宵闇の錠

宵闇の錠

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神田の裏通り、陽の当たらぬ一角に、錠前師・辰五郎の仕事場はあった。腕は江戸一番と噂されたが、今の彼が手掛けるのは、古びた長屋の引き戸や、使い古された銭箱の簡単な修理ばかり。かつて彼の槌が生み出した精巧な錠前は、もう何年も作られていなかった。

雨がしとしとと降り続く昼下がり、工房の戸口に、すっと影が落ちた。濡れた蛇の目傘から現れたのは、藤色の小袖に身を包んだ武家の女だった。年は二十代半ばか、整った顔立ちには、洗い流されたような深い憂いが影を落としていた。

「錠前師の辰五郎殿とお見受けいたします」
凛とした声に、辰五郎は火箸を置いた。
「いかにも」
「お絹と申します。あなた様に、お願いがあって参りました」

お絹と名乗る女は、袱紗に包まれた桐の文箱を差し出した。
「この文箱に、決して開かぬ錠をお作りいただきたいのです。誰にも、未来永劫……」
その言葉に、辰五郎の眉がぴくりと動いた。脳裏に、炎の赤と、人々の悲鳴が蘇る。五年前に作った『不落の錠』。それが盗賊の手に渡り、豪商の一家が皆殺しにされた。己の技術が、悲劇を招いたのだ。

「お断りだ」
辰五郎の声は、錆びた鉄のように冷たかった。「開かぬ錠などというものはない。また、作るべきでもない。錠前は人を生かしもするが、殺しもする」
「お待ちください!」
お絹はすがるように膝を進めた。「この中には、亡き夫の名誉が……夫が命懸けで守ったものが、入っております。これを悪しき者の手から守ることこそ、残された私の務めなのです」
彼女の瞳は雨に濡れた紫陽花のように潤み、そこには偽りのない必死さが宿っていた。辰五郎は、その瞳から目を逸らすことができなかった。

お絹は、それから毎日、雨の日も風の日も工房を訪れた。無理強いはせず、ただ静かに辰五郎の仕事を見つめ、ぽつりぽつりと亡き夫の思い出を語った。実直で、正義感の強い人だったと。辰五郎は無言で槌を振るい続けたが、彼女の纏う深い悲しみと、守ろうとする一途な想いは、凍てついた彼の心を少しずつ溶かしていった。己の技で、今度こそ何かを守れるのではないか。過去を贖えるのではないか。

十日目の朝、辰五郎は口を開いた。
「……引き受けた」
その一言に、お絹の顔がぱっと輝いた。辰五郎は、その日から工房に籠り、寝食を忘れて仕事に没頭した。火床の炎が彼の顔を赤く照らし、鋼を打つ甲高い音が、宵闇に響き渡った。偽の鍵穴、音で仕掛けを判別する罠、寸分違わぬ細工。彼の持つ全ての技術が、小さな錠前へと注ぎ込まれていく。これは、己の魂を刻む最後の仕事になるかもしれなかった。

錠前が完成を間近に控えた月夜の晩、工房の戸が静かに叩かれた。そこに立っていたのは、鋭い目つきをした一人の侍だった。
「榊原主馬(さかきばらしゅめ)と申す。お絹の亡き夫の弟だ」
主馬と名乗る侍は、辰五郎の目を真っ直ぐに見据え、衝撃の事実を告げた。
「姉上が、文箱の中身を亡き夫の名誉と申されたか。それは偽りだ。中にあるのは、我が藩の家老による不正の証文。兄は、その不正を正そうとして家老に暗殺されたのだ」
辰五郎は息を呑んだ。
「姉上は……お絹殿は、家老に脅されている。証文を永久に封じ込めるよう、命じられているのだ。さもなくば、残された榊原家の者たちの命はない、と」
主馬の声は、怒りと悲しみに震えていた。「頼む。開かぬ錠前など作らないでくれ。兄の無念を晴らすには、あの証文が必要なのだ。開けるべき者が、開けるべき時に開けられる錠前を……!」

辰五郎の頭は混乱した。お絹の悲しげな瞳は、恐怖に歪んだ仮面だったのか。それとも、この男が己を欺こうとしているのか。どちらを信じるべきか。どちらを裏切ることになるのか。己の作るこの小さな鉄塊が、またしても人の運命を、藩の正義を左右する。槌を握る手が、重く感じられた。

数日後、完璧な錠前が完成した。約束の日、辰五郎はお絹の屋敷を訪れ、桐の文箱にその錠前を取り付けた。複雑な龍の彫刻が施された錠前は、いかなる者も拒絶するような威厳を放っている。
「……ありがとうございます。これで、夫も安らかに眠れることでしょう」
お絹は涙を浮かべ、深く頭を下げた。

辰五郎は黙って頷き、部屋を辞そうとした。そして、すれ違いざま、お絹にだけ聞こえる声で囁いた。
「この錠には、たった一つの『音』が仕込んであります。槌でも、石でもよい。錠の龍の目を、三度、静かに叩く。すると中の仕掛けが一つ、外れる。あとは……」
彼はそっと、簡素な一本の鍵をお絹の冷たい手のひらに握らせた。それは、何の変哲もない、ただの鉄の鍵だった。
「錠前は、守るためにある。しかし、時には……開ける勇気も必要でございましょう。道を選ぶのは、あなた様だ」

お絹はハッと顔を上げた。その瞳には、驚きと、恐怖と、そして一条の強い光が宿っていた。辰五郎はそれ以上何も言わず、屋敷を後にした。

ひと月後、江戸の町に噂が流れた。とある藩で家老の長年にわたる不正が暴かれ、失脚したと。その改革の中心に立ったのは、亡き藩士の弟、榊原主馬という若き侍だったという。

神田の裏通りでは、辰五郎が相変わらず古びた錠前を相手に槌を振るっている。しかし、工房に響くその音は、以前よりもどこか晴れやかで、力強い。彼は知ったのだ。錠前はただ固く閉ざすだけではない。いつか来るべき未来のために、希望を開く鍵でもあるのだということを。夕暮れの光が、彼の横顔を静かに照らしていた。

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