***第一章 幻の刃(やいば)***
火の粉が闇に舞い、ちりちりと音を立てて消える。父亡き後の工房は、楓(かえで)にとって世界のすべてだった。ふいごを踏む足の感触、槌が鋼を叩く甲高い響き、そして鉄が放つ独特の匂い。そのすべてが、名工と謳われた父・源斎(げんさい)の記憶に繋がっている。楓は、男ばかりの職人の世界で、父の跡を継ぐことだけを夢見ていた。
その日、楓は父の形見である脇差の手入れをしていた。油を染み込ませた布で刀身を拭うと、水面のように澄んだ地鉄に、波打つような刃文が静かに浮かび上がる。父の技の結晶。これこそが、あらゆるものを断ち切る絶対の「強さ」だと、楓は信じて疑わなかった。
不意に、工房の土間に影が落ちた。振り向くと、そこに一人の侍が立っていた。歳は三十代半ばだろうか。着流し姿だが、その佇まいには隙がなく、鞘に収められた刀の柄に置かれた指は、幾多の修羅場を越えてきた者のそれだった。
「ここが、刀鍛冶・源斎殿の工房か」
低いが、よく通る声だった。楓は脇差を置き、居住まいを正した。
「父は三年前に他界いたしました。何か、ご用でしょうか」
侍の鋭い目が、楓と、その手元にあった脇差を射抜くように見つめた。
「あんたが娘の楓殿か。源斎殿が死ぬ直前に打ったという、幻の刀を探している」
「幻の刀……?」
初耳だった。父は生前、そのような話は一切していなかった。楓が知る限り、父が最後に打ったのは、この形見の脇差のはずだ。
「父にそのような刀はありません。何かの間違いでは」
楓が訝しげに答えると、侍はふっと息を吐き、凍てつくような言葉を放った。
「そうか。だが、一つだけ教えておこう。おぬしの父、源斎は、川で足を滑らせたような、ただの事故で死んだのではない」
楓の心臓が、氷の塊で打たれたように冷たくなった。
「……何をおっしゃるのですか」
「あの刀だ。父上が命を懸けて打った幻の刀が、父上を殺したのだ」
侍はそれだけ言うと、身を翻し、夕暮れの闇に溶けるように去っていった。残されたのは、不吉な言葉の響きと、楓の心に深く突き刺さった疑念の棘だった。父の死は、ただの不慮の事故ではなかった? では、一体誰が、何のために。そして、幻の刀とは何なのか。
楓は、しん、と静まり返った工房で、打ちかけのまま冷たくなった鉄塊をじっと見つめた。今日まで信じてきた日常が、音を立てて崩れ始めていた。
***第二章 父の面影***
あの日以来、楓の心は静かな熱を帯びていた。侍の言葉が、脳裏で何度も繰り返される。父の死の真相を突き止める。そのためには、まず「幻の刀」を見つけ出さねばならない。
楓は、父が遺した手記や図面を片っ端から調べ始めた。埃をかぶった帳面の間に、一枚の和紙が挟まっていた。そこには、見たこともない複雑な刃文の図案と、震えるような筆跡で二つの文字が記されていた。
『鳴神(なるかみ)』
これだ、と楓は直感した。これが幻の刀の名に違いない。しかし、それ以上の手がかりは工房のどこにもなかった。途方に暮れかけた楓の前に、あの侍が再び姿を現した。名を隼人(はやと)と名乗った彼は、楓の覚悟を見透かしたように、ぽつりと呟いた。
「親父さんの晩年の仕事を知る者がいる。京の西陣にいる織物の商人だ。訪ねてみるといい」
楓は、隼人の言葉を頼りに旅支度を整えた。父が打った脇差を固く帯に差し、慣れない草鞋で京を目指す。西陣でようやく探し当てた老商人は、源斎の名を聞くと、懐かしそうに目を細めた。
「源斎殿には、それは見事な裁ち鋏を作っていただいた。だが、晩年は人が変わったようじゃった。何かに憑かれたように工房に籠もり、『人を斬らぬ刀を打つ』などと、訳の分からぬことを……」
人を斬らぬ刀? 矛盾した言葉に、楓は混乱した。父は、誰よりも「斬れる」刀を追求していたはずだ。旅の道中、楓は父と取引のあった他の職人たちも訪ね歩いた。彼らの口から語られる父の姿は、楓の知る「実直で寡黙な名工」という面影とは少しずつ異なっていた。ある者は「何かに怯えているようだった」と言い、ある者は「途方もない偉業を成し遂げようとしているのだと、目を輝かせていた」と語った。
父の本当の姿が、分からなくなっていく。楓は焦りと共に、自分の未熟さを痛感していた。父の技術を継ぐと言いながら、自分は父の心の奥底にあった苦悩も情熱も、何一つ理解していなかったのだ。夜、宿で一人、父の脇差を抜いてみる。冷たい鋼の輝きは、以前と何も変わらない。だが、今の楓には、その輝きがまるで父からの問いかけのように思えた。お前は、この鉄の何を分かっているのだ、と。
