くなる。
その言葉が、宗助の心に冷たい楔を打ち込んだ。ならば、自分のように重い嘘を背負う者は、決して消えることはないのだろうか。彼は自嘲気味に口の端を歪め、ゆっくりと立ち上がった。その一挙手一投足が、まるで深い水底を歩くかのように、ひどく緩慢だった。

「現場へ行く」

宗助は、この事件の底に潜む、途方もない「軽さ」の正体を突き止めねばならなかった。それは、自らが背負う「重さ」の意味を、彼自身に問い直す旅の始まりでもあった。

***第二章 言葉の重さと清らかな乙女***

桶屋の長屋は、空っぽの家財ががらんとした空間に寂寥感を漂わせていた。消えた女房の夫は、抜け殻のように座り込み、ただ一点を見つめている。宗助が何を尋ねても、彼の言葉はひどく軽く、宙を舞う塵のように実体がなかった。妻への愛情、思い出、悲しみ。それら全てが、重さを失ってしまっているかのようだった。

調査は難航を極めた。関係者たちの言葉は、どれもこれも嘘偽りのない、清らかなものばかり。宗助の才は、ここでは何の役にも立たなかった。嘘を見抜くことはできても、真実の奥にある真実を探ることはできない。彼は己の無力さに、背負う重さがさらに増すのを感じていた。

そんな折、宗助は一人の娘と出会った。名を小夜(さよ)という。彼女は、最初に消えた米問屋、徳兵衛の一人娘だった。透き通るような白い肌に、墨で描いたような黒髪。その佇まいは、まるで雨上がりの庭に咲く白百合のように、凛として清らかだった。

「父は、本当に正直な人でした。曲がったことが大嫌いで、誰に対しても誠実でした。だから…だから、天がお召しになったのでしょうか」
小夜の言葉には、一点の曇りもなかった。悲しみに濡れた声は、鈴の音のように宗助の耳に届き、心地よい重みとなって心に染みた。それは、宗助が久しく感じたことのない、純粋な真実の響きだった。

宗助は、知らず知らずのうちに小夜に惹かれていった。彼女と話している時だけは、肩にのしかかる鉛の重さが、少しだけ和らぐような気がした。彼女の言葉は、乾いた心に染み渡る清水のようだった。

彼は、小夜に自身の過去を打ち明けた。
かつて、彼には病に伏せる幼い妹がいた。日に日に衰弱していく妹に、宗助はただ寄り添うことしかできなかった。死を悟った妹が、か細い声で「兄様、私は治るよね?」と尋ねた時、宗助は、生涯で一度きりの、そして最も重い嘘をついた。
「ああ、治る。すぐに良くなって、また一緒に野原を駆け回ろう」
その言葉を聞き、妹は安心したように微笑んで、翌朝、静かに息を引き取った。
その日からだ。宗助の体に、鉛のような重さが宿り始めたのは。妹を安らかにするための嘘。愛ゆえの偽り。だが、嘘は嘘だ。その重さは、彼の魂に深く食い込み、片時も彼を解放しようとはしなかった。

「あなたは、お優しいのですね」
話を聞き終えた小夜は、そう言って静かに微笑んだ。その瞳は深い慈愛に満ちており、宗助は救われたような気持ちになった。この人ならば、この重さの意味を分かってくれるかもしれない。淡い期待が、彼の胸に芽生え始めていた。

しかし、事件は新たな局面を迎える。今度は、大店の若旦那が消えた。彼は放蕩の限りを尽くし、嘘と偽りで身を固めたような男だった。善人ばかりが消えるという法則が、初めて崩れたのだ。宗助は混乱した。事件の様相が、まるで掴みどころのない霧のように、その形を変え始めていた。

***第三章 言霊喰い***

若旦那が消えた現場で、宗助は微かな違和感を覚えた。部屋には、高級な白檀の香が焚き込められていたが、その奥に、嗅ぎ覚えのある香りが混じっている。それは、小夜が身にまとっていた、白百合のような甘く清らかな香りだった。

まさか。宗助は首を振って疑念を打ち消そうとした。あの清らかな乙女が、こんな事件に関わっているはずがない。彼女の言葉の、あの心地よい重みが、何よりの証拠だ。

だが、一度芽生えた疑念は、心の内で根を張り、宗助を苛んだ。彼は奉行所の古い書庫に籠り、人の魂や言葉にまつわる古文書を漁り始めた。何日も徹夜を重ね、埃と黴の匂いに塗れた末、彼はついに一つの記述を見つけ出す。

『古、言霊喰い(ことだまぐい)と呼ばれる一族あり。人の発する真実の言の葉を糧とし、生き長らえる。言霊を喰われた者は、存在の核を失い、影よりも軽くなりて、風に攫われ、天に溶けるという…』

全身の血が凍るような感覚に襲われた。人々が失っていたのは、嘘に対する正直さではない。愛、信念、希望、悲しみ…その人間の存在そのものを支える、「核となる真実の言葉」だったのだ。善人たちが先に狙われたのは、彼らの言葉が、より純粋で、言霊喰いにとって極上の糧だったからに過ぎない。

そして、放蕩者の若旦那。彼にも、たった一つだけ、純粋な真実があったのかもしれない。例えば、誰にも言えなかった、母への思慕の言葉。それさえも、喰われたのだとしたら…。

宗助は、震える手で書物を閉じ、小夜の屋敷へと走った。重い体がもどかしい。一歩進むごとに、足が地面に吸い付くようだ。

屋敷は静まり返っていた。庭の白百合だけが、月光を浴びて妖しく白い。縁側に座る小夜の姿を見つけた時、宗助は息を呑んだ。彼女は、ゆっくりと何かを口に含み、恍惚とした表情でそれを飲み下していた。その口元から、若旦那が焚いていたのと同じ、白檀の香りが漂ってくる。

「…お前だったのか」
宗助の声は、怒りと絶望で掠れていた。
小夜はゆっくりと振り返った。その顔は、もはや宗助が知る清らかな乙女のものではなかった。深く、昏い渇望を湛えた瞳が、彼を射抜く。

「ええ、私です」
彼女の言葉は、もはや心地よい重みを持っていなかった。空虚で、どこまでも軽い。
「人の心にある、たった一つの、最も美しい真実。それをいただくのが、私の天命。父の『お前がいてくれて幸せだった』という言葉は、それはそれは、甘美な味わいでしたわ」

宗助の価値観が、音を立てて崩れ落ちた。信じていたものが、足元から崩壊していく。彼は、彼女の言葉の「重さ」に騙されていたのだ。いや、違う。彼女が発する言葉そのものは、真実だったのだ。ただ、その真実が、あまりにもおぞましいだけで。

小夜は、ゆらりと立ち上がると、宗助に歩み寄った。
「あなたのことは、初めてお会いした時から分かっていました。あなたは、とても重い。けれど、それはただの嘘ではない。…あれは、妹君への深い、深い愛情。嘘という衣をまとった、極上の真実の言霊」
彼女はうっとりと目を細め、宗助の胸に手を伸ばした。
「さあ、それを私にくださいな。あなたのその重さこそ、私が長年求め続けた、最高の御馳走なのですから」

***第四章 嘘という名の真実***

絶望が、宗助の全身を支配した。彼が長年、罪悪感と共に背負い続けてきたこの重さ。それは呪いではなく、言霊喰いを惹きつける餌でしかなかったというのか。妹への想いが、この物の怪を喜ばせるだけだというのなら、あまりに惨めではないか。

小夜の指先が、宗助の胸に触れようとした瞬間。彼は、柄に手をかけた。斬るべきだ。これ以上の犠牲者を出す前に、この物の怪を滅さねばならない。それが言葉守としての使命だ。

しかし、刀を抜くことができなかった。彼女を斬ることは、妹への想いを、この重さを、自ら否定することになるような気がした。この重さは、苦しい。だが、確かに妹と自分とを繋ぐ、唯一の絆だった。これを失えば、自分は本当に空っぽになってしまう。

「どうしました?私を斬らないのですか?」
小夜が、子供のように無邪気に首を傾げた。その瞳には、善悪の概念すらない。ただ、生きるための渇望があるだけだ。

その時、宗助の脳裏に、息を引き取る直前の妹の、安らかな笑顔が蘇った。
そうだ。俺の嘘は、妹を救ったのだ。たとえそれが偽りであったとしても、あの瞬間、妹の世界では、それは紛れもない真実だった。そして、その真実が、彼女に穏やかな最期を与えた。

ならば。

宗助は、ゆっくりと刀を鞘に戻した。そして、目の前の物の怪を、小夜を、真っ直ぐに見据えた。
「喰らえ」
静かな、しかし、揺るぎない声だった。
「お前が欲しいのは、俺の言葉だろう。ならばくれてやる。だが、ただではやらん」

宗助は、目を閉じた。彼の全存在が、一つの言葉を紡ぐために集中していく。肩に、背に、足に絡みつく、あの鉛の重さ。罪悪感、後悔、そして、その奥底にある、妹へのどうしようもないほどの愛情。その全てを、これから放つ言葉に乗せる。

「俺の妹は、今も生きている。俺の心の中で、あの日の笑顔のまま、ずっと。俺がこの重さを背負い続ける限り、妹は永遠に生き続ける。…これが、俺の嘘で、俺の真実だ」

その言葉が放たれた瞬間、凄まじい「重さ」が奔流となって宗助の体から溢れ出した。それはもはや鉛などではない。星々を砕くほどの質量を持った、愛と偽りの凝縮体だった。

「あ…ぁ…」
小夜は、その圧倒的な言霊の重圧にひれ伏した。彼女が今まで喰らってきた、どんな純粋な真実よりも、それは重く、熱く、そして、あまりにも人間的だった。それは、ただ甘美なだけの糧ではない。痛みも、悲しみも、罪も、全てを内包した、魂そのものの重さだった。

彼女は、それを喰らうことができなかった。その重さに触れただけで、彼女自身の空虚な存在が、押し潰されてしまいそうだった。
「こんな…こんな重い言葉は…いらない…」
小夜は涙を流しながら後ずさり、その体は月光の中で徐々に透き通っていった。彼女は、自らが喰らってきた無数の真実の軽さに耐えきれなくなったかのように、塵となって夜の闇に溶けて消えた。

事件は、こうして終わった。
江戸の町から、人が軽くなる病は消え失せた。しかし、宗助の体から、あの重さが消えることはなかった。

だが、もはやその重さは、彼にとって呪いではなかった。彼は胸を張り、その重さを感じながら、一歩、また一歩と、江戸の町を歩いていく。その足取りは相変わらず重い。しかし、以前のような絶望の色はない。地面を確かに踏みしめる、確かな一歩だった。

言葉には重さがある。
そして、時として最も重い言葉は、愛という名の嘘の中にこそ、隠されているのかもしれない。宗助は、背中に差す夕陽の暖かさを感じながら、今は亡き妹に、心の中でそっと語りかけるのだった。

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