***第三章 鳴神の鎮魂歌(レクイエム)***
父の足跡を追い続けた末、楓はついに「鳴神」の在り処を示す最後の情報に辿り着いた。それは、かつて源斎が懇意にしていたという山寺の住職が、死の間際に遺した言葉だった。「源斎様の魂は、山の頂にある白蛇の社に鎮まっておられる」
霧深い山道を、楓は一心不乱に登った。息が切れ、足は鉛のように重い。それでも、父の真実に近づいているという確信が、彼女を前へ前へと突き動かした。苔むした石段を登りきると、ひっそりと佇む古い社が姿を現した。その社の奥、御神体として安置された桐の箱に、探していた刀は納められていた。
楓が震える手で箱を開けようとした、その時だった。背後の霧の中から、静かな声がした。
「ここまで来たか、楓殿」
隼人だった。彼はいつからそこにいたのか、音もなく楓の傍らに立っていた。
「隼人殿……あなたも、この刀を」
「ああ。だが、俺の目的はおぬしとは違う」
隼人はゆっくりと鞘から刀を抜いた。その刀身を見て、楓は息を呑んだ。それは、まぎれもなく父・源斎が打った刀だった。だが、楓の知るどの刀とも違う、静かで、どこか物悲しい光を放っていた。
「俺は、源斎殿の最後の弟子だ」
隼人の告白は、衝撃的だった。
「俺はかつて、ある戦で多くの者を斬り、心に癒えぬ傷を負った。夜ごと悪夢にうなされ、人の姿をした鬼になりかけていた。そんな俺を救うため、師匠は生涯の技を懸けて一本の刀を打ってくれた。それが『鳴神』だ」
隼人は、社の御神体となっている刀を指した。
「『鳴神』は、人を斬るための刀ではない。持ち主の心にある憎しみ、怒り、殺意……そうした業を、その刀身に吸い上げてくれるのだ。人を斬るのではない。人の心を巣食う鬼を『斬る』ための、鎮魂の刀だ」
刀身に浮かび上がる奇妙に美しい文様は、隼人が捨て去った憎しみの跡なのだという。
「師匠は、この刀の力を知った藩の重役に目をつけられた。その力を利用し、兵士たちを恐れを知らぬ殺人機械に変えようと企んだのだ。師匠はそれを拒み、鳴神をこの社に隠し、口封じのために……殺された」
すべてが、繋がった。父が「人を斬らぬ刀」と言っていた意味も、何かに怯え、同時に情熱を燃やしていた理由も。父は、人を殺す道具の極致を目指していたのではない。人を、その苦しみから救うための鋼を打とうとしていたのだ。
「斬る」ことこそが刀の本質であり、父の技の神髄だと信じてきた楓自身の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。涙が、とめどなく頬を伝った。
***第四章 鉄の心***
楓は、御神体の箱に手を触れなかった。それは父と隼人の、血と魂で結ばれた絆の証だ。自分が入るべき領域ではない。
「この刀は、あなたがお守りください」
楓が言うと、隼人は静かに頷いた。彼の目に、初めて柔らかな光が宿るのを楓は見た。
故郷の村へ帰った楓は、工房の炉に再び火を入れた。だが、もう彼女の心に、父の幻の刀を追い求める執着はなかった。代わりに、一つの確かな目標が生まれていた。父が最期に目指した「人を活かす鉄」を、自分なりの形で見つけ出すこと。
楓は、刀を打つのをやめた。その代わり、村人たちのために、農具を打ち始めた。鋤や鍬、鎌。一本一本に魂を込め、どうすればもっと土を楽に耕せるか、どうすれば作物が豊かに実るかを考え抜いた。彼女が打った農具は、まるで生きているかのように使い手の手に馴染み、固い大地を柔らかく解きほぐした。
数年の月日が流れた。楓の工房は「命を育む鉄を打つ鍛冶屋」として、遠方までその名を知られるようになっていた。ある春の昼下がり、楓が真っ赤に焼けた鉄を槌で打っていると、工房の軒先に、一輪の山吹の花がそっと置かれているのに気づいた。山吹の花言葉は「気品」、そして「待ちかねる」。遠いどこかで自分を見守ってくれているであろう隼人からの、無事を知らせる便りだった。
楓は空を見上げ、晴れやかに微笑んだ。
もう、幻の刀を探す必要はない。父が追い求めた魂は、今、この場所で、確かに受け継がれているのだから。
カン、カン、と響き渡る槌の音は、もはや武器の鋭さではなく、日々の暮らしを支える温かな鼓動となって、村の空にどこまでも澄み渡っていった。
鋼の鎮魂歌(はがねのレクイエム)
文字サイズ